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26……こんにちは。守護天使。

 自覚はなかったが健太はたくさんのものを与えた。お返しとばかりに由紀も、健太にたくさん与えた。時々、姉を混ぜながら、山に赴き、木漏れ日の中で息を吸った。海辺へ向かい、乱反射する光と磯の香りを楽しんだ。果樹園でワイン造りを体験して、水族館でアシカの漫才に頬をほころばせた。健太は初めて釣りをして、由紀は初めて釣りをして、健太は初めて野生の動物を見て、由紀は初めて野生の動物を見て、二人は初めて絵を描いて、姉の姿を写真に納めて、自分たちの姿を写真に納めて、交換日記をして、勉強をして、彼の姉は時折、聞いたことない異国の歌を唄った。

 誰もが笑っていて、二人は笑っていて、時折、健太はあまりの幸福さに怯えた。酷く、怯えた。

「どうしたの?」

 暗闇を明るい声が割った。由紀がテントから顔を出して、夜に佇む健太を見ていた。

「あれ、起こしちゃったかな? 悪い」

「いいよ。あ、ランプは点けないで。キャンプに人工の光は無粋だからね」

 虫の鳴き声が草木の揺れる音と星々の光に混ざり、幻想的な様相を見せていた。人の臭いのしない領域特有の自然の美しさだった。

 アウトドア用のチェアに腰をかけて、健太はタバコの煙を吐き出す。

 由紀は夜空を見上げて、綺麗とひとこと言った。

「薬、欲しい? 健くんが欲しいっていうならあげるよ。辛いっていうならしょうがないし」

「大丈夫、まだ耐えられるから」

 薄い暗闇の中で、小さな赤い点が力強く光る。周囲にタバコの臭いが漂う。

 吐き出す煙の量だけ、ため息をついているようで。吐き出す煙の量だけ、怯えているようで。

 正気を必死に保っているようで。

「由紀、俺とセックスしようか? 俺にはそれしかしてあげられないし、それしかできないから。姉さん、寝てるだろ? 今ならできるよ」

 切羽詰まったような健太の声に少し間をおいて、由紀は答えを返した。

「健くんはさ、私に失望したいんでしょ? 失望して安心したいんでしょ? 私もそこら辺を歩いてる女と変わらない、言い寄れば喜ぶ女みたいな感じに。顔でしか他人を評価できない人間なんだって感じに。私も大したことない相手だって思いたいんでしょ? こんな幸福は崩れて当然なんだって。だからね、健くんとはセックスしない」

「そういう、人の心をえぐるようなこというなよ」

「私の心、さっきの言葉でえぐられたんだけど?」

 由紀は笑ったような声で腰を折って、足元の石を手にとって、夜空に浮かべた。天に穴を開けたように、いびつな丸が空に浮かぶ。

 健太は悲痛な声で顔を覆った。赤い点が地面に落ちて、花火のように小さく散る。

「……ごめん。でもさ、不安なんだよ。怖いんだ。楽しければ楽しいほど、終わった時のことを考えちゃって。由紀のことを嫌いになってしまう未来が怖くて。嫌われてしまう未来が怖くて。姉さんが歌わなくなることが怖くて。またひとりになっちゃうのが怖くて。また姉さんの病室をただ行ったり来たりするようになるのが怖くて」

 いつか必ず訪れる終わりを想像して健太はぞっとする。それは父親に弄ばれていた頃に等しいほどの苦痛。

「また体を売って生きていくようになるのが怖い?」

「……ははっ。やっぱ、知ってたんだ」

「君が思ってる恐怖なんてものはちっぽけなものなんだよ。ほら、顔を上げて見たまえ! 星の偉大さを……なあんていうつもりは毛の先ほどもないよ。君の恐怖や不安を消せるなんて思わない。そこまで私はおごり高ぶらない。君が私とセックスすることで永遠に安心できるっていうなら喜んでこの身を捧げる。でもね、そうじゃないよね。一過性のものでしょ? 君の恐怖と不安は心に根付いてる。私がそれを消せるだなんて思ったら、傲慢って奴よね。大罪だわ」

 酷く冷たく、合理的な言葉だった。それすらもどこか嬉しくて、健太はますます不安に陥る。

 安定剤は極力飲まないようにというのが彼女との約束だったが、今にも挫けそうだった。

「俺はやっぱり、由紀と一緒にいるべきじゃないのかもしれない」

「ねえ、健くん。私ね、車椅子だった時さ、すごく悔しかった。君はさ、簡単にテーブルの上にあるものをヒョイヒョイ取っていくでしょ? 庭に水を撒く時もなんてことのないようにホースでやってくれた。地面に落ちたものを、すぐに拾ってくれた。私にはね、今いったことはすごく重労働なの。トイレに行くのだって大変だし、お風呂に入るのだって格闘技みたなもの。今見たく、二足歩行になっても、変わらない」

 だからシスターがあるんだけど、と言って由紀は草むらに向かって石を投げた。

「ある日ね、健くんがいない日、私はテーブルからスプーンを落とした。その時、私はついつい健くんを呼んじゃった。“ねえ、健くんスプーン落としちゃったよ”ってさ。誰もいないないのにね。すぐにあっ! って思ってさ、シスターに拾わせたんだけどね、でも、そういうことじゃない?」

「そういうこと?」

「私はね、その時、嬉しかった。悔しかったけど嬉しかった。自分を助けてくれる誰かの存在を知ってしまっているということが。一人よりも二人の方が幸せだということが。それは健くんと出会ってなければ出ない感想だよね。つまりさ、ないよりは、ある方がいいってことじゃない? 最初から何もないことを続けて終わりを迎えるよりも、壮絶な経験をして終わりを迎えた方がいいと思うよ。どちらも過去に戻れないっていう意味では後悔しても同じだし。ま、重要なのはね、納得できるかどうかってことかなっ!」

 強いなと思う。眩しいなとすら思う。愛おしくすらあった。

 健太は心の底から疑問を口にする。

「君は怖くないの? 失うこととか、幸福な今とか」

「めちゃめちゃ怖いよ?」

「なら――」

「――なら、なんなの? どちらに転んでも怖いなら楽しんだ方がお得じゃない? 人間はいつか死ぬ。絶対に絶望するし、くじけるし、心が折れる、狂気に触れる。なら、楽しまないでいるよりも楽しんだ方が素敵じゃない? だから君を幸福にしたいって思ったんだよ。一人の幸福よりも、二人の幸福の方がきっときっと嬉しいから、すごいから。だから不安に抗おうと思ったんだよ。逃避や諦観は意味がないって思ったんだよ」

 椅子の後ろから由紀は健太を抱きしめる。健太は顎を上げて、由紀の顔を覗いた。

 星空は一部、彼女の形に黒く切り取られていて、何かの絵のようだった。

「笑ってる?」

「さあ? 怒ってるかもよ?」

「笑っていてほしいな」

「じゃあ、笑っていてあげよう。これからも。だから君も笑おう」

「もう、笑ってる」

「だよね」

「だよ」

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