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13『好きと愛してる』

 平坦な道が終わると、目の前には真っ直ぐな下り坂が現れます。歩きのときはここで軽く走りますが、今年は自転車です。木代花はスピードを落とすことなく坂道へと侵入し、先程とは比べ物にならないほどの風を全身で受けました。

 一直線に伸びた坂道の脇には木が生い茂り、途中で誰かと出くわすことはありません。車は別の近道ルートを行く人が殆どで、言わばここは秘密の道なのです。別ルートの方が遥かに早く学校へ行くことができますが、その道の脇は崖になっていて非常に危険です。その上車やバスの交通量が多く、自転車どころか歩くことすらままなりません。車専用道路と言っても過言ではないのです。

 坂道が終わると大通りが見えてきます。その大通りの横断歩道前には相変わらずおじいさんが立っていて、子どもたちの安全を見守っていました。


「おはようございます」


「おはよう、木代花ちゃん」


 木代花は今日も赤信号に引っかかり、すっかり習慣となったおじいさんとの会話を始めました。


「おじいさんはこれからも朝はここにいるの?」


「そうだねぇ。出来る間はこの帽子を被っていたいと思っているよ」


 小学生の頃から変わらない黄緑色の帽子。何年もの間子どもたちを見守ってきた証拠に、その帽子の色はだいぶ色褪せていました。


「そっか。じゃあ明日もお話しよ!」


「もちろんさ。明日もここで待ってるよ」


 僅かな言葉のキャッチボール。これは木代花が楽しみにしているうちのひとつです。


「いってきまーす!」


 木代花はおじいさんに手を振りながら自転車を進めました。


「いってらっしゃい」


 おじいさんは手に持っていた旗を左右にひらひらと振りました。

木代花はもう歩行者ではないので、おじいさんが旗を前に出すことはありません。少し寂しい気持ちはありますが、それだけ木代花が成長した証とも取ることができます。そう思うと、寂しさなんて吹っ飛んでしまいました。

 自転車を漕いで小学校と中学校を通り過ぎ、暫くして再び信号が姿を現します。今日は運よくそのまま道路を横断することができました。そして僅かに見える大きな建物。それが、木代花の通う高校です。ここまで時間にしておよそ三十五分。驚くほどのスピードです。木代花は自転車の速度を緩めながら校門を抜け、自分のクラスの自転車置き場に自転車を停めました。こうして、今日も変わらない一日が始まりました。


 何事もなく授業を終え、木代花は帰路についていました。同級生は部活動に勤しんでいますが、木代花は今年も入部することはありませんでした。入りたい部活が無かったわけではありません。本音を言えば、書道部に入りたくて仕方ありませんでした。けれど、木代花には夕方のバイトが待っていますし、何よりお父さんのことが心配でした。


「木代花ー」


 自転車に跨って一つ目の信号で止まっていると、背後から名前を呼ばれました。木代花はその声に聞き覚えがあり、ゆっくりと振り返ります。すると、少し遠くの方から男の人が全力疾走で迫ってきて、木代花はその必死さに少しだけぎょっとしました。


「秀一くん」


「よかった、間に合って」


 秀一は息を整えながら木代花に言いました。秀一と木代花は同じ高校に通っています。偶然そうなってしまったのか、秀一が意図的にそうしたのか、木代花には全く分かりませんでした。


「私に何か用事?」


 高校生になってから秀一と話をするのはこれが初めてでした。クラスが違うことに加え、木代花は学校が終わると一番に教室から出てしまうのです。秀一が木代花のクラスを訪れたときには、木代花は今日のように自転車で学校を後にしていました。


「用事ではないんだけど……。一緒に帰りたいなって思って」


「秀一くんの家って反対方向でしょ? こっちからじゃ遠回りだよ」


「俺と一緒に帰るの………嫌?」


「嫌ってわけじゃないけど」


「よかった!」


 木代花は秀一がそこまでして一緒に帰りたい理由が分かりませんでした。何も用事がないのなら、道草を食わずに真っすぐ家に帰ればいいのです。家に帰って、今日の授業の復習でもするべきでしょう。わざわざ逆方向に向かって行く必要は少しもありません。目の前の信号は青に変わり、横にいた秀一が歩いていきます。木代花は自転車から降り、その後に続きました。


「話すの久しぶりだよね。こうやって木代花と話せて嬉しい!」


 秀一は振り返りながら満面の笑みで言いました。


「私がお返事したのが最後だっけ?」


「うん、あれが最後。そこからなかなか話しかけられなくて」


「そうなんだ」


 木代花は秀一のことが嫌いではありませんでした。けれど、秀一と話すぐらいなら樹介と話したいと思ってしまいます。好きで好きでたまらないということは、きっとそういうことなのです。


「木代花は今日もバイト?」


「今日は定休日だからお休み」


「そうなんだ。だったらちょっとお茶していかない? 駅の方におしゃれなカフェができたんだよ」


 秀一は、一つ目の信号の右側に伸びる道を指差して言いました。その道の先には、ずっと避けてきた事件現場があります。


「…………行かない。ごめん、私帰るね」


 木代花は自転車に跨り、ペダルを勢いよく踏みこみました。


「あ、じゃあまた明日ねーー!」


 響き渡るほどの大きな声が背後から聞こえました。秀一は悪気があったわけではありません。お母さんの事件はニュースでも報じられ、地元では誰もが知っている未解決事件になりました。しかし五年が経った今、みんなの記憶の中からは確実に事件の色が薄くなっていました。

 木代花は今でも当時のことが鮮明に思い出せますが、そんなのはごく一部なのです。世間では風化しつつある事件でも、秋風家の中では未だに新しい記憶として存在しています。警察がどれだけ手を尽くしても、犯人の手がかり一つ掴めません。唯一分かっている自転車も、該当するものはどこを探してもありません。犯人が捕まらないのですから、事件はまだ終わってはいないのです。

 木代花は上り坂手前で加速して、一気に坂道を駆け上がりました。懸命にペダルを漕ぎ続けますが、次第に失速し、最後には止まってしまいました。木代花は仕方なく自転車から降り、歩きなれた上り坂をゆっくりと歩いて帰りました。そのときの木代花の脳内には、心停止を告げるモニターの音が繰り返し流れていました。


 時間は午後九時。夕食を済ませた木代花は、この時間になると子機を片手に二階へと上がっていきます。そして電気の付いていない暗い部屋で、樹介に電話をかけるのです。


『もしもーし』


「もしもし。部活終わってた?」


『終わってた。今日は七時半までだったよ』


「そっか。お疲れさま」


『木代花ちゃんもお疲れさま。あ、今日お休みだっけ』


「うん。お休みだったから、お父さんと久しぶりにご飯作った」


『へぇ、何作ったの?』


「お好み焼き」


『いいなぁ、僕も食べたい』


「今度一緒に作ろうよ!」


『いいの!? めっちゃ嬉しい!』



 翌日。学校に着いた木代花は、少しだけ異変を感じていました。本来あるはずの上履きが、下駄箱から消えていたのです。


「なんで?」


 昨日、確かに自分の下駄箱にしまったはずです。他の人の上履きを見る限り、場所を間違えていることもなさそうです。


「こんなことするのって誰だ?」


 犯人に思い当たる節はありません。そもそも、誰かの気に障るようなことをした覚えもありません。


「考えてもしょうがないか」


 木代花は靴をげた箱にしまい、靴下のまま職員室に向かいました。職員室でスリッパを借りて教室へ向かうと、木代花の机の上にはびしょ濡れになった上履きが置かれていました。クラスの誰もがそれを遠巻きに見るだけで、木代花も他人事のようにそれを眺めていました。幼稚なことをするなぁと心の中で思ってから、木代花は教室の中を見回しました。木代花と目の合った者はさっと視線を逸らし、目が合わないように予め俯いている者もいます。

 その中に一人だけ、木代花の顔をじっと見つめている人がいました。教室の一番後ろで腕を組み、目が合った途端僅かに口角を上げました。木代花は「可哀想に」とクラスメイトのことを気遣いながら、リュックを背負ったままその人の元へ一直線に向かって行きます。木代花が自分の元へ来ると察したその人の表情は、徐々に不満げな顔へと変わっていきました。


「私の上履き濡らしたのって麻里(まり)ちゃん?」


「はぁ? なんで私なの?」


「麻里ちゃんとだけ目が合ったから。私に文句があるなら今ここで言って」


「私、濡れ衣着せられてるんだけどぉ」


「口無いの? 無いから喋れないの?」


 木代花よりも身長の高い麻里ちゃんは、ほんの少しだけ威圧感がありました。けれど、ここで怯んだら麻里ちゃんの思う壺です。木代花は間髪入れずにこう続けました。


「証拠なら上履きに付いてるんじゃない? 今の警察は優秀だから、指紋なんて簡単に取れちゃうんだよ」


 木代花は決定打を打つように嘘をつきました。いくら警察が優秀でも、びしょ濡れになった上履きから指紋を取ることは難しいでしょう。しかし、その嘘を咎める人は一人もいませんでした。


「あ、あんたが悪いのよ! 私が秀一くんのこと好きだって知ってて付き合うんだから!」


 どこからそんな噂が流れたのか分かりませんが、木代花の知っている事実とは大きく異なっています。それに、木代花は麻里ちゃんの片思いには全く気づいていませんでした。


「………麻里ちゃんって秀一くんのこと好きだったの?」


「え……?」


 クラス中の視線が麻里ちゃんに向けられました。公開告白のような形になってしまった麻里ちゃんは、恥ずかしさのあまり顔を赤くしました。


「好きなら告白すればいいじゃん」


「だって! 秀一くんはあんたのことが好きだってみんな言ってるし。私があんたに敵うわけないじゃない!!」


 木代花ははぁっとため息をつきました。秀一が木代花に告白したことは、人伝いにどんどん広がっているのでしょう。噂好きな人には困ったものです。


「誰が言ってるのか知らないけど、それって本人から聞いたわけじゃないでしょ? そんな噂信じてどうすんの? それに、私に敵わないって思うんだったら、勝てるように努力すればいいだけ。どれだけ秀一くんが私のことを見ていようとも、それ以上の魅力で振り向かせなよ」


 厳しいことを言っている自覚はありました。昨日の秀一の行動は、まだ木代花のことが好きだという証です。諦めていないと言っているようなものです。そんな人の心を振り向かせろ、なんて、悪魔が言う言葉かもしれません。


「麻里ちゃんは秀一くんのことが好きなんでしょ?」


「…………好き」


「だったら今すぐ隣の教室に行こ」


 木代花はそう言って麻里ちゃんの手を掴み、教室の外に連れ出しました。


「ちょ、今からって、あんたふざけてんの?」


「真剣だよ」


 木代花は隣の教室まで行き、秀一を呼びました。友達と談笑していた秀一は、木代花の姿を見つけるや否や子犬のように駆けてきました。


「どうしたの?」


「うちの麻里ちゃんが秀一くんに話あるって」


「誰があんたのものだよ」


「なぁに?」


 秀一は麻里ちゃんの顔を真っすぐ見つめました。


「あ、いや、私」


 麻里ちゃんは緊張し、木代花と繋いだ手をぎゅっと握りしめます。


「じゃあ、私は戻るね」


 木代花はそんなのお構いなく手を放し、そそくさと教室に戻りました。これ以上木代花が関わる必要はありません。告白が成功するも失敗するも、全ては麻里ちゃんと秀一の気持ち次第です。二人を繋げるキューピッドも、こればっかりは手出しできないでしょう。木代花は机の上に置かれた上履きを手にし、新聞を敷いたロッカーの上に置きました。乾くまではここに置いておくほかありません。濡れた机は乾いたハンカチで綺麗に拭き、そのハンカチは窓の手すりに掛けました。風で飛ばないように、近くにあった洗濯ばさみでハンカチの端を留めておきます。朝から大役を務めた木代花は、机の上に伏せて寝始めました。


「こっちに帰ってくるの!?」


 習慣化した夜の電話。その電話口の人物が口にした夢のような未来に、木代花は胸を躍らせました。


『うん、お盆の時期にね。まぁ、明日からなんだけど』


 樹介の声はどこか嬉しそうで、木代花は思わずにやついてしまいました。


『ばあちゃんの調子が悪いらしいから、明日は会えるの夕方になっちゃうけど』


「会いたい! 私樹介くんに会いたい!」


『僕も木代花ちゃんに会いたい!』


 二人はそう言って、どちらからともなく笑いだしました。幸いなことに、お盆の期間はご飯屋さんは定休日です。思う存分時間をともにすることができます。


「楽しみだなぁ。楽しみ過ぎて寝れないよ」


『僕も寝れそうにないや。やっと木代花ちゃんに会えるんだもん』


「長かったね」


『そうだね。本当に長かった』




 木代花は一睡もできずに起床し、町内に新聞を配り歩きました。眠気は少しも感じず、むしろやる気に満ち溢れています。そのおかげで、今日は随分早く帰宅することができました。帰宅した木代花はまず最初に着信がないかを確認し、そのまま二階へと上がっていきます。キッチンで朝ごはんを作っていたお父さんは、木代花の様子に微笑ましい気持ちになりました。ドタドタと足音を立てながら下りてきた木代花は、どこかそわそわしています。


「樹介くんが来るのは夕方だよね?」


「うん!」


「じゃあ一旦落ち着いたら? まだ随分時間あるよ」


「そうだけど」


 樹介はもうこの町に来たのでしょうか。外で待っていたら偶然会えたりしないでしょうか。夕方まで待っていることなんて到底できません。木代花は今すぐ会いたいのです。


「木代花」


 そんな木代花を落ち着かせるように、お父さんが優しい声で言いました。


「とりあえず朝ごはん食べよっか」


「……うん!」



 朝ごはんを食べ終わった木代花は、樹介からの電話を今か今かと待っていました。けれど、そんな期待に反して一向に着信音は鳴りません。木代花からかけようかとも思いましたが、一家団欒を邪魔したくはありませんでした。そうしているうちに睡魔が襲ってきて、木代花は子機を握りしめたままソファで眠りにつきました。お父さんはいつの日かと同じようにブランケットを持ってきて、木代花にそっとかけました。

 嫌な記憶が呼び覚まされそうになり、お父さんは顔を左右に振りました。あれがお母さんと話した最後の日になるなんて、誰も思えるはずがありません。あのキスが別れのキスになるなんて、露ほども想像できませんでした。生まれてくる次女に想いを馳せながら、これからも続くであろう幸せを確信していました。それが的はずれだったことを、今日まで何度痛感したことでしょう。

 もっと抱きしめてあげたかった。

 もっと愛してると言いたかった。

 もっとありがとうと伝えたかった。

 もっと。

 もっと……。

 後悔しても遅いように、失った過去が戻ってくることは二度とありません。お母さんには、これから先も記憶の中でしか会うことはできません。それは、残された人にとって非常に辛い現実でした。お父さんは、木代花を起こさないように静かに泣きました。思い出せば思い出すほど、胸がきつく締め付けられていきます。この痛みは、きっと永遠に消えないでしょう。



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