25……物理的啓示2/2
腐った土のような、腐った枯れ草のような、青々とした臭いが鼻をついた。鼻先をぽちょりと濡らす水滴に、理子は久しぶりに目を覚ます。心なしか周囲の温度が低い。
次第に激しさを増していく雨音に、理子はゆっくりと脳みそを動かした。
「雨?」
自分の言葉を理解するのに少しだけ時間を要した。長い夢を見ていたような気がする。そう思う。
「あれ、体が」
動かないと続けることができなかった。自分の状況を思い出し、理子は一度、青ざめた……が、すぐに諦める。どの道、死ぬことに違いはないと思う。むしろ死とは避けられないものなのだということを現実として彼女は実感した。
死を意識するからこそ、人は生をありがたがる。死を恐怖するからこそ、人は生を喜ぶ。
自分が死をまったく恐れなかったことを思い出し、今まで生きている感覚というものが欠けていたのだということに彼女は気づいた。
それは常に死んでいて、常に生きてる。そんな状況に等しい。半死半生。
「黒い土の下に埋められたのは、シンデレラ? 白雪姫? どっちだったかしら」
瓦礫の隙間をぬって溢れる雨水で彼女は舌を濡らす。砂利が混じっているのか奇妙な味がしたが、空腹に落ちる液体は体に染み渡るような感覚を与えた。
まだ生きようとしている体に彼女は少し笑った。心は既に埋没し始めているというのに、体はまだ物理的機能を保持している。生きようとするシステム。
少し体をよじらせて彼女は自分の足に触れた。膝から先がしびれているのか、潰れて壊死しているのか、感覚がない。手首にはまだきつく纏わりつく手枷がある。指の部分を覆っていたはずのゴムが瓦礫でこすれたのか、剥げ掛かっている。
それを千切って、理子は口に含んだ。肉厚のゴムを噛み砕き、味わい、最後の食事を行う。
「最後に浴びるほど、雨が飲めたらいいのに……」
しかし、それは望めそうになかった。天に蓋をするように、瓦礫は光をほぼ遮っているし、足の感覚はない。おまけに手首はそのままだ。
「あれ?」
一瞬、理子は何かを感じた。ぬるい液体を喉に通したような違和感だった。
雨音に掻き消えそうな思考を引っ張りあげ、形を整える。
「私の手では、この手枷のゴムにも傷をつけることすらできなかった」
瓦礫の落下はそれを可能にした。落下、速度、質量、衝撃。そんな言葉が浮かんでは消えていく。
理子は手首を覆う金属の指をなぞる。思った通り歪んでいた。彼女の力では歪まなかったはずのそれが。床に叩きつけても歪まなかったはずのそれが。
手に持てる程度のコンクリート片で壊れるとは最初から思ってはないなかった。それほど頑丈な作りだったし、そもそも片手で持てる程度の欠片の威力などたかが知れていた。
しかし、自分が持てない重さのコンクリートを高い位置から落とすことができれば。
「それを何度も何度も繰り返せば……」
自由の二文字に活力が湧いてくるのを彼女は感じた。鼻息荒く、彼女は体を動かし、周りの小さな瓦礫をどける。
「そうだ、そうだ、そうです!」
エレベーターの扉が開かないのなら、横の壁を抜けばいい。重い瓦礫がどかせないのなら、どかせられる軽い瓦礫からどかせばいい。
頷いて、彼女は天真爛漫に微笑む。
食べたいものは食べればいい。嫌いなものは残せばいい。好きなことをすればいい。嫌いなことはしなくていい。母を恨んでいるのなら、母を殺せばいい。兄と健太を重ねているのなら、健太を新しい兄として見ればいい。健太が自分を所有してくれないのなら、健太を自分が所有すればいい。腹が立つなら、怒り狂えばいい。邪魔なものはみんな壊せばいい。口で勝てないのなら、勝てる方法で勝てばいい。
世の中は視点を少し変えただけでこれほど生きやすくなるものなのか。そう思い、理子は瓦礫の底で吹き出すように笑い声を漏らした。




