25……物理的啓示
天国に一番近い地獄。それが茨木理子の感想。
日々照りつける太陽はコンクリートや瓦礫を熱した鉄板のように変化させた。雨のない日、日の出ていない時間帯、理子は瓦礫の底で虫のようにうずくまって、熱から逃れた。それでも、陽炎の混じった熱風は時折、穴ぐらの底にいる理子の肌を薄く焼いた。
食料と水が豊富に残っていたおかげか、当初抱いていたほどの危機感はない。不満といえば、シャワーを浴びれないことと、自分の排泄物の強烈な臭いくらいなもの。
「何日経ったのかしら」
瓦礫の穴ぐらで見つけた絵本を読みながら、理子はそう口走る。穴の外では熱が景色を歪めている。
理子の片手には包丁が握られている。土埃もなく、印字されたメーカーの文字がはっきりと見えるほど表面は綺麗に磨かれていた。それも瓦礫の中で見つけたもののひとつだった。
包丁に反射した顔に理子はため息をつくように笑った。昨日よりも確実にやせ衰えている自分。昨日よりも確実に死に近づいている自分。
「……やっぱり、もう嫌だ。こんなの嫌だ。温かい布団に入って寝たい。美味しいご飯が食べたい」
言葉とともに強烈な焦燥感が理子を襲う。彼女は発作的に包丁で手枷の巻かれた手首を切り落とそうと試みる。やるなら正気のうちにと思う。
しかし、あと少しで触れる、というところで汗が出て、涙が出て、嗚咽が漏れて、進めない。もしかしたらという幻聴に希望を抱いてしまう。
もしかしたら、警察が見つけてくれるかもしれない。もしかしたら、由紀が戻ってきて逃げるチャンスが生まれるかもしれない。もしかしたら、エレベーターの扉はロックされていて、手首まで切ったのに扉は開かなかったという絶望を含めた計画なのかもしれない。もしかしたら、実はもっと簡単に逃れる手段があるのかもしれない。
「毎日毎日、同じ事ばっかり考えてる」
耐え切れないといった様子で理子は顔を覆った。
いつか変化があるはずだと信じて、何度も同じ事を繰り返すことは狂気以外の何ものでもない。そんな言葉を思い出して、より一層辛い気持ちになる。
理子自身、分かっていた。絶望はあっても希望など、ここにはないのだと。悩み、憔悴して、狂乱して、死んでしまうのも、手首を切った先に何もないことを知って絶望するのも、全てが計算づくなのだ。
あらゆる死に方が豊富に存在しているものの、希望というものは一欠片も用意されてない。それが本能的に理解できる。自分ならきっとそうすると思うから。
「自殺ってなんて贅沢な死に方なんでしょう。生きているのに、自由があるのに、自らの手で死ぬ。それがどれほど甘えに満ちていて、希望があって、幸せな選択肢なのか誰も理解しない」
絶望を自覚すればするほど、死の足音が聞こえるような気がして、理子は独り言を言った。死など恐れない。死など見向きもしない。目の前にその顔が映っても気づきすらしない。そんな気持ちを込めて、声を張り上げる。
「死ぬ準備ができてることがもうおかしいんですよ! 私はその覚悟すら、心の準備すら奪われた。そ、そもそも私はこんな目に遭うほどのことをしたんですか? 彼女の私念ですよね。なんでこんな石の裏にひっつく虫みたいなことをしてなきゃいけないんですか。帰りたい帰りたい帰りたい!」
ミシミシと死の足音が迫っている。理子は幻聴だと心で叫びながら、また包丁を握っている自分に気づく。
「い、やだ。私は、死にたく、ない。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない! 死にたく、ない」
ぬらりと光る包丁を握った手が、吸い込まれるように手首に向かった。力を込めても、動きが遅くなるばかりで、止まる気配が見えない。狂気ゆえの行動なのか、死に誘われているのか、超常的な何かなのか、理子にはもはや検討もつかなかった。ただべそをかいて、狂乱したように叫ぶ。
「わ、わ、わ、私が何をしたっていうんですか! だ、誰だって奪われ続けるのは嫌でしょ!? 支配されるのだって嫌! 支配されるよりも支配する人間になりたいって思うのは当然のことじゃないですか! あ、あ! 嫌だ嫌だ死ぬのは嫌だ! 私はまだ、生きたい! 旅行だって行ってないし、こここここっ子供だって産んでみたいし、わ、私はまだ健太くんと手も繋いでないっ!」
じくりと赤い線が皮膚を舐めた頃、黒い何かが理子の側を通り過ぎていった。
大粒の汗をこぼしながら、理子は包丁を投げた。死は優しいなどというが、それは嘘だと実感する。死は人を殺すためなら天使にすら化けてみせるというだけのこと。
「私はこんなところで終わるのかな……」
誰も愛することなく、誰にも愛されることなく、体力と正気をジワリジワリと失いながら、干物のようになって死ぬのだろうか。そんなことを思い、不条理さに打ちのめされる。
「あの母ですら、自由を謳歌し、誰かに愛され、誰かを愛しているっていうのに私は」
不条理。
「私よりも悪い人はいっぱいいるのに。なんで私だけが」
耐え難い不条理。
理子は激高して、小さな穴の中でぐずる子供のように暴れまわる。微妙なバランスで支えられていた穴が崩れ、瓦礫の底に埋まった。
身動きの取れなくなった世界で、理子は目を開いた。次に口の中のジャリを唾液とともに吐き出す。手足の痛みを感じて、息を吸って、彼女は自分の生を確認する。生きていることを喜ぶ。
「あは、生きてる。私は生きてる」
体は動かないものの生きている。瓦礫の中だが生きている。それが何よりも幸福なことのように思えてしかたがなかった。死が近づいたところで、これなら、殺されることもない。そう笑う。
「ふふふふ、冷たくて気持ちいい」
朝がきて夜がきて朝がきて、また夜がくる。その間ずっと理子の体は瓦礫の中から出ることはなかった。




