第一話:世界のひび割れと、画面の向こうの激情
相馬蓮の日常は、液晶画面の光の中にあった。
深夜二時。自室の学習机に置かれたデスクトップPCの前で、蓮は大きく息を吐きながらキーボードから手を離した。画面に映っているのは、世界中で大ヒットしている超高精度MMORPG『アルカディア・オンライン』。彼が数年にわたり手塩にかけて育ててきた愛着のあるキャラクター――美しき女戦士「エルフレイア」が、広大な遺跡のセーブポイントで剣を鞘に収めるモーションをとっていた。
「ふぅ、今日はここまでにするか……」
蓮はゲームをログアウトし、PCの電源を落とした。ひどく目が冴えていたが、明日の予定を考えて強引にベッドに潜り込む。目を閉じると、いつもならすぐに泥のような眠りに落ちるはずだった。
――だが、その夜は違った。
微睡みの中で、蓮は奇妙な「夢」を見ていた。
視界はあまりにも鮮明だった。さっきまで画面で見ていたはずの、あの薄暗い遺跡の空気、冷たい石畳の感触、そして鼻を突く煤の匂い。まるで自分がエルフレイアそのものになって、その場に立ち尽くしているかのような錯覚。
背後から迫る不気味な気配を感じたところで、夢は唐突に暗転した。
「……ん」
アラームの音で目が覚めた。蓮は妙に身体が重いのを感じながらベッドから起き上がる。夢の余韻がどうしても拭えず、彼は普段なら触らない平日の朝に、何気なくPCの電源を入れた。
『アルカディア・オンライン』を起動し、ログインする。
だが、ロードが終わった画面を見て、蓮は息を呑んだ。
「……あれ? ここ、どこだ?」
エルフレイアが立っていたのは、昨晩ログアウトしたはずの遺跡のセーブポイントではなかった。そこから数十メートルほど奥に進んだ、夢の最後に見たはずの「崩落した礼拝堂」の真ん中だった。
「バグか? いや、でも……」
不可解な現象に首を傾げ、マウスを握り直したその時だった。
――画面の向こう、エルフレイアの身体が不自然に硬直した。
彼女は蓮のキー入力を受け付けることなく、ゆっくりと天を仰いだ。その美麗なグラフィックで描かれた瞳に、ゲームのプログラムには存在しないはずの、明確な「絶望」と「怒り」が宿る。
『……また、これか……』
スピーカーから、彼女のボイスではない、生々しい掠れた声が漏れ聞こえた。次の瞬間、画面の中の彼女は糸が切れたようにその場に崩れ落ち、意識を失った。
*
エルフレイアの意識は、深い闇の底へと落ちていた。
彼女にとって、それは「発作」のようなものだった。時折、自分の身体が自分のものでなくなる感覚。戦いたくもないのに剣を振り、行きたくもない場所へ歩かされる。神の呪いか、あるいは精神の病か。
だが、今回の「気絶」の果てに彼女が見たものは、そのどちらでもなかった。
気づけば、彼女は見たこともない奇妙な部屋に浮かんでいた。
四角い箱、奇妙な発光体、そして壁一面に並ぶ未知の道具。その部屋の中心で、一人の頼りない体つきをした男が、奇妙な板を叩き、光る箱を握っている。
光る箱が動くたび、男の目の前にある「窓」の中で、自分そっくりの人形が操り人形のように動いていた。
(――お前か)
エルフレイアの心の中で、これまで蓄積されてきたすべての不条理が、爆発的な怒りへと変わった。
我が肉体を、我が人生を、ただの娯楽として弄んでいた元凶。
「ふざけるな……っ! 私は、お前の玩具ではない!!」
彼女は叫び、全霊の魔力を拳に込めた。目の前にある「世界の壁」――透明な硝子のような境界線に向けて、渾身の一撃を叩きつける。
*
パリィィィィン!!!
蓮の部屋に、激しい硝子飛散音が響き渡った。
「うわっ!?」
PCのモニターが割れたわけではない。だが、蓮の背後の空間が、まるで鏡が割れるように砕け散ったのだ。同時に、凄まじい衝撃波と、聞いたこともない女性の怒号が鼓膜を刺す。
蓮は椅子ごとひっくり返りながら、恐怖に震えて振り返った。
そこに、彼女は立っていた。
眩いほどの白銀の髪、均整の取れたしなやかな肢体。しかし、その身体には一切の衣服がまとわれていなかった。一糸まとわぬ全裸のまま、彼女は燃えるような双眸で蓮を睨みつけている。
「お前が……お前が私を操っていたのか、この卑劣漢め!!」
掴みかからんとする彼女の圧倒的な殺気を前に、蓮の脳は恐怖を通り越して、奇妙なほど冷徹に状況を分析し始めていた。
(待て、この顔、この髪、この声……エルフレイア!? なんで画面から出てくるんだ? っていうか、全裸……!?)
「と、とりあえずっ! 落ち着いて、身体を隠してもらえると助かるんだけど……!」
蓮は真っ赤になりながら、とっさに両手で目を覆い、顔を背けた。
「……は?」
エルフレイアは虚を突かれたように動きを止めた。言われて初めて、自分の身に鎧どころか、布一枚まとっていないことに気づく。いくら戦士とはいえ、見ず知らずの異性の前でのこの姿は、さすがに羞恥が勝った。
「くっ……!」
彼女は怪訝そうに蓮を睨みつけながらも、すぐ横のベッドにあった厚手の羽毛布団をひったくり、ミノムシのようにぐるぐると身体に巻き付けた。
「……これでいい。おい、私をどうするつもりだ。殺すなら今すぐ殺せ」
「殺さないよ! というか、僕も何が起きてるのかさっぱり分からないんだ!」
布団にくるまった最強の女戦士と、床にへたり込んだオタクの青年。
二人の奇妙な対話が、そこから始まった。
蓮が「これはゲームという娯楽で、自分はただプレイヤーとして操作していただけだ」と説明すると、エルフレイアは信じられないといