第一話「生きたかったのだろうか」
“どうして生きているのだろう”
物心ついた時、最初に浮かんだ言葉だ。
両親は父の暴力で離婚。母に引き取られたあとは、祖父の家で過ごすことになった。
母の帰りはいつも遅い。ひとりでは眠れず、暗い部屋でテレビを眺めた。
画面の中の人たちは、なぜ笑っているのだろう。
世界はこんなにも寂しくて、こんなにも息苦しいのに──なぜ。
ある日、ひとりでも寂しくないようにと、母がゲームを買ってくれた。
無心でやった。貪るように、何かを満たすように。
──そうか。自分は、主人公なんだ。
孤独も、悩みも、痛みも、すべてはクエスト。成長するための試練。
だが、助ける姫もいなければ、倒すべき魔王もいなかった。
物語のゴールが分からないまま、背丈だけが大きくなっていく。
周りの人間は幸せそうで、悩みなどないように見える。
いつのまにか母親は再婚し、妹と弟が出来た。母は前向きに人生を生きているようだった。
俺の胸には、まだ見えない穴が空いていた。
人と同じになりたい。やりたいことを見つけ、大きな夢を持ち、心から笑いたい。
幸せとはなんだろうか。
それから色んなことに挑戦した。
中学はソフトテニスで地区大会優勝。高校は吹奏楽部に入りコンクール優勝。
結果を出せばみんな喜ぶのに、自分だけが何も感じなかった。
みなが夢や希望を語る中で、俺は流されるまま大学へ進学した。
目標もないまま四年が過ぎ──卒業後、祖父の薦めで航空自衛官になった。
やりたかったわけではないが、まんざらでもなかった。
休みも金もあった。やがて彼女を作り、結婚した。一年で子供ができた。
人間の幸せとされることは、一通りやってみた。
傍から見れば、悪くない人生だったと思う。
しかし──だめだった。
他人のことを一番に考えられなかった。
認めたくなかった。自分は普通の人間ではない──出来損ないなんだと、認めたくなかった。
何をしても胸の穴が閉じない。むしろ少しずつ大きくなり、自分を蝕んでいる気さえする。
心が晴れないまま、二度目の結婚をした。
一度目は上手くいかなかっただけ、そう自身に言い聞かせた。
そして気づいた。いつまでたっても、俺は自分のことだけ考えている。
二度目の離婚をした頃、弟と妹は立派な社会人となっていた。
自分だけが取り残されている気がした。
うまく生きている人間が眩しく見えた。
俺の手には、何もなかった。
“なぜ生きているのか”
三十年以上、同じ問いを繰り返していた。
気づけば三十二歳。
努力しても変わらなかった。そもそも努力なんてしていないのかもしれなかった。
俺は、自分が嫌いだった。
「疲れたな」
夏の真夜中、薄暗い森の田舎道。
俺は車のハンドルを握りしめ、青いインプレッサを走らせていた。
目的地はない。
闇に沈んだ森の中、信号もない道をひたすら進む。ただ前へ。
フロントガラスには、黒髪の男が映っていた。
無表情のまま前を見据える瞳は、光を拒むように濁っている。
髪は寝癖のまま、シャツの襟は皺だらけ。壊れかけのクーラーがやけに癇に障る。
ラジオから、パーソナリティの明るい声が響いた。
「最近よく人が消えているそうですよ。なんでも突然飲み込まれるとか」
「ワームホールですか。映画の見すぎですよ」
「噂ですからね。ハッハッハ!」
軽快な笑い声が、スピーカーの奥で弾けている。
「バカらしい」
誰に聞かせるでもなく、俺は呟いた。
その時。
フロントガラスの向こうで、夜を裂くヘッドライトの光が揺らめいた。
「……なんだ?」
風が止んだ。
虫の声も聞こえない。
唸っていたエンジンは静かになった。
──音が、消えた。
まるで世界の呼吸が止まったようだ。
次の瞬間、視界の端がぐわんと歪んだ。
「ッ!」
車が跳ねた。激しく揺れた。
いや、揺れているのは車じゃない。地面だ。
揺れている。世界が揺れている。地面が液体のように波打っている!
混乱の最中、前方数百メートルもない距離で、光の筋が渦を巻きはじめた。
それは闇を裂くように膨張し、こちらへ向かっている。
飲み込まれる──ッ!
木々はねじれ、星空が落ち、暗い森は反転した。
吐き気がするほど景色が回った。天地の境界はもうない。
反射的にハンドルを切り、ブレーキを踏んだ。
しかしタイヤは路面を掴まない。
物理法則を無視するように、青い車体は光の渦へと吸い込まれた。
落ちていく、落ちていく。
世界が落ちていく──ッ!
「ぁっ──うわッ、ぁああああああああああ!!!!!」
しがみつくような咆哮が聞こえる。
それが自分の声だと気づくまで、少し時間がかかった。
俺は、生きたかったのだろうか。
視界は闇へと沈んだ──。
*
ザァ──。
風の音だ。
小さな鳥のさえずりも聞こえる。
まぶたの裏には、やわらかな光が差し込んでいた。
湿った土の匂いに、ゆっくりと意識が浮かび上がっていく。
背中が冷たい。ここは、土の上か。
焦げくさい──何かが焼ける臭いだ。
重たい体を起こすと、巨大な樹が目に飛び込んできた。
その根元で、白い煙が立ちのぼっている。
「まじかよ……」
臭いの元凶は、大破した愛車だった。
社会人の頃、必死に貯めた金で買った“スバル・インプレッサ”。
初めて彼女を乗せた日、花火を見に行った夜、思い出が脳裏を駆け抜けた。
青い車体は、もう見る影もない。
現実が、冷たく胸に突き刺さった。
「いってぇ……」
額を押さえ立ち上がると、足元の苔は柔らかく沈んだ。気のせいか、淡い光を放っている。
周りを見渡すと、そこは色彩に満ちた世界だった。紫や桃の花々が地を彩り、翡翠色の葉を茂らせた樹々が空へ伸びている。風が吹くたび無数の粒子が舞い上がり、森全体が星の海に沈んでいるようだ。音も、匂いも、現実のものではないように思う。
「なんだ、ここ……」
突然の事態に混乱しながらも、美しいと思った。
景色に目を奪われるなんて、いつ以来だろう。
ザッ。
俺は歩きだした。
靴先が苔を撫でるたび、小さな光がふわりと散っていく。
サァ──。
水音だ。遠くから聞こえる。
音に導かれるように進むと、木々が途切れ、視界が開けた。
そこにあったのは、鏡のように澄んだ湖。
静かな湖面は森の幻想を映し、まるで世界が眠っているようだ。
中央に、“何か”いる。
朧げなそれは、近づくと人の形をしていて、少女のようだった。
透き通る水の中で、薄い水色の髪がゆるやかに揺れている。
少女の肌は光を受けて淡く輝き、滴が肩を滑り落ちた。
布の気配はない。だが、決して官能ではない。水と光が形を成したような、神聖な気配だ。
湖面に散る小さな光の蝶は、彼女の周りを旋回していた。
神秘的、としか表現する言葉がない。
この時は、耳が少し長いことなど、気にもしていなかった。
少女がこちらを見た。
瞳は硝子のような碧眼だ。
呼吸が止まった。
今までどうやって言葉を発していたのか、急に俺は分からなくなった。
少女の瞳が揺れ、唇がわずかに動く。
水面が震えた。世界はその瞬間、再び音を取り戻した。
それが、彼女との出会いだった。




