第五十一話「忘却の図書館」
暗い。
何も見えない。
自身の輪郭すら、分からない。
俺はあたりを見渡した。
……見渡している、はずだ。
はっきりと意識はある。
ただ、暗闇の海を彷徨っていた。
闇を漂っていると、一筋の光が飛んできた。
ふわりと浮かぶ黄金。
それは俺の近くで一周した。
小さな鳥だった。
現実味のない、不思議な光景だ。
やがて鳥は、ゆっくりと前へ飛び始めた。
その姿を見て、気づいた。
鳥の体は薄く透けており、白い文字が刻まれている。
祈りの壁に吸い込まれていった、あの光鳥だ。
何が起きているんだ。
そう思ったとき。
ぼんやりと、光の塊が見えてきた。
闇の中で、そこだけが光を放っている。
──光鳥の群れだ。
無数の光鳥が渦を描いては、闇へと消えていく。
誰か、いる。
光鳥たちが舞う中心には、ひとりの男。
柔らかな茶髪に、金装飾が施された黒い外套。
グレーの瞳は、踊る鳥たちを眺めている。ただ、ずっと。
俺の近くにいた光鳥は、男のもとへ飛んだ。
男が手を差し出すと、鳥は静かにそこへ降り立った。
そして──
男はこちらに視線を向け、微笑んだ。
「やぁ、また来たね」
優しい声だった。
俺は口を開こうとしたが、音にならない。
「ああ。体がないのか」
そう言って、パンと手を叩いた。
直後。
男の全身から、純白の魔気が溢れた。
白の奔流が、闇を押し潰すように広がっていく。
やがて──
白が、一面に満ちた。
真っ白な世界で、男だけが佇んでいる。
「今日は黒コートか。似合ってるじゃないか」
俺は視線を落とした。
体が、ある。
「あの……初対面、ですよね?」
「いいや。一度だけ、会っている」
男は薄く笑った。
「もっとも……二度ここに訪れたのは、君が初めてだ」
「それは、どういう──」
「まだ、彼女を探しているんだね」
「……フィオナを、知っているんですか」
「ああ。知っているとも」
胸の奥が、わずかに揺れた。
「どこに居るんですか」
男の真っすぐな灰眼には、敵意はない。
むしろ、慈愛の気配すらある。
「彼女を愛しているんだな」
「愛……」
「照れるなよ」
「いや……本当に、分からないんです」
大切なものは、いつも手からこぼれ落ちてきた。
うまく言葉に、できない。
「俺は……ずっと、自分のことばかり、だったから」
「そんなの、昔の話だろ」
「……」
「誰かを好きになるのに、過去も未来も、関係ないよ」
男は穏やかに微笑んだ。
「さて、あまり時間がない。彼女の居場所を教えよう。ただ……教える代わりに、僕を助けてくれ」
「助ける?」
「正確には、助けて欲しい人がいる。うーん、説明が面倒だな」
男は歩み寄り、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
体が、動かない。
男の指先が、眼前に迫った。
「思い出して」
掌の闇に包まれた時。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
──雨が、降っていた。
冷たい雫が、頬を打ち続けている。
すぐ前には、祈りの壁。
白光が滲み、闇へと飲み込まれていく。
光鳥が舞う漆黒の中には、黒い外套を着た茶髪の男。
『やぁ。はじめまして、だね』
そうだ。
俺は──
この男を、“ダイアン”を知っている。
導かれるように、雨の夜街を歩いた。
右へ、左へ、幾度も角を曲がっていく。
細い小道を抜けると、雨がすっと晴れた。
雨上がりの月光に照らされたのは、銀の扉。
押し開けると、オルガンの荘厳な音が響いていた。
左右には書棚が広がり、その列は果てなく続いている。
天井は闇に溶け、聖堂めいたステンドグラスから、月の光が静かに降り注いでいた。
奥。
闇の中に沈んでいたのは、巨大なパイプオルガン。
演奏が、止まった。
カツ、カツ。
足音が響いた。
現れたのは──
深い蒼のドレスを纏った、紺碧の魔女。
月光を溶かす銀の長髪には、小さな青薔薇。
長い前髪の隙間から、冷たく澄んだ青眼が覗いた。
「彼女の名は、アナスタシア」
どこからか、ダイアンの声がした。
アナスタシアの左手には、一冊の青い本。
重厚な装丁の本が、ひとりでに開かれていく。
「ファンタジア最古の魔女にして──」
めくられ続けていたページが止まった。
その瞬間。
最古の魔女は、呻き、瞳を歪めた。
顔を半ば手で覆い、指の隙間から赤い光が滲む。
唇が、不気味に歪んだ。
得体の知れない“何か”が、そこにいた。
「僕の、最愛の女性だ」
そこから先は、何も覚えていない。
ああ。
俺は、知っていたのだ。
“忘却の図書館”を──。




