第五十二話「原罪の堕神」
暗く沈んでいた視界が、白く開いた。
前に立っているのは、黒いローブを纏った茶髪の男。
その男──ダイアンは穏やかに笑った。
「君は、“原罪”に触れた」
「げん、ざい……?」
「この世には、触れてはならないモノがある。その最たる一つが、“原罪の禁書”」
喉の奥が、かすかに震えた。
「アナスタシアが持っているのは、そのうちの一冊──『青の封書』だ」
「その力で、冒険者たちを誘拐したわけか」
ダイアンは、ゆるく首を振った。
「彼女じゃない。厄介なことに、体を乗っ取られているようだ」
「ようだ、って……」
「彼女が悪に染まるなんて、ありえない」
「なんでそう言い切れる」
「理由は二つ。一つ目は──この僕が、愛しているからだ」
「ノロケじゃねぇか」
「ふっ。八堕神を知ってるかい?」
その言葉には、覚えがあった。
いつか書館で読んだ気がする。
「大陸で暴れ回った。みたいな話、だったっけ……」
「そう。悪しき堕神たちは、数多の英傑に討たれ──最後には、八冊の書に封じられた」
パチン。
ダイアンが指を鳴らすと、白の空間にひびが走った。
ピキ、と音を立て、硝子のように亀裂は広がっていく。
光景が、塗り替わった。
荒れ果てた大地。
崩壊しゆく建物。
ここは……街だ。
その中心には、ひとりの男。
いや。
あれは、
悪魔だ。
乱れた深紫の髪には、歪に曲がった黒い双角。
裂けるように広がる暗紫の衣をはためかせ、ただ、立っていた。
乱雑な髪の奥で、紫紺の瞳が覗く。
その奥にあるのは──
底のない、闇。
「かつて、この街を襲ったのは」
おぼろげに、ダイアンの声が響いた。
「記憶を喰らう魔神──“忘却のカリオス”」
魔神の薄黒い唇が、歪んだ。
だめだ。
これは、良くない。
災い。
破滅。
惨禍。
あらゆる不幸を形にした“何か”が、嗤っている。
格が、違う。
体中の細胞が、悲鳴を上げている。
だが。
値定めるような視線から、目を逸らせない。
人ならざる災いが、
一歩。
恐るべき破滅が、
一歩。
惨禍の死が、
一歩。
近づいて、来る。
「大丈夫」
穏やかな、ダイアンの声がした。
魔神は、俺の体を──
すり抜けた。
まるで、そこにないかのように。
魔神が見ているのは、俺ではなかった。
視線の先には──
地べたに尻をついた、茶髪の少年。
震える小さな体へ、魔神の手が伸びた。
その時。
カンッ、カンッ。
高く、靴音が響いた。
魔神が、煩わしそうに振り向く。
瑠璃色のヒールをわざとらしく鳴らすのは──
天より青い、絢爛なドレスを纏う女。
優雅に、銀の長髪をなびかせ。
華やかに、派手な裾を揺らし。
軽やかに、瓦礫の上で足を止めた。
その手には一冊の青い本。
女は気だるげに顔を上げると、不機嫌そうに腕を組んだ。
深海の如き蒼が、魔神を見下ろした。
「カリオスを討ったのは、“蒼き智謀”と称された──稀代の魔女、アナスタシアだ」
パチン。
指鳴りとともに、景色が崩れた。
視界の隅からダイアンが現れると、指を二本立てた。
「これが、二つ目の理由。負かした奴の力を借りるなんて、おかしいだろ」
「じゃあ、なんで」
「さぁね。いま分かっていることは……悠久の時を経て、最悪の脅威が目覚めた、ということだ」
「……助けを、呼ぶべきだ」
そんな相手に、勝てるとは思えない。
「感じるんだ。彼女の力が、弱まっているのを」
じっと、ダイアンはこちらを見た。
灰色の瞳に、笑みはない。
「それに、あの書庫は……僕と繋がった者にしか、辿り着けない」
「……」
「時間がないんだ」
穏やかな声が、低く響いた。
「君の大切な人だって、“別の何かになってしまう”、かもしれない」
「場所は」
短く問うと、ダイアンは目を細めた。
「いい顔になった」
明るく言うと、彼は懐から何かを取り出し、こちらへ放った。
細い鎖のついた、銀の指輪だった。
内側には、細かな文字が刻まれている。
“死が二人を別つとも”
「これは?」
「僕だ」
指輪が、微かに光を帯びた。
「僕、って……」
「安心して。乗っ取ったりしないから」
指輪が、すっと宙に浮かんだ。
「長くは干渉できないが、力になろう」
「戦えるんだな」
「ふっ。少しだけね」
ダイアンは肩をすくめた。
「“星詠みの書庫”、最深部。そこに彼女はいる」
真っ白な景色が、歪んだ。
「山田緋色。僕は、君に賭けることにするよ」
声が深く沈むと、ダイアンの輪郭は崩れ──
白の世界が、砕けた。
──雨が、降っている。
すぐ前には、祈りの壁。
手の内には、銀の指輪。
鎖が垂れたそれを首にかけると、指輪が光を帯びた。
『右だ』
ダイアンの声が、耳の奥に響いた。
言われるままに、右へ、左へ。
何度も路地を折れた。
霧の小道を抜けた、その瞬間。
雨は止み、霧が晴れた。
月光に浮かび上がったのは、銀の扉。
腰に下げた短剣を、強く握った。
『今回は僕もいる。負けはしないさ』
頼りの綱は、指輪で喋る謎の男、だけ。
……不安だ。
ギィ──。
銀の扉を押し開けた。
荘厳な音が、鳴り響いている。
オルガンだ。
果てない書棚が続く通路を、静かに進んでいく。
天井はどこまでも高く、彩色ガラスには月光が滲んでいた。
奥。
小さな階段の上に、巨大なパイプオルガン。
月に照らされた椅子には──
青いドレスの女。
銀の長髪が、月光を含んで揺れていた。
演奏が、止んだ。
「憂鬱……ああ……憂鬱、だ」
美しい低声が、深く響いた。
ダァンッ!
鍵盤が、叩きつけられた。
「どれだけ時が経ったか……」
細い指が、滑るように鍵盤をなぞる。
「オルガンだけが、上達してしまったよ」
ダラァンッ!
崩すように音を弾くと、女は息を吐いた。
「退屈は、この上ない地獄だ」
そう言って、振り向いた。
俺を見下ろすのは、深海のような瞳。
「なぁ……お前も、そう思うだろう」
稀代の魔女──
アナスタシアの薄白い唇は、歪んだ。




