目覚めて、そして
夜になり、背負っていた朱燈をそっと背中から下ろして、千景は周囲のF.Dレベルに目を向けた。F.Dレベルの値は3.2、許容できる値だ。
二人が今いる場所は街道上の駐車スペースだ。近くにトイレがあり、身を隠すには適していると考え、そこに潜んでいる。長らく使われなかったせいで大分匂いがきついが、体臭とどっこいどっこいのため、それほど気にするものではなかった。むしろ、臭いくらいで済んでラッキーだったかもしれない。変なフォールンのねぐらとかになっていないのだから。
寝息を立てている朱燈を便器の上に座らせ、千景はトイレのドアに背中を預けながら火を起こしはじめた。ものの少しで火起こしキットの中で小さな炎が灯り、フゥフゥと息を吹き込みながら千景はそれを維持していく。ほどよく大きくなったところで、それを地べたにおろした。
炎が起こったことに感謝する一方、それで焼くものもないためただ体を温める程度のことしかできない。漂ってくる可燃剤の香りに鼻をすぼめ、はぁ、と大きなため息を千景は吐いた。
目が覚めて、状況を確認した時に気が付いたことだが、腰にぶら下げていたゴアーの肉がなくなっていた。朱燈が食べたのかとも思ったが、生肉を食べるような質でもないから、おそらくは何かから逃げる際に投げ捨てたんだろう、と千景は推測した。ただでさえ重い自分とライフルを担いでいるのだから、少しは重量を減らしたいと思うのは自明だろう。
幸い、まだ軍用レーションが残っているからしばらく、少なくとも2日はなんとかなる。だが如何せん、それ以上は長続きしない。食料はともかく、水がないでは話にならない。
未踏破領域で水の確保はそれほど難しくはない。極論、雨水なり川の水でも問題はない。少なくとも影槍の保持者であれば一定量のF因子を鯨飲したとて、フォールン化すること可能性は万に一つもない。体内に混入したF因子は一定量であれば影槍のエネルギー源である瞬間加熱基質の養分になるからだ。しかしあくまでフォールン化のリスクを恐れた場合の回答で、それ以外の要因に答えることはできない。
この駐車スペースに到着して間を置かず、千景は手洗い場の蛇口をひねり、水が流れているかを確かめた。水こそ出たが、その中身は錆びて剥がれ落ちた金属が混じった極めて不衛生な代物で、とても飲めたものではなかった。
渓流に流れている水にも同じことが言える。泥を含んでいるせいで、どれだけ継ぎ直したり、ゆすったりしてもちっとも色が茶色から薄まらない。泥水など飲めば腹を下す。下痢や赤痢は影槍の濾過装置がどうにかするにしても、体調を悪くしたまま壁外で行動するのは自殺行為だ。
「——少しくらい雨水を貯めとくべきだったか」
自分の判断の甘さに千景は後悔し、いやそれ以前に、とこれまでの行動を振り返り、自分のつたなさに苛立ちを覚えた。人一人の命を預かっているのに甘い判断をしている場面が脳裏を怒涛の勢いで駆け巡ったからだ。
寝不足による行軍中の昏倒などはわかりやすい失態だ。きちんと体調管理に気を使っていれば避けられた事態だ。日中、朱燈にライフルを持たせて十数分だけ目を瞑るでもよかったはずだ。
体調もさることながら道程の選び方にも問題があった。山道を歩き、なるべく街道を避けたことでフォールンとの遭遇は少なかったが、その分だけ森の深部に近づいてしまった。少なくとも日中は街道を歩いてもよかったかもしれない。もちろん、そんなことはたらればでしかないのだが。
不味いな、と自覚し、千景は眉間を拳で突く。自分の悪かったところが汚泥のごとく出てくるのは精神がまいっている証拠だ。自責的になり、自己嫌悪でいっぱいになって、最終的に首をくくりたくなる衝動に駆られるかもしれない。
リフレッシュしよう、と思考を中断して千景は足先をトイレの入り口へと向けた。外からはフォールンの気配もなく、F.Dレベルも正常値をキープしている。問題ない、と千景は入り口から顔を出して周囲に目を向けた。
月夜、欠けた満月に照らされた夜景は真っ暗闇のそれにほど近い。月明かり以外に光源はなく、駐車場は伽藍堂でひどく寂しくひっそりとしていた。夕方になれば自動的に点るはずの照明は電球が潰れて光を発することはなく、コケだらけになっていた。
