12『春』
四月。木代花は柄にもなく緊張していました。入試のときより緊張しているかもしれません。固定電話の子機を握った両手は僅かに震えて、心臓がドクドクと脈打っていました。子機に電話番号を入力したものの、最後の通話ボタンが押せないのです。緊張と期待と動揺が頭の中で混ざり合い、木代花の体を硬直させます。
「木代花、どうしたの?」
キッチンで夜ご飯を作っていたお父さんが言いました。
「お父さん。いや、あのね、樹介くんに電話しようと思って」
木代花がそう言うと、お父さんは手を洗ってからこちらにやってきました。そして、子機の画面をのぞき込んだのです。
「あと通話ボタン押すだけじゃん」
「そうなんだけど……。ほら、会うどころか話すのも久々で、何話したらいいのか」
「元気? でいいんじゃない?」
「そんなのでいいのかなぁ。もっと面白い話した方が………あ!」
なかなか前に進まない木代花にきっかけを与えようと、お父さんが代わりに通話ボタンを押しました。手にしていた電話から呼び出し音が聞こえます。
「お父さん! え、どうしよう。かかってる。切る? いや……、え!?」
パニックに陥る木代花を見て、お父さんは楽しくなってきました。若いなぁ、俺にもこんな時代があったなぁ、と過去に想いを馳せました。最近のお父さんは、お母さんの死を受け入れられるほどには症状が良くなっていました。時折、木代花と若い頃のお母さんについて話をしています。このときのお父さんは、妙に饒舌になるのです。
『もしもし』
木代花が慌てていると、突然電話が喋りだしました。
「あ、え、あの! もしもし!! き、樹介くん、ですか!」
思ったよりも大きな声が出てしまい、木代花はそのことにも慌てふためきました。電話の向こうにいるであろう樹介は、それから暫く反応を見せませんでした。木代花は電話番号を間違えたんだ、とさらに焦り始めました。貰った手紙を何度も確認して、入力したあとも番号を覚えるほど見返したのです。これで間違っていたとすれば、樹介の書いた番号が違っていたことになります。
木代花は咄嗟にお父さんの方を見ますが、お父さんは助けるどころか楽しそうに笑っています。とても頼りになりません。
「あの」
満を持して声を発すると、電話がガサガサという音を発しました。
『……………もしかして、木代花ちゃん?』
聞きなれない声です。けれど、木代花のことを知っている人でした。
「はい」
『あ、うん。えっと…………………………………、僕も木代花ちゃんのことが好きだよ!!』
樹介は早口にそれだけを言い残し、木代花の返事を待たずに電話を切ってしまいました。その場に残された木代花は茫然とし、お父さんは両手を口の前に置いて目をキラキラさせています。
「ん?」
よく分からなくなった木代花は、再び樹介に電話をかけました。二回目のコール音で繋がった電話の向こうからは、焦っているであろう樹介の声が聞こえてきました。
「樹介くん?」
『いや、あの、まさかかかってくるとは思ってなくて……心の準備ができてないというか、その、緊張しちゃって』
「樹介くん落ち着いて。とにかく深呼吸しよ」
自分より緊張していた樹介のおかげで、木代花はいつもの調子に戻っていました。傍で二人の様子を見ていたお父さんは、なぜか鼻歌を歌いながらキッチンへと戻っていきます。木代花には、お父さんが鼻歌を歌っている理由が分かりませんでした。けれど、機嫌が良いことは悪いことではありません。
『ごめん木代花ちゃん。もう大丈夫』
深呼吸を数回繰り返した樹介は、落ち着いた声でそう言いました。数年ぶりに聞いた樹介の声は、記憶にある声よりも遥かに大人びていました。木代花の名前を呼んでくれなかったら、誰と話しているのか分からなかったでしょう。それほどまでに様変わりしていたのです。
「樹介くん、元気?」
一呼吸置いて、木代花はゆっくりと問いました。聞きたいことはたくさんあったはずなのに、いざ話すとなると頭の中からひとつ残らず消えてしまいます。木代花は「メモしておくんだった」と少しだけ後悔しました。
『うん元気だよ。木代花ちゃんは元気?』
「元気。お父さんも元気だよ」
『そっか。よかった!』
