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09……こんにちは。苦悶。

「あ、今日は臭くない。ちゃんとお風呂入ってるんだね。偉い偉い」

「毎回うるさないな、君。ケーキ買ってきて冷蔵庫入れといたから」

 由紀は麦わら帽子を押さえながら、彼を見る。健太は由紀のいる庭に出るため、ベランダでサンダルに履き替えていた。

 顔を見て、手足を見て、服を見て、何も変わらないことに由紀は安心した。毎日、変わらず彼が訪ねてくる。無事で訪ねてくる。それが由紀を安堵させる。

 彼女は自分が他人の運気を吸い取り、不幸を招く人間なのだと信じて疑わなかった。今日は無事で、訪ねてきてくれた。でも明日は、何かがあって訪ねて来ないかもしれない。そんな不安に内心、怯えていた。

「ケーキか、ケーキ……うーん、ケーキね」

「ベジタリアンってケーキ駄目なの?」

「健くん、私はベジタリアンとはちょっと違うの。なんていったらいいんだろ。んー……ま、正直にいうとね、両親がね、事故にあって以来さ、肉類とか魚類が駄目になっちゃったんだよね」

 血の臭い、肉が焼ける臭い、魚を炙ったような臭い。それらを思い出して、少し由紀はえずきかけ、口を抑えた。慌てて駆け寄る健太にもう大丈夫と手で答える。

 健太が顔を曇らせる前に、由紀は笑った。

「ケーキなんか食べたら太っちゃうからね、カロリー計算してたの」

「女の子はちょっと太ってるくらいが丁度いいっていうけどね」

「健くんはさ、女の子の血の滲むような努力について少しは考えた方がいいよ。男のためだけに太ったり痩せたりしてるわけじゃないんだからね。可愛い服を着たい。その一心なのです」

 あぜ道を車椅子で進む。突き当りの木の写真がプリントされた壁を伝って端へいくと、ビニールで覆われた小規模な水耕(すいこう)栽培のハウスが見えた。健太を入れるのは初めてで、企業秘密の詰まった場所だったが、由紀は気にしなかった。

 二重の扉を進むと培養液の張られた四角いプールにスポンジ状のキューブがきっちり規則正しく並べられているのが見える。繊維質のスポンジに植えられた種が絶えず、水分と栄養を吸収し、そこで芽吹くまでは一般的な水耕栽培とあまり変わらない。

 決定的に違うのは彼女がなるべく“自然さ”というものにこだわった点だった。システム化された温度管理、湿度管理、空調管理、照明管理のそれではなく、彼女は農薬や成長を補助するような薬品といったものを一切使わなかった。そのため虫の害に晒され易かったが、害虫が出ればその天敵になる虫をハウスの中に放し、自然的な方法で駆除をした。電気的なコストもソーラーパネルによって小さくまとめられている。

 結果、彼女の会社では都心にも関わらず、最高かつ新鮮な野菜を生み出し、格安で販売することに成功した。それを自慢気に由紀は健太に伝える。

「これはミニチュアだけど、別のところではもっと大きい規模でやってるの。野菜だけじゃなくて果物だって作れるのよ。昔はカモとかも使ってみたけど、あれね、鳥類も哺乳類も駄目ね。怠惰で、気分屋で、場所は取るし、人件費……っていうか鳥件費? が掛かて大変。その点、昆虫は優秀よ。限度はあるけど、温度調節と日照時間を調節すれば、延々働いてくれるし、文句もないし、コンパクトだし、何より安い!」

「由紀も哺乳類じゃないか」

「だからいってるの。賢い生き物は何事も徹底できないから」

「そうかな」

「そうよ」

「そうだね」

 由紀は新鮮な野菜を摘みとりながら、健太と会うことの必要性を考える。常識的に考えれば、彼が不幸になる要素はいくらでもある。合理的に考えるのなら、彼を無視して見ないに限る。この家から閉めだして、彼の情報を一切絶ってしまえばいい。そうすれば、彼が不幸になろうが、由紀は知らないで通せるのだ。不安になる必要もない。いつか忘れる記憶になる。しかし、彼女はそうしなかった。

 それをできない自分は弱くなったのか。寂しいのか。自分に問い続けながら、彼女は健太の笑顔を見つめた。


「柳川、だからさ、朝はさ、弱いからさ、家に来るなっていつもいってるでしょ……」

 寝ぼけ眼で彼女は玄関のロックを解除した。投げられるプラスチックのボールに驚き、反射的に顔を防ぐ。蛍光色のプラスチックのバットを持って笑っているのは健太だった。

「え、何?」

「野球しようよ」

「……今、何時?」

「五時十五分」

「午後の?」

「午前の」

「夜の?」

「朝の」

「……健くんさ、ふざけてるの?」

「かなりふざけてるよ?」

 威嚇する猫のような声を上げて由紀は健太を追いかけた。ひらりひらりと健太は由紀の追撃を交わし、笑う。

 机の周りをぐるぐる周り、疲れ、スピードの遅くなった健太の背中を由紀は蹴った。健太は床に顔をぶつけた。

「電動は……ずるいな。疲れ知らずだもんな」

「満足した?」

「してない」

 健太は起き上がり、ハンドグリップを握るとそのまま由紀を外に連れ出した。抗議の声を上げる彼女を無視して、バス停まで駆け抜ける。辺りは日が昇り始めたばかりで、音も、人もない。だからか、由紀の悲鳴じみた声はよく響いた。