辺り一帯には水たまりがいくつもあり、破裂した水道管から漏れた水が絶えずその盆を満たしている。出来上がった水面は時折吹く寒風によって波紋を呼び、写った月点が小刻みに震えた。ザワザワと吹く風は水面だけではなく木々も揺らし、空を流れる雲がせっつかれたように慌ただしく動き始め、影が落ちては登っていくを繰り返した。
もう使われていない、これからも使われることはないだろう駐車場に一人、何をするでもなく立つ千景は蒼い空を望み目を細めた。気を失った時は黒い雲しか見えなかった空が今はちゃんと蒼く煌めいている。転機到来とその変化を見るのはいささか楽観が過ぎるのだろうが、そう思いたいと切実に念じながら千景はジャケットの内ポケットに手を伸ばし、銀色のケースと一緒にその中に入っているロケットを取り出した。
ロケットを開き、その中身をしばらく見つめ再び千景は頭上を仰ぎ見た。空に浮かぶ月も雲も変わることはない。雲の流れと高さから見てしばらく雨が降ることもないだろう。状況は絶望的で、同時に猶予はまだ少し残されている。つらつら、危機を口にしてきたが、それはすべてこれからどうにでも些細な問題でしかないのだから。
ロケットを元あった場所にしまい、千景は踵を返してトイレの中へと入っていった。憂いはない。すっきりとした表情になり、気分が少しだけ楽になった。
ちょうどその時だ。唐突にうめく声がトイレの奥から聞こえてきた。慌てて千景が声が聞こえた扉に近寄ると、朱燈が前のめりになってトイレのタイルに顔を埋めていた。
「朱燈!」
驚いた千景はすぐに朱燈の上体を起こし、口の中に異物が入っていないかを確認した。未踏破領域のこんな場所で体調を崩されてはたまらない。必死にわずかな光を頼りにして中を覗くが、これといったものはなかった。安心し、朱燈から手を離す千景だったが、直後彼の顔面目掛けてグーが飛んできた。
「あぎゃ」
「このヘンタイ!!」
まさしくその通りだ。寝起きの少女の口の中を目を地走らせて覗くなど、事情を知らなければヘンタイでしかない。その標を甘んじて受け、あまんじて拳を受けた千景はもんどり打って背後の壁に激突した。
ほおへのかなりハードな一撃だ。だいぶ痛いが、いつもほどではない。すぐに何事もなかったかのように上体を起こし、千景は悪かったよ、と謝りながら朱燈に向き直った。
「いきなり口に指っつこむとか何考えているわけ!?ついに性衝動抑えられなくなった!?」
頬を上気させ、朱燈は涙で瞳を潤ませる。自分の体を抱き寄せ、体を震わせながら彼女は防御姿勢を取る。普段の気だるげで上品さの欠片もない朱燈が、一廉の生娘みたいな反応は新鮮ではあったが、それで悦に浸ってほらほらーこれを舐めてみなーとか下衆を演じるほど千景も酔狂ではない。
違う違う、と顔の前で手を横に振りながら彼女に手を差し出すと、敵意がないと判断したのか、恐る恐る朱燈は千景の手を取った。差し出した手を握る力は非常に弱く、いつもの彼女とは思えないくらいだ。立ち上がって抱き寄せた時も体に力がまるで入っていなかった。なにより、その手はとても冷たかった。
驚きながら改めて千景は朱燈に目を向ける。顔だけではなく、その手足に、肌に目を向けた。
上気している頬とは対照的に手足はとても青白い。血の気が通っていないんじゃないかと思うくらい冷たくなってり、爪先に至ってはワイシャツの白さと大差ないほどに色素を失っていた。
嗅覚を研ぎ澄ませれば、トイレの下水臭い匂いにまじって、病人特有の腐臭も漂ってきた。さっきまでは気がつかなったのは匂いに気づきにくかったのもあるだろうが、千景がこれまでのことでいっぱいいっぱいだったからだ。
「風邪?失血?——いや、これは」
まさかと朱燈は朱燈の内ポケットに手を伸ばす。朱燈は抵抗するが今の彼女に千景を突き放す力はない。無理矢理彼女の内ポケットに手を伸ばし、その中にあった銀色のケースを取り出して千景はその中身を見た。
