10……天変地異1/2
電気のメーター。銀色の歯車が時を刻む秒針のように消費されていくエネルギーを目に見える形として表している。
理子はいくらかけても通じないケイタイをパンツスーツのポケットに押しこむと、電気メーターを眺めた。電気の消費量から、健太が帰宅してないことを知る。
屈み、扉の小さな新聞受けに手を入れ、もう片方の手のライトで玄関を照らす。健太の姉の靴しか見えない。空気の流れが停滞していることから、やはり帰宅はしていないようだと当たりをつけた。
理子はポケットから勝手に作った合鍵を取り出して、ロックを解除する。明かりをつけて、手袋をした。靴も手提げに入れる。
まず最初に見たのは冷蔵庫。内容物の変化がないことをチェックする。次に、流し。洗い終わった健太の箸を見つけ、口に含んで、元に戻す。
リヴィングに移り、絨毯に絡まった健太の髪の毛を探す。見つけ、口の中に入れた。舌の上で楽しみながら、もう一本見つけて、ライターで炙り、臭いも楽しむ。
ひとしきり遊び終わると、理子は服を脱いだ。全裸になって、健太が洗い物として洗濯機に投げ入れた服を着る。強い汗の臭いに理子の興奮は高まる。自分を抱き締めるように両手を背中に這わせ、力を込める。健太の胸の中にいるような気分になれるこの遊びが理子は特に好きだった。
息の荒いまま、寝室に向かい、健太の布団に入り込む。隙間を埋めて、深呼吸をした。健太の胃の中にいるような錯覚に理子は汗を噴き出させて悶える。彼の血となり肉となり、延々そこにいることができるのなら、それは素晴らしいことなのだろうと考える。
健太がいない時にしかできない究極の遊び。健太が確実に帰ってこないと分かっている時にしかできない遊び。
何かの偶然で今、健太が帰ってきたら、どんな顔をするのだろうと理子は想像する。嫌悪するのか、憎悪するのか、怯え悲しむのか。できることなら侮蔑であってほしいと願う。殺意を込めた侮蔑。
「でも誰と今日は過ごしてるんでしょう」
もし仕事が忙しくければ、尾行ができたのに。そう思いつつも、理子はあまり気にしなかった。今日は健太に拒絶してもらった日なのだ。それぐらいのことでは気落ちしないほど満ち足りている。
時間はいくらでもある。チャンスもいくらでもある。理子は焦ってはいなかった。いつでも自分は運に恵まれていたし、勝利してきた。そのためにいくつも布石を打ってきた。その自覚が彼女にはあった。
「うふふふふ」
健太が自分の知らないところで、知らない女と逢瀬を交わしている。その様子を理子は想像する。
街を見下ろすような大きな窓に健太と名も知らぬ黒髪の乙女。健太が抱き締める力に合わせて、彼女は小さく息を漏らした。その側に理子はいた。汚れきった照明のない鉄格子の向こう側で、何度もやめてほしいと懇願する。しかし、健太は切れ目の端で冷ややかに笑うのみ。むしろそんな様子に見せつけるように髪を撫で、口づけを交わす。それを理子は涙を流して悔しがった。手を伸ばそうとも届かない。手垢に塗れた臭い手で赤い絨毯に爪を立てることしかできない。それが良い。そう彼女は笑う。
そこで主役なのは自分と他でもない彼。名も知らぬ乙女は彩りを添える野菜でしかなく、真に繋がっているのは自分なのだと彼女は思う。嫉妬に狂う自分がいるからこそ、彼はあえて別の女と睦言を交わす。その耽美主義的な共犯関係とでも言える関係こそが真の繋がりのように思えてならなかった。
離れず、つかず、褒めず、与えず、苦しませず。
それが究極にネジ曲がった愛の形だと理子自身、自覚していた。自覚した上で、できることなら、彼の幸せを目撃し続ける家政婦のような立場でありたいと願う。それが真の独占。それが真の愛情。究極の主従関係。
汗にまみれた理子は、健太の部屋の風呂場で熱いシャワーを浴びながら、そんなことを思った。
起きた頃には昼過ぎだった。来客を告げるチャイムの音に理子はのっそりと起きる。一瞬、仕事のことを思い、カレンダーを見て、休日であるということを確認した。
宅配便か何かだろうか。そんな軽い気持ちで覗き穴に目を這わす。健太がいた。
「ウソ」
ついに自分は幻覚を見るようになってしまったのだろうか。あまりにも愛が深すぎて、現実と妄想の区別がつかなくなってしまったのか。理子は何で何でと呟いて、額に手を当てた。
