第十六話「さよならは言わない」
翌日の夜明け前。
薄暗い部屋で、黒銃を分解していた。
部品をひとつずつ外し、油をさしていく。
この黒銃──〈ジューダス〉は回転式拳銃だ。
中心の回転機構部が正しく動作しなければ、弾は発射されない。
手入れを怠れば、暴発のリスクも跳ね上がる。どんな武器でも手入れは基本だ。
最後に全体を拭き上げ、元の形へと組み立てた。
「これで、よし」
あらためて見ると、自衛隊の小銃とは構造がまるで違う。
──まあ、たぶん使えるだろう。
肩下のホルスターに黒銃を収め、黒革の短いジャケットを羽織った。
履きなれた革のブーツに足を入れ、紐を引き、結んだ。
指先があいた黒革の手袋をはめ、短剣の鞘をつけたリュックを背負い──
準備、完了だ。
部屋に備え付けられた全身鏡に、自分の姿が映っている。
小さな頃は、よく玩具の剣をもって近所を走り回っていた。
まさか、本当に冒険に出る日が来るとは。
照明を落とした。外はまだ薄暗い。
森の香りがする、ツタだらけの部屋を見渡した。年季の入った木の机は、角が少し削れていて……その上には、お気に入りの白いコップ。部屋の奥には、古めかしい豪勢なベッド……よく眠れる心地いい場所だった。
俺は、扉をゆっくりと閉めた。
風牙隊の皆には、もう別れを済ませてある。
イリナさんにも会ったし、読みかけの本も返した。
あとは──
里の西外れの古家。
芝生の上で座禅しているのは、ヴァネッサだ。
昇りたての朝陽に、褐色の肌が柔らかく光っている。
黒い長髪が風に揺れ、風景と溶け合っているようだった。
「おはよう。ヴァネッサ」
「そうか……行くのか。山田」
「あの、グレース隊長のことだけど──」
「言いたいことは分かっている。私だって、いつまでも子供じゃない」
金色の瞳を細め、彼女は微笑んだ。
「実家に行くよ。あとで、草餅でも買って──グレースも連れてな」
「ああ……きっと、喜ぶよ」
少しだけ、肩の力が抜けた。
「今まで本当にありがとう。ヴァネッサ」
「いいや、感謝するのは私の方だ。山田がいなければ、私は変わろうとしなかった」
ヴァネッサは、ひと呼吸おいて。
「ありがとう。本当に楽しいひとときだった」
「……また、会いに来るよ」
「さらばだ──緋色」
「行ってきます。師匠!」
初めての呼び名に、彼女は一瞬だけ目を見開き──すぐに笑みを戻した。
「いってらっしゃい」
鋭い金の瞳は、今日は優しく見えた。
ヴァネッサの元を去り、外に続く大門へと歩いた。
「あれ……」
大門の前に、エルフの戦士たちがいる。風牙隊だ。
先頭には、紫髪を後ろで結び、背筋を正した女性──ランシアがいた。
「風牙二隊、三隊、整列!」
彼女が声をかけると、散っていたエルフたちは素早く整列した。
グレースたち一隊は、外回りなのか姿はない。
リーリーは──どこにもいなかった。
「同胞・山田緋色に、敬礼!」
ランシアの号令に合わせ、エルフたちは胸に手をあてた。
俺も胸に手をあて、礼を返す──言葉はないが、胸の奥がじんと熱くなった。
最後に一礼し、見送られながら大門をくぐっていく。
すると──
「あーあ! みーんなリーリーを置いていくんだ!」
桜色の樹の下。
緑髪の少女が、太い幹に背を預けて立っていた。
「リーリー。俺は──」
「リーリーもっ!」
彼女は声を張った。
握った拳は、かすかに震えている。
「本当は行きたい! けど……行けない……待ってるって、約束があるから」
「……そうだな」
「ひーろ。また会えるよね」
「もちろん。必ず、また戻るよ」
リーリーは俺の下腹部めがけ、勢いよく飛び込んだ。
「うぐぅッふ!」
「リーリエル・ナンジェ」
「えっ?」
「リーリーの、ほんとの名前! ひーろだけに、教えてあげる。だから──」
小さな唇は、頼りなく震えた。
「私を……忘れないで」
約束は、確実なものじゃない。
彼女自身が、きっと一番わかっている。
それでも──
「絶対に、忘れないよ」
小さな肩を、強く抱き寄せた。
「大丈夫、大丈夫だ」
リーリーを独りにしたくはない。
しかし。
俺は、行くと決めたのだ。
頭を思いきり撫で、身を離そうとすると──
「まって! おなか、だして!」
「こうか?」
彼女は犬歯に親指をあて、皮膚を噛み切った。
滲んだ血が伝う指を、そのまま俺の腹へ。
「願う、願う──リーリエル・ナンジェは、ここに真名を込め、心より願いたてまつる」
なぞるように、親指の先が腹を滑っていく。
「親愛なる者に──山田緋色に──風の女神・エルゼの祝福あれ」
右腹の下に、小さな紋様と文字が浮かび上がった。
曲がりくねったその字体は、エルフ語ではないように見える。
「これは……」
「おまじない!」
「なんて書いてるんだ?」
「んーっ。教えないっ!」
にひひ、と彼女は笑った。
「嬉しいよ。ありがとう」
「ん! 約束!」
リーリーは小指を出した。もう指切りは覚えたようだ。
俺は小指を絡め、翡翠の瞳を見つめた。
「また君に、会いに来る──必ずだ」
「……うん」
そっと、指を離した。
手を振りながら、徐々に遠ざかっていく。
気になって振り向くと、リーリーはまだ門の前にいた。
「早く帰ってきてねー!! 百年ぐらいなら、待ってるからねー!!!!」
「気長すぎだろ……」
──このまま、戻ってしまおうか。
豆粒ほどに小さくなった彼女を見て、そう思った。
里の豊かな景色、子供たちの声、陽気な隊長、厳しいライル、明るいリーリー、優しいイリナさん、穏やかなランシア、風牙隊のみんな。
一年もいなかったのに、
それなのに、
エバーウッドはもう、俺の故郷だった。
ああ、
俺は──
楽しかったんだ。
フィオナと過ごした日々が、リーリーと遊んだ毎日が。
嬉しかったんだ。
長老が、ライルが、ランシアが──みんなが、俺を受け入れたことが。
寂しいんだ。
イリナさんの書館に、もう通えないことが。
ヴァネッサの横に座り、鍛錬できないことが。
苦しいんだ。
ここで過ごした全てが、遠くなることが。
この里に来てから俺は、以前より弱くなった。
だって、そうじゃなきゃ、
こんなにも、
──。
ぼやけた里の景色に、声を押し出した。
「必ず、また……」
さよならは言わない。
──ありがとう。
森を歩いた。黙々と、ただ一人。
もう後ろは見ずに、俺は前に進んだ。