嬉しそうに言う樹介の声に、木代花は安堵しました。久しぶりに話したはずなのに、どこか懐かしさを感じたのです。文通をしていたのも理由の一つでしょうが、「よかった」の言い方が昔の無邪気さを彷彿とさせました。声も見た目も変わったであろう樹介ですが、木代花の知っている樹介は今でも向こう側にいました。
「いろいろ話したいことがあったんだけど、樹介くんの声聞いたら忘れちゃった」
『え、頑張って思い出して!』
「…………ちょっと無理そう」
『そんなぁ』
樹介の残念そうな声が聞こえてきて、木代花はクスッと笑いました。そして、再び電話をかけた理由を思い出しました。
「そう言えば、さっき樹介くんなんて言ってたの?」
『え!!』
樹介の顔が赤くなっていくのが想像できました。木代花は少しだけ意地悪をして、わざと聞いたのです。本当は樹介がなんと言ったのか、ハッキリと聞こえていました。けれど、もう一度聞きたいと思ったのです。大好きな人からの告白を、鮮明に記憶しておきたいと思ったのです。
木代花は電話を耳にしっかりと当て、一文字だって聞き逃さないように構えました。いつ言われようとも、既に心の準備はできています。樹介も決心ができたようで、本日二回目の告白を口にしました。
『僕は、木代花ちゃんのことが好きです』
今回は早口ではなく、しっかり伝わるように丁寧に言いました。樹介の言葉を全身で受け取った木代花は、嬉しさのあまりその場に硬直しました。おまけに顔は真っ赤に染まっています。
『だから、その、僕と付き合ってほしいです』
「はい!!」
木代花は間髪入れずに大声で答えました。そして、満面の笑みでお父さんの顔を見つめました。その様子から察したのか、お父さんは控えめに拍手を送りました。なんだか木代花よりも嬉しそうです。
『付き合ってくれるの?』
「うん! 私樹介くんと付き合う!」
『これからは恋人ってこと?』
「そう! 私と樹介くんは恋人!」
『うそ……』
あまりの衝撃に、樹介は現実を受け入れられていませんでした。なぜなら、樹介は物心ついたときから、木代花に片想いをしていたからです。そんな相手と付き合える夢のような事態に、面白いほど困惑していました。
「樹介くん、嘘じゃないよ。今この瞬間から、私たちは恋人同士なんだよ」
『僕と木代花ちゃんが、恋人……』
その言葉を最後に、子機からは泣き声しか聞こえなくなりました。木代花がどれだけ呼びかけても、何を言っているのか聞き取ることはできません。そうしているうちに、お父さん特製のオムライスが完成しました。樹介が泣き止むのを待っていると、せっかくのご飯が冷めてしまいそうです。
「ご飯できたから切るねー」
木代花はそれだけを伝えて、さっさと電話を切ってしまいました。おそらく樹介は、電話を切られたことにも気づいていないでしょう。
「切っちゃってよかったの?」
席についたお父さんに続いて、木代花も自分の椅子に座ります。
「うん。なんかずっと泣いてたから」
「それ大丈夫なの?」
「多分。……だって、何言ったって全然答えてくれないんだもん」
「それは…………しょうがないね」
「でしょ? いただきまーす」
木代花は挨拶をしてからスプーンを手にし、出来立てのオムライスを一口掬って口に運びました。
「美味しい?」
「うん! 美味しい!」
チキンライスと卵の味が口いっぱいに広がり、木代花は幸せの海で溺れそうになりました。
「お父さん料理上手になってない?」
「そうかな?」
「うん、私のよりずっと美味しい!」
「嬉しいなぁ」
樹介と恋人になって早四日。木代花は未だに夢見心地でいました。あの夜のことが現実だったなんて、何度思い返しても信じることはできません。木代花の欲望が見せた都合のいい夢だったのではないか。今でもそう思います。
『木代花ちゃん、何かいいことでもあったの?』
電話の向こうで聞きなれた声がしました。
「実はね、樹介くんと付き合うことになったの!」
『え! いつの間に進展したのよ!』
「四日前」
『もっと早く言ってよ!』
「だって、みかちゃん全然電話が繋がらないんだもん」
『だってぇ。その日は彼氏と電話してたから』