これまで一度も健太が部屋を訪ねてくるようなことはなかった。健太にその理由もなかった。
もしかしてバレたのか。そんな声が頭に響く。
「ふふ、そんな馬鹿な」
自信たっぷりに否定する。よしんばそうだったとしても、自分が犯人であるとどうして彼に分かるのか。今までただの隣人、ただの優しいお姉さんで通してきたじゃないか。目立ったことは何もしていないし、していたとしても健太の目につくようなヘマはしてこなかった。
「アレも、アレも、アレも、アレも、アレも、アレも、アレもそう」
そう論理的に自分の考えに反証した。
理子はロックを解除しながら、ストーリーを考える。昨日は仕事から帰ってきて、映画を見ていた。その後は、料理をして、食べて、風呂に入った後、疲れて寝てしまった。だから何も知らない。そんなストーリー。
顔を出せる程度に扉を開けて、理子は外を覗いた。
「先生、こんにちは」
「あら、健太さん。こんにちは」
「もしかして、寝てました?」
申し訳なさげに健太は顎を引いた。
「分かります? 実は昨日、深夜まで借りてきた映画を見てて、起きたらこんな時間。あ、知ってます? あの海外のCGアニメで有名な会社の……」
そう続けようとしたところで健太が意味ありげに黙っていることに彼女は気づいた。少し不自然な話しの切り返し方だっただろうか。理子の背筋に汗が走る。
「先生、実はお話しがあるんですよ」
「……お話しですか?」
冷静な顔を作りつつも、死角にある彼女の手は震えた。
「そのお話しというのは?」
「あの、ここじゃ何なんで、上がってもいいですか?」
「部屋に……ということですか?」
「はい」
まずいと理子は思った。リヴィングのテーブルには昨日採取した健太の毛髪をパックしたものがテーブルの上に並んだままだった。健太の下着だってある。自作したカレンダーは健太を盗撮した写真を使ったものだった。壁には覗き穴もあった。
理子は頭を一端、切り替えて論理的に考える。健太は何かを話そうとしている。自分に関係のある話しである。健太の窺うような様子から重い話しであることが分かる。
可能性として一番高いのはやはり、自分の行為がバレてしまったというのが妥当だった。
振り返り、理子は困った顔を作る。
「今、ちょっと部屋が汚くて」
「俺は構わないですよ」
「健太さんの家じゃダメなんですか? 私、こんな格好ですし。なんなら、近所のファミレスでも……」
「ね、姉さんの部屋は絶対ダメです。絶対に……。外は余計にダメです」
理子は健太の死角で握っていたハンマーを手からそっと放した。何となく危機が喉元を過ぎたのを感じたのだ。限定された場所でなければできない話しというのが解せなかった。
「じゃあ、片付けするんで、少し待ってもらっていいですか? それなら、私は構いませんよ? でなければ、ダメです」
理子は少し強気に出る。自分の条件を満たせないのなら話すつもりはないという圧力。それが通るのなら、窮しているのは自分ではなく、彼の方になる。そう彼女は考える。
健太は目を見開いた後、困ったようにそれを細めた。小さく開いた唇の隙間から、声が漏れる。
「先生……。俺が何をいうか分かってるんじゃないですか?」
「さあ? 何をいいたいんですか?」
余裕たっぷりに理子はいった。
「お、お金がほしいんですよ、先生。俺、頭悪いからバイトだってどうせできないし、中退だから雇ってもらえないし、だからお金が、その」
「貸してほしいということですか?」
既に焦りは理子の中になかった。理子は扉の隙間から身を乗り出して、俯いている健太を見下ろした。
ピアスまみれの耳。いつも以上の数のそれ。いつもとは違うロック調の服装と、首筋から見える刺青。シャワーを浴びたのか、健太からは石鹸の臭いがした。
まるで昔の健太を見ているようだと彼女は思った。昔の本当の自分とは違う、強い自分を精一杯演じようとしていた頃の健太。
「……分かってるんですよね? 先生。他に頼める人がもういないんですよ」
「分からないです」
健太は下唇を噛みながら、頬を赤く染めながら、理子の手を取って自分の頬に触れさせる。彼女の白く細長い親指が健太の唇に引っかかり、唾液が糸を引いた。
唇から息が漏れ、潤んだ瞳が理子の目を見つめた。
健太は恥じらう乙女のような仕草で、言った。
「俺を昔みたいに買ってくれませんか?」