 バスに揺られる頃には由紀はぐったりしていた。度々、健太は突拍子のないことをしたが、今日はまた一段と酷い。そう思う。

「私、パジャマなんだけど。っていうか、運動できる体じゃないんだよ、私」

「知ってるよ」

「知ってるなら帰ろうよ。私さ、もう疲れた。眠いよう」

「それは知らない」

「…………」

 鼻歌でも奏でそうな上機嫌な健太に、ため息をついて由紀は目をつぶった。

 健太は大きな子供なのだ。自分を殺し、気持ちを抑え続けた反動で、気持ちが高ぶった時、それを止められない。気持ちを抑えられないというわけではなく、抑えることを良しとしていない。抑えていた頃の自分を惨めだったと考えているから抑えない。抑えていた頃は最悪の思いでしかなかったから、そうしない。そういう精神構造なのだと彼女は分かっていた。

 故に、それを抑えろというのは、あまりにも酷に思えてならなかった。それは惨めな頃のお前に戻れと言っているのと変わらないのだ。

「ついたよ」

 そういって降りた場所は自然公園だった。由紀は少し固まる。本気で健太が自分に野球を強いろうとしているということが分かったからだった。

 できることなら無力な自分を見せたくない。彼に気遣われ、哀れに思われたくない。それは尾を引くし、もはや友人と呼べるものではなくなるから。

 リュックを背負った彼の後ろを走りながら、由紀は腕を左右に捻った。キュルリと音を立てて、捻った方向に素早く義手は回る。ものを掴むには更に肘を上げるような動作が必要だった。確認して、彼女は悩む。バットを触れるだろうか。ボールを投げれるだろうかと緊張する。

「健くん、やっぱりさ……」

「そういえば由紀は何で、その義手にしたの? 義足も持ってるけど使ってないし」

 由紀は少しドキリとした。

 健太は続ける。

「ネットとかテレビとか見るとさ、もっと便利そうなのあるよね? 今使ってる三本指の奴じゃなくて、普通の手みたいのとかさ」

「……ああいうのは高性能だけどね、反応速度が滅茶苦茶悪いの。おまけに高いし、メンテナンスも大変だし、ゴツいし。義足はそうでもなくて、凄く自然になってきてるけど、やっぱり人間の運動量に対して金属は脆いし、走るという負荷には耐えられないよ。かといってね、強度のために重くしたら、片方の足と釣り合いが取れないし、生身の側に負荷がかかっちゃう。軽くしたら今度は強度が足らない。こういうのをアンチノミーっていうんだっけ? ま、それに対して、これは作りが単純だから、反応速度は早いし、軽いし、防水で安価なの。超のつく高級品を使えば、そういう条件は満たせるかもしれないけど、そんなの会社を売り払ってでもしないと買えない代物だからね」

「じゃあ、由紀が使ってるのは実用的ってことなんだね」

「実用的……? あはは、そうね。確かに実用的といえるね」

 新しい腕をつけても、新しい足をつけても、それが健常者に劣るようでは意味がない。少なくとも健常者と同等か、それ以上の性能がなければつけるに値しない。手足を失ったことへのカタルシスを得るには、そういったものでなければ勤まらないと由紀は思ったが、あえて口にはしなかった。

 あまりにも卑屈すぎる考えよね。ただ笑って誤魔化した。


 芝生の生い茂る場所につくと、有無をいわさず健太は由紀にバットを握らせ、ボールを投げた。由紀が上手く振れなくても、容赦がない。その状況は由紀が投げる側に交代しても同じだった。

 緩やかなボールを全力で打ち返し、取ってこいと平気な顔で健太は言った。

 ――コーチ。あの、届かなくて取れません。

 ――え、何で?

 由紀は額に汗を浮かべて、ボールを拾い上げる。代わりに石でも投げてやろうかと健太を睨んだ。

「健くんさ、私が不自由な体だってこと全然理解してないよね」

「してるよ? 考慮してないだけで」

 にっこりと微笑み、軽やかに素振りする。

「……この野郎」

「うん?」

「何でもないよ? ……健くん、あのさ、せめてご褒美ちょうだいよ。健くんがこれで、打ち返せなかったら、この公園十周するとかさ」

「いいよ、別に。十周くらい。必ず打ち返すからね」

 しれっと答える健太に由紀は見てろよと小さく呟いてプラスチックのボールに念を込める。怨嗟(おんさ)の念を。

 車椅子の車輪を回し、その回転の反動を使って、ボールを投げた。緩やかなカーブを描いてボールは飛ぶ。

 健太は勝利を確信した顔でバットを振った。既に由紀の投げられる範囲を知り尽くしていたのだ。この投球も変わらない。そういう顔だった。

 しかし、振り切って、その顔が驚きに変わる。ボールが予想外の動きを見せ、バットの下を潜ったのだ。

「え!? 嘘だろ!」

「やった……やった! やった! やった!! ばーかばーか! へっへーんだ! 正義は勝つとはこのことだね、健くん。はい、十周! はい、じゅっしゅー! ほらほら男子ー、サボってないでダッシュダーッシュ!」

 かつてないほど喜びに満ち溢れた由紀に、疑問をもった健太はボールを掴んだ。ボールに穴が開いてることを見つけ、その中に石が入っていたことを確認した。

「そうか、重りで急に軌道が……」

 由紀はボールを拾った時に、石を見て思いついたのだ。幸いプラスチックは柔らかく、簡単に穴が空いた。あとは上手く石をいくつか詰めればよかった。

「卑怯とか無効とかいわないよね? 打てないボールってわけじゃなかったし、今のは健くんの慢心が身を滅ぼした結果だよね? それに私は十分、健くんにハンデ上げてるし」

「うぐっ」

「ん? 文句あるならいってみ? 聞いてあげるから。聞いてあげるだけだけど」

 額の汗を拭いながらケラケラと笑う由紀に、健太は悔しそうに背を見せて走った。

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