高校生になってから、木代花はよく電話をするようになりました。木代花は同じ町にある公立高校へと進学しましたが、幼馴染たちはそれぞれ別の高校へと進学しました。これまでのように毎日会うことはできなくなり、携帯携帯を持っていない木代花には固定電話しか手段がありません。樹介と付き合えたことによる興奮が収まらないこともあり、ここ数日は幼馴染と数時間に渡る長電話をしていました。
「彼氏とは仲いいの?」
『もうラブラブよ』
「それはそれは。仲良しでよかったです」
みかちゃんは隣町の高校に進学後、そこで出会った人とお付き合いをしています。同じ高校に進学した幸信くんからは、毎晩二人の状況が報告されてきます。そのせいか、毎日会っているわけではないのに、同じ学校に通っていてもおかしくないほど詳しくなってしまいました。きっと今頃、木代花と樹介のことも楽々ちゃんを通して伝わっていることでしょう。
『今お父さんは?』
木代花はベッドに寝転びました。しかし電気の眩しさに目を細め、起き上がって電気の紐を引きました。
「もう寝てる。早寝早起きを徹底してるみたい」
電気を消した木代花は、ベッド脇に腰掛けました。時刻は午後十時。寝るには少しだけ早い時間です。
『調子いいんだ』
「うん。最近なんかお弁当も作ってくれるの!」
お母さんのいた頃に戻るにはまだまだ時間がかかります。けれど、一年前よりは随分良くなりました。
『木代花ちゃん嬉しそう』
「めっちゃ嬉しいよ!」
生気を失っていた時期を知っていたからこそ、症状の改善はこの上なく嬉しいものでした。また一緒に遊園地に行く未来も、そう遠くはないでしょう。
「あ、私そろそろ寝ないと」
『そうだね。木代花ちゃんおやすみ〜』
「みかちゃんもおやすみ!」
そう言って電話を切った木代花は、暗闇の中で天井を見上げました。
早朝バイトを終えた木代花が帰宅すると、家の中から「おかえり〜」という声が聞こえてきます。今ではこれが普通になりつつありました。
「お父さんただいま」
「おかえり木代花。朝ごはんもうすぐできるよ」
「分かった。ありがとう!」
木代花はお礼を言ってから二階に上がり、制服へと着替えていきます。早朝の新聞配達のバイトは、自転車で町内を回って配達しています。足はくたくたのはずなのに、お父さんの顔を見ただけで疲れがなかったかのように元気になりました。今日のように、木代花の帰宅に合わせてご飯を作ってくれる有難さを、毎日のように実感しています。何か恩返しがしたい。帰宅するたびにそう思います。
制服に着替えた木代花は、リュックを手に持ち一階に下りてきました。木代花が降りてくる間にパンが焼き上がり、パンの上に乗ったバターがじんわりと溶けています。その横には、ホットミルクとスクランブルエッグが置かれていました。木代花はいつもの如くリュックをリビングに放り投げ、出来立ての朝食を食べました。目の前の椅子に座り新聞を読むお父さん。この日常を、木代花は長い間渇望していたのです。
「ごちそうさまでした!」
木代花は朝食を素早く済ませると、食器をさっと洗って乾燥機にかけました。そして、リビングのドア付近に設置された子機を手にしました。子機内の電話帳から樹介の名前を探し出し、躊躇うことなく通話ボタンを押しました。呼び出し音が耳元で鳴り、コールが重なっていくたびに数秒後が待ち遠しくなっていきます。五回目の呼び出し音が鳴り始めたとき、突然その音が途切れました。
『もしもし』
「もしもし。今大丈夫だった?」
『大丈夫だよ。少し前に教室に着いたところ』
「よかった」
時刻は午前七時十五分。木代花が家を出るのは四十五分なので、三十分だけ話すことができます。
「今日も朝練?」
『ううん、今日はお休み。放課後はあるけどね』
「そっか。毎日お疲れさま」
『ありがとう』
遠距離の二人は、その距離を埋めるように会話を続けました。樹介は中学卒業後、野球に全力で取り組むために、大阪の高校に進学しました。親元を離れるのには少しだけ抵抗がありました。齢十六歳足らずで、一人暮らしをする必要があったからです。一人暮らしと言っても学校が管理する寮です。独りぼっちというわけではありません。朝夕はご飯も出ます。餓死してしまう心配はありません。それでも、掃除に洗濯、休日はご飯が出ないので料理だってしなければなりません。今までお母さんに頼っていた樹介にとって、それは大きな壁として立ちはだかりました。
