第五十三話「背水の輪舞曲」
蒼き魔女は、艶やかに息を漏らした。
「んー……」
青いドレスの裾が、ふわりと広がる。
瞬きひとつ。
気高く、上品な花の香りが満ちた。
「お前」
ゼロ距離、音もなく。
陰鬱で、
暗澹たる闇が、
鼻先で嗤った。
「なぜ、ここにいるんだ?」
湿った吐息が、背骨まで沈んだ。
青い瞳孔の奥に、たしかな悪が棲んでいる。
これが堕神──忘却のカリオス。
落ち着け。
俺は目を伏せ、静かに視線を戻した。
「フィオナを、返してくれ」
「健気だな。山田緋色」
なぜ俺の名を。
問うより早く、堕神は翻った。
「フィオナ・レスター……エバーディルを、思い出すよ」
タン、タン。
低い石段を、淡々と上がっていく。
「正面からやれば、このオレですら遅れをとる──忌まわしくも、美しい怪物」
壇上に辿り着くと、堕神は指を鳴らした。
パチン。
乾いた音が、空に溶けた時──
檀上の床から、淡い蒼光がにじみ出た。
「その魔力は、龍に届き……その剣は、巨人すら屠る。たかが一人のエルフを、神さえも恐れた」
白煙が噴き上がり、地が蠢めいた。
隆起するように現れたのは、等身大の結晶。
「だが……」
透き通った内部には、純白のドレスを纏ったエルフ──
フィオナが、収められていた。
瞳は閉じられ、呼吸すら感じない。
まるで標本だ。
「今代のレスターは、実に脆い」
堕神は、結晶を愛でるように撫でた。
「エルフの魔力は濃厚で、記憶も深いんだ……」
ずるり。
結晶の内側から、フィオナの上半身だけが押し出された。
垂れた水色の髪を、堕神の指先が弄ぶ。
その白い指が、頬に絡みついていく。
「デザートは、味わう主義なんだ」
堕神は首を回すと、横目で俺を捕えた。
「お前の味も、覚えているぞ」
細い舌が、ぬるりと唇をなぞる。
「なぜ生きているのか──身を焦がすほどの、苦悩。幾度も希望を抱え、また、堕ちていく……」
奏でるように、声が響いた。
「永遠に満たされない業が、犯してきた過ちが、お前を離さない」
深く。
鋭く。
「生まれながらにして、お前は……虚無だ」
突き刺すように。
「そんな人間──山田緋色に、オレは好意すら抱いている」
暗い愉悦を秘めた顔で、堕神は自らを抱き寄せた。
「何度、裏切った。愛する者を、親しい友人を……自分、自身を」
「やめろ……」
「オレたちは、よく似ている」
胸の銀輪が、微弱に震えた。
『耳を貸すな、緋色!』
「なぁ……」
堕神は視線を落とし──
這うように顔を上げた。
「誰かを助ければ、救われるかもしれない。本気で、そう思っているのか?」
冷たい瞳に宿っているのは、好奇心。
新しい玩具を見つけた子供のように、堕神は答えを待っていた。
それを見て──
俺は、ふっと口を緩めた。
「なにが可笑しい」
「悪い……自分でも、よく分からないんだ」
嘘だ。
「計画性ゼロ。優柔不断で、朝も弱い。嘘をつくのも下手だし、声はデカくてうるさい」
ここにいるのは、ただ、自分のためだ。
「でも──フィオナが居ないと、寝覚めが悪いんだ」
俺には、彼女が──
フィオナ・レスターが、必要だ。
息を深く吸い、吐いた。
乱れた鼓動が、整っていく。
見えぬ圧を断ち切るように、腰の剣を引き抜いた。
そして、
前を見据えた。
「……返してもらうぞ」
きょとん、と。
堕神は首をかしげると、手を掲げた。
『避けろ!』
ダイアンの声が弾けた。
轟ッ!!
大気が吹き荒れた。
裂くような風圧に、反射的に腕を前へ。
瞬間。
身体が浮き上がり──
後方へと吹き飛ばされた。
ダンッ!