銀色のケースの中にある三色の錠剤、その一つである赤い錠剤が消えていた。強制的に瞬間加熱基質を作り出す錠剤だ。
「なるほど、そういう理屈か」
得心がいき、千景は震える朱燈を便器の上に座らせて自分の着ている防寒ジャケットを膝の上に敷いた。ジャケットがないと少し肌寒かったが、朱燈の感じている寒さとは比肩できるものではない。
深く深呼吸をしろ、と指示をしながら、千景は残り少ない水を朱燈に飲ませる。発熱が続けば脱水症状を引き起こす可能性がある。そのまま死亡なんてことになったら目も当てられない。朱燈もそれを理解しているのか、差し出された水を拒むことなく口の中に流し込んだ。
朱燈の体を蝕んでいるのは彼女が口にした赤い錠剤の副作用だ。瞬間加熱基質を作り出し、失われた影槍の機能を取り戻せる素晴らしい薬品ではあるが、その副作用の重篤さはこと未踏破領域において生半可な毒薬以上に厄介だ。
赤い錠剤を飲むと、まず体が火照り、大量の熱が放出される。熱の放出自体は瞬間加熱基質を形成された結果のお副次効果に過ぎず、これ自体はやや脳の動きを鈍化させるが、そこまで問題ではない。服用からしばらく経って、この薬の副作用は牙を剥く。
有体に言えば、赤い錠剤には体の免疫機能を弱らせる効果がある。風邪はもちろん、感染症や病気に抵抗する力を極端に減衰させ、その状態が長期間続けばどういった惨事を引き起こすかは想像に難くない。
「立てるか?」
銀色のケースを彼女に戻し、千景は確認を取る。頷く朱燈は立ちあがろうとするが、その両足はふらふらと頼りなく、とても頷いた通りには見えない。
今はまだ風邪のように見えるが、時間が経つに連れてより一層深刻な病気や感染症を併発する可能性もある。いくら強化兵で、免疫能力も常人に比べれば数段上でも、限度というものがある。
もし今日のようなペースで歩き続ければ間違いなく、朱燈は死ぬ。感知領域にたどり着けても、そこからサンクチュアリへ向かう道中で症状が悪化し、死亡する可能性は十二分にある。風邪とあなどることなかれ、風邪でも人は死ぬことはある。
どうするか、と千景は思案する。脳裏にはさまざまな可能性が浮かび、その一つ一つを千景は即断即決で破棄するか保留するかを決めていった。そして残った選択肢は一つだけだった。
——そも、それ以外に自分自身と朱燈が生き残る術を千景は持ち得なかった。
「しゃーないか」
おもむろに千景は自分の銀色のケースを取り出した。息を呑む朱燈が何か言いたげな表情を浮かべるが、それを制して彼は並べられた四色の錠剤の中から黒い錠剤を取り出した。
「何……それ」
「秘密兵器」
初めて見るのだろうそれに朱燈は奇異の目を向ける。彼女の持っている銀色のケースの中に入っている青、赤、白の錠剤とは違う特異な外見の錠剤に驚かないわけがない。予想通りの反応に千景は微笑を浮かべ、元あった場所にそれを戻した。
「万が一の時はこれを俺と朱燈に使う。割って使えば二人に効果があるはずだ。安心しろ、別に毒薬じゃないから」
「うそくさー。クリちゃんが言ってたアレじゃないの?自決用の」
「違うから。全然違うから。これは、そうだな」
言い淀み、千景は数秒推敲する。
「——一種の身体強化薬だ」
「うわ、死ぬほどうそくさ」
「まぁ、普通の強化薬ではないな」
「ほら、やっぱり」
「けど、その効果は保証する。少なくとも未踏破領域を突破できるくらいのことはできるはずだ」
三度、朱燈は「うそくさー」とこぼす。その目が言っている。「そんなもんがあるなら初めから使っとけ、バーカ」と。
千景の言葉を全て鵜呑みにするならその通りだ。この未踏破領域で遭難した時に千景が「ほら、これ飲め」と朱燈に黒い錠剤を手渡すなり投げ渡すなりするだけで今頃二人は暖かいベッド野中にいたことだろう。
しかしそれを千景はしなかった。しない理由があることは朱燈にもわかる。疑念が生じるのは当たり前で、それは千景もわかっていた。
「——それを飲み込んで、万が一の時はこいつを服用してくれ」
「絶対に嫌だ!!!!」
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