第十二話「英雄の旅立ち」
鳥のさえずる声が聞こえた。
瞼を開けると、窓辺に立つ彼女──
『おはよう』
揺れる水色の髪に、眩しい笑顔。
一瞬浮かんだそれは、霧のようにほどけて消えてしまった。
指輪を渡したあの日から、二週間──彼女が部屋に訪れることはなかった。
俺はベッドから身を起こし、窓辺へと歩いていく。
両手で大きな窓を押し開けると、柔らかな朝陽が流れ込んだ。
肌を刺すような光に、思わず目元を覆った。
「くぅ~、今日もいい天気だな」
二階から見える森は、ほのかな桜色に染まっている。
この里にも桜があるのかと思っていたが、〈春星〉という名の木らしい。
柔らかな木の匂いを感じていると──
「ひーろー!! おはよー! いこー!」
弾むような明るい声がした。
窓下の玄関先を見ると──緑髪の少女、リーリーがぶんぶんと手を振っている。
「ああ! いま行くー!!」
晴れやかな今日は、英雄を見送る祝祭の日。
彼女に──フィオナに別れを告げる日だった。
リーリーと並んで中央広場を歩いていく。
いつもより人が多く、通りはごった返している。
里は祭りのような空気に包まれ、別れを惜しむ気配はなかった。
石畳の両脇では、店先に色とりどりの布が掲げられている。
ふと、飲み屋の軒先から弾んだ声が流れてきた。
「それにしても姫さま、まだ九十なのに出発が決まるなんてなあ」
「エリンさま以来の才女だ。おかしくはないだろう」
「里の未来は安泰ってもんだな。ガッハッハ!」
そんな会話が、行き交う人のざわめきに紛れて耳に入ってくる。
皆が英雄に──フィオナに期待しているようだった。
人混みを抜けると、足を向けたのは里の東──目的地はフィオナの家だ。
水辺に沿って続く土手道を歩くと、澄んだ風が草の香りを運んできた。
土手道を抜けた先は、両脇に木が生い茂る林道──道は真っすぐ伸び、遠くには青い屋根の家がある。英雄が住む場所にしては、あまりにも質素な家だ。
「フィオナー! おはよー!!」
ノックも無しに、リーリーは勢いよく扉を開け放った。
しゅる──柔らかな布が、肌をなぞる気配がする。
水色の髪は白い肩先に揺れ、衣服は音もなく落ちていく。
フィオナは着替え中だった。
「ん、おはよ!」
俺は、両手を合わせ拝んだ。
もはや罪悪感もなく眺める俺は、女神を崇拝する信徒である。
「なにしてるの?」
「いえ。今日もありがとうございます」
「ん~?」
彼女は小さく首を傾げたあと、胸に巻いた絹布を整え始めた。
「サイズ合わなくってさ。ちょっと待ってね」
「……ずるい」
横で、リーリーが自身の平らな胸に触れた。
そして──フィオナの胸へと飛び込んだ。
「ずーるーいー!!」
「ちょっと! リーリー! 邪魔しないでったら!!」
「……外で、待ってますね」
騒がしい室内を後にして、家の前にある小さなベンチに座った。
林に囲まれたこの場所は、里の中より空気が美味しく感じる。
しばし座っていると──扉が開いた。
「お待たせっ。準備完了!」
「ああ、行こうか」
へそを出した軽装の革服は、とても動きやすそうだ。
背中には、体の半分ほどもある大きなリュック。
「それ、重くないのか?」
「全然! 鍛えてるからね! 忘れ物ないかなぁ」
フィオナはがさごそと中身を確認した。
「水筒に、寝間着に、あとは~寝る前に読む本でしょ~」
リーリーがひょいと覗き込んだ。
「おかし、持ったー!?」
「もちろん! 一週間は困らないはず!」
「遠足かよ」
……大丈夫なんだろうか。
「──行ってきます」
誰もいない部屋にぽつりと呟き、フィオナは名残を惜しむように鍵を閉めた。
里のみんなが見送る大門──旅立ちの場所へと歩いていく。
リーリーは何も言わず、フィオナの手をずっと握っている。
「私たち、会ってからもう半年以上たってるんだね」
「実感ないなぁ。まだ二カ月ぐらいの気分だ」
「そうだね。楽しいこといっぱいあったから……一瞬だったかも。ありがとうね」
「俺は、何もしてないよ」
「緋色がいるから、リーリーが訓練に来るようになったし、ライルも明るくなったんだよ」
「ほんとかなぁ」
「私も緋色が来て、色んな話をするようになって、毎日が楽しかった」
彼女は目を伏せたあと、何かを思い出すように遠くを見た。
「本当はね、私……逃げちゃおうと思ってたんだ」
「え?」
「毎日のように辛い修行をして、なんで私が、なんでって。私じゃなくても良いじゃないって。ずっと何年も、何十年も思ってたの」
フィオナの告白を静かに聞きながら、俺たちは歩いていく。
会話は途切れ──
土手を踏む足音だけが、さく、さくと続いていった。
しばらくして──
「初めて会ったあの日だって、修行さぼってたんだ……」
フィオナはくすりと笑うと、ふいに立ち止まった。
「そんなとき、あなたに会った」
彼女は左手を上げ、薬指の指輪に目をやった。
「人間の話は面白いし、里はいつもより綺麗に見えた。一緒にいる日々は、本当に楽しかった」
「……」
「この里を、守りたいって思えた」
久しく見ていなかった、陽だまりのような笑顔。
「あなたがいてくれたから、私は前を向ける。本当に──ありがとう」
真っすぐな瞳を向けられて、俺は何も言えなかった。
「行こっか!」
フィオナは進む、迷いなく。
──足が、重い。
まるで見えない何かが、足に絡みついているように──。
大門の前につくと、里中のエルフが集まっていた。
総勢五千を越えるというのに、広場は静まり返っている。
「緋色」
水色の髪をさらりと流し、彼女は振り向いた。
「……フィオナ」
何を言えばいいかわからない。彼女の泣き顔が、頭から離れない。
俺は、フィオナに何をしてやれるのか──。
「必ず帰って来るから。その時は、また一緒に串焼き食べて、踊って、お酒飲んで……それから……それから……いっぱい、いっぱい話そうね」
「……ああ。待ってる……約束だ」
右手を前に出し、小指を差し出す。
「これは?」
「俺の故郷でいう約束──指切りっていうんだ。小指を絡めて、誓いを交わして、指を離す」
彼女は一瞬だけ迷い──そっと小指を絡めてきた。
「早めに帰ってきてくれ。人間はすぐ死ぬからさ」
「ふふ、そうね!」
「……リーリーも! リーリーもやる!」
「はいはい。三人でしよ」
三人で小指を絡め合ったあと、フィオナは柔らかく微笑んだ。
「誓います。必ず──必ず帰ってきます」
固く結んだ小指が、緩くほどかれていく──。
「それじゃ……もう、行くね」
一瞬、ほんの一瞬、彼女はこちらを見て──それから何も言わず、ゆるりと歩を進めた。
その背を追うように、俺とリーリーも歩いていく。
フィオナが群衆に近づくと、海が割れるように道が開いていった。
広場中央の石畳には、古い円環の紋様が刻まれている。大神樹が描かれたその場所に、七人のエルフが横一列に並んでいた。
フィオナは、まっすぐその一人──長老の前へと進んだ。
「別れの挨拶は、済んだか」
「……はい」
「我ら七聖──英雄の歩みに、幸運を祈る」
澄んだ鐘の音がひとつ、ふたつと鳴った。
「フィオナ・レスターに、女神の幸あらんことを。合掌──ッ!」
長老の低い声に応えるように、里のエルフたちは手を合わせた。
鐘の音が響くなか、フィオナは道の中心を歩いていく。
「フィオナー! リーリーのこと、忘れないでねー! 待ってるからねー!!」
彼女は、大門の前で振りかえると──大きく手をふった。
「みんなー!! またねーーーー!!!!」
フィオナは、最後まで笑っていた。
桜色の花吹雪。
彼女は、春の星のように明るかった。
「フィオナー! またなぁー!」
手を振った、負けじと大きく。
笑って送り出す、そのはずなのに。
──うまく、笑えない。
胸にトゲが刺さっている。小さく、目には見えないが、でも、確かに。
フィオナが離れていくほどに、それは深く、深く、俺を貫くようだった。