書棚に叩きつけられ、本が一斉に弾け飛ぶ。
「ぐっ……!」
明滅する視界の中で、歯を食いしばった。
軋む身体を、無理やり起こしていく。
「暴力は、あまり趣味じゃないんだが……」
堕神は困ったように眉を下げると、両手を頬に添えた。
「仕方ないよな」
薄い唇が愉悦に染まり、甘い吐息が漏れた。
「踊ろうじゃあないか。アマービレに、カンタービレに、アジタートで!」
白い指先が、空を切る。
不可視の楽譜がなぞられていく。
「お前のために、今宵を刻もう──愛の詠唱!」
蒼魔の覇気に、突風が爆ぜた。
「忘れがたき導は冥府の詩篇」
歌うように。
「巡り回りて万世の永劫。記されしその名は骸に還る」
紡がれていく戦慄。
「忘我に朽ちよ」
景色が、歪んだ。
「≪追憶の断章≫!」
顕現したのは、天地裂く白の軌跡。
純白の刃線が、地をめくるように迫り来る。
『当たるなよ。喰われるぞ!』
「ちょっと黙ってろ!」
騒ぐ胸の銀環を手で打ち、床を蹴り込んだ。
横へ──ッ!
直後。
立っていた空間を、鋭利な白線が引き裂いた。
圧倒的。
空気がうねるほどの魔力奔流。
だというのに、書館はまったくの無傷だった。
「忘れたい。何度、そう思った?」
優しく、甘く、堕神は囁いた。
縦横無尽に、白き奔流が喰らいついてくる。
幾筋もの光が重なり、空間を押し潰していく。
止まる暇がない。
回避してなお、閃光が迫る。
「お前を覗いた時、オレは思った」
絶え間ない波状魔法が、層となって押し寄せた。
逃げ道が、削られていく。
「ああ──なんて、愛いらしいんだと」
裂けるほど口を広げ、堕神は八重歯を晒した。
遊ばれている。
「だから、喰らわずおいたのに」
トンッ。
堕神は飛翔した。
ステンドグラスの高みへ、重さなど無視して。
落ちる。
墜ちて来る──ッ!
細い腕が、しなやかに振り上げられた。
その手には何も──否。
剣だ。
薄く、透き通った蒼刃だ。
曖昧なそれは、確かに“斬る”形を持っている。
思考より先に、俺は短剣を構えた。
ギィィイイッ!!
散る火花。
走る鋭音。
潰れるほどの衝撃に、足が沈んだ。
重すぎる……ッ!
細身から出せる力ではない。
「なぜ、戻った?」
堕神は涼し気に、表情ひとつ変わりない。
足先を軸に、くるりと回って踏んだ。
斬撃が、踊る──ッ!
縦へ、横へ、返す刃が連なる。
息を呑むほどの流麗な剣舞。
流れる青い軌跡は、もはや即興の芸術だった。
「愛おしい。オレは、お前が愛おしい」
斬り、裂き、跳ぶ。
苛烈な輪舞曲に、青いドレスが舞った。
銀の長髪が、優雅に乱れる。
「二度巡り合ったのは、運命だ」
トン。
トトン。
トン。
軽快に刻む、破滅のステップ。
舞うように連なる剣閃が、絶え間なく押し寄せる。
息をつく暇すらない。
俺は後方へ、滑るように距離を取った。
「こっちに来い……緋色」
熱を帯びた唇が、月下に弧を描く。
「今度は、骨の髄まで喰らってやる」
誘うように、堕神は手を差し伸べた。
その時。
ぐらり。
堕神の体勢が、不意に崩れた。
「ッ……くそ……」
頭を押さえ、苦し気によろめいている。
『アナスタシアだ。彼女を感じる』
初めて生じた隙に、ダイアンの声が走った。
『緋色、出し惜しみするな。全力で行け!』
「分かってる」
呼応するように、短剣が脈打った。
俺は、女神の宝剣を──
停天光輝を、強く、強く握り締めた。