しかしそれ以上に、野球にかける思いが強かったのです。試合に勝利して必ず全国に行ってやる。何度も夢見た全国の舞台を今度こそ踏むんだと、木代花に何度も誓っていました。木代花も高校生になったので、樹介が全国に行った際には観に行くつもりでいます。二人の気持ちは、離れていても一つでした。
『涼野おはよー』
『おはよう』
『また彼女〜? 朝から見せつけてくれるねぇ』
『や、お前、返せ!』
ガザガサ音が電話口から聞こえてきます。木代花は静かにその様子を聞いていました。
『もしもーし』
知らない声が聞こえてきました。おそらく樹介に挨拶をした人でしょう。
「もしもし」
『涼野の彼女さんですか?』
「はい」
木代花は答えながら顔を真っ赤に染めました。改めて彼女かと聞かれると照れてしまいます。
『いつも涼野に話聞いてるよ! 「本当に可愛い可愛い」って言うもんだから、どんな人なのかなぁって思ってさぁ』
『佐藤、ちょっと、返せ!』
木代花の脳内では、樹介の攻撃を華麗にかわす佐藤の姿が浮かび上がりました。
『声聞いただけだけど、なんかいい人そうだし、安心して涼野を任せられるわ! 木代花ちゃん、涼野のことお願いね!!』
「はい、任されました!」
木代花は佐藤のお願いを快く引き受けました。大好きな人を守れるのは、きっと同じく大好きな人だけなのです。そう、これは木代花にしかできません。
『よし!』
その声に、樹介が携帯を取り返したことが分かりました。
『木代花ちゃんごめん。携帯取られちゃって。変なこと聞かれなかった?』
『おいおい、お前は友達をなんだと思ってるんだよ』
『佐藤って友達だっけ?』
『ひっでーーー!』
木代花はそのやり取りが面白かったのか、ふふっと控えめに笑いました。笑いながら横を見ると、お父さんとバッチリ目が合いました。お父さんはこちらを凝視して、少しも逸らそうとはしません。そんな視線に気づかないフリをして、木代花は掛け時計で時間を確認しました。時計の針は七時四十五分を指そうとしています。
「私そろそろ学校行かないと」
木代花の高校は、小学校のずっと先にありました。通学路はこれまでとさほど変わってはいませんが、八時半を過ぎると遅刻になってしまいます。高校生になってからというもの、時間に余裕を持って学校に通えるようになりました。
『そっか。もう時間だね。気をつけて』
「ありがとう。また夜にね」
『うん。いってらっしゃい』
「いってきます」
名残惜しくはありましたが、このタイミングで切らなければ遅刻ギリギリまで話してしまいます。木代花は仕方なく電話を切りました。
「もう時間だね」
新聞を畳んだお父さんは、木代花のジャケットを持って言いました。木代花はお礼を言いながらジャケットに腕を通し、リュックを背負いました。
「お父さん今日病院だっけ?」
「うん。またたくさん話してくるよ!」
一時期よりも通院回数が減ったことで、着実に前進していることを肌で感じました。
「いってきます! 病院気をつけて行ってね!」
靴を履いて室内に向き直り、元気そうなお父さんに向かって言いました。
「いってらっしゃい。木代花も気をつけてね」
お父さんはいつもの調子で言いました。家を出た木代花のことは、家にいるお父さんには守れません。もしかしたら、数時間後にはお母さんと同じ目に遭っているかもしれません。そうならないように、一生懸命願う他ないのです。この言葉には、そんなお父さんの思いが込められていました。そんな思いは露知らず、木代花は自転車の鍵を持って家を後にしました。
玄関横に停まっている黒い自転車は、お母さん方の祖父母から貰ったものです。いつも頑張っているからと、クリスマスにプレゼントされました。この自転車のおかげで、通学は随分楽になりました。カゴに荷物を入れることが出来るので、帰りに買い物をしていくことだって簡単です。忌々しい自転車ですが、正しい乗り方をすれば便利なものなのです。
木代花は自転車に跨って、ペダルをグンッと踏みました。自転車のタイヤが回って、家の前の平らな道を進んでいきます。近所の家々が前から後ろへと、驚くほどのスピードで流れました。四月の風は少し肌寒く、ハンドルを握った指先の体温が僅かに下がっていくのを感じます。結っていないセミロングの髪が、風に揺らめきふわふわと宙を漂いました。




