第十三話
アヌヴィルの巨大な神殿には全ての神々が寝泊まりできるほどの部屋がある。
エルゼリカとグレイガルが入ったのはそのうちの一つだった。
「あの、助けてくれて、ありがとう」
「ああ……」
「それから、えっと……その……ごめんなさい」
エルゼリカは視線を床に落としたまま、謝罪の言葉を口にする。
「……それは、名前を騙ったことに対してか?」
「ええ、そう……」
今、グレイガルはどんな顔をしているのはエルゼリカにはわからない。
呆れているだろうか、怒っているだろうか。
もし、先程ガレムドラに向けていたような冷たい眼差しを向けられていたらどうしよう。
そんな考えばかりが頭をめぐる。
「なあ、顔を上げてくれないか?」
しかし、彼からそう言われれば拒否するという選択肢はない。
だからエルゼリカは呼吸を整えて、ゆっくりと顔をあげる。
「……やっと目があったな」
グレイガルは静かな目で彼女を見つめていた。
少なくともそこに、エルゼリカが想像していたような失望や怒りは見当たらない。
「怒って、いないの? 私、あなたを騙したのに……」
「……まあ、怒りを感じなかったのかと言われると嘘になる」
「……そうよね」
グレイガルが怒りを覚えるのは当然だ。騙されれば誰だってそうなる。
「どうしてそんなことをしたのかもわからず、からかわれたのではないかとすら思った」
「ち、違うわ、あれは……」
自分の身勝手な行いが彼を傷つけてしまった。
そう思うと、エルゼリカは涙がこみ上げてくるのを止められない。
けれど、ここで自分は泣く権利などないのだと、それを必死で堪える。
「違う、違うの……あなたを、からかうつもりなんて、なかったのよ……私、冥界の女神だって、知られるのが怖くて……嫌がられたらどうしようって思って……」
必死に弁解するも、出てくる言い訳はどれも自分の都合ばかり。
自分の醜悪さに吐き気がしそうだ。
「嫌われたくなかった……嫌われたくなかったのよ……」
矮小な保身でついた嘘。その因果が巡り巡って自分に返ってきた。
どうしようもなく自業自得であり、それ以外の何者でもない。
「ごめんなさい……もう、私……二度とあなたの前に現れない。声もかけないから……本当に、ごめんなさい」
涙が止まらず、零れ落ちそうになる。
けれど、それをカサついた指先がそっと拭った。
「何か勘違いしているが……俺は、もう怒ってない」
「……え?」
予想していなかった言葉に、エルゼリカはきょとんとした表情をする。
それを見て、グレイガルは苦笑を浮かべた。
「俺が何の為にアヌヴィル様に頼み込んで、そなたとこうして話す機会を手に入れたと思っている」
「……私を責める為じゃないの?」
「違う」
グレイガルの指がエルゼリカの頬に添えられる。
「そなたの名を、教えてほしかったからだ」
それはつまり、もう一度やり直す機会を与えてくれるということだろうか。
あまりにも自分に都合のいい展開に、エルゼリカは自身の耳を疑った。
「私の名前を、聞きたいから?」
「ああ、そうだ……俺はそなたの口からそなたの名を、知りたい」
それだけのために、彼は奉納戦を勝ち進んだというのだ。
エルゼリカの視界はまた、滲んでいく。
けれど今は、泣くよりも先にしなければいけないことがある。
「エルゼリカ……私の名前はエルゼリカというの」
「……エルゼリカ」
呟くように彼が自分の名を唱える。
それだけでエルゼリカの胸は今まで感じたことのないほどに満たされた。
知らず識らずのうちに、彼女の口元に笑みが浮かんだ。
それをみて、グレイガルが息を呑む。
「グレイガル?」
固まってしまった彼にエルゼリカが不思議そうに首を傾げる。
「……もっと、見せてくれ」
「え?」
「そなたの笑った顔だ」
目を細めて自分を見つめる彼の眼差しは、優しくも熱を孕んでおり、エルゼリカの体温が上昇していく。
「不思議だ。美しさなど理解できない俺だが、そなたのことはずっと見ていたいと、目を離すのが惜しいと思ってしまう」
「あ……あ、の……」
体中が熱くて、火を噴きそうだ。
顔をうつむけたいのに、顔に添えられたグレイガルの手がそれを許してくれない。
「俺はずっと、この心の動きこそが美しいというものだと思っていたが、どうやら違うようだ。そなたにはわかるか? この感情がなんなのか」
「それ、は……」
グレイガルの言っていることに、エルゼリカは心当たりがあった。
なぜなら、同じような気持ちを彼女も抱えているからだ。
「それは、きっと……恋だと、思う」
「……恋。そうか、これが……」
エルゼリカの言葉を受け止めて、グレイガルは腑に落ちたような顔をする。
一方、エルゼリカは恥ずかしくて、照れくさくてたまらない。
「本当にそなたは、俺にいろんなことを教えてくれるな」
「……それは、私も同じよ」
グレイガルと出会うまで、エルゼリカはこんな気持ち知らなかった。
こんなに誰かに焦がれる気持ちも、満たされる気持ちも、全てグレイガルが教えてくれたことだ。
「でも、でもね。私、まだ足りないの。あなたのことが、もっと知りたい」
はしたないと、我儘だと、言われてしまうだろうか。
しかし、そんなエルゼリカの不安を一蹴するように、グレイガルが微笑む。
「……俺もだ」
ゆっくりと近づいてくるグレイガルの唇を、エルゼリカは目を閉じて受け入れた。
こうして冥府の女神と戦いの神は結ばれたのです。
その後、戦いの神の助力により冥界の環境は少しずつ整っていき、女神の負担はとても軽くなり、笑顔が増え、眷属たちも大喜び。
冥界は、あいも変わらず暗くて冷たい世界でしたが、二人はいつまでも寄り添いながら人々の魂を見守っているのでした。
めでたし、めでたし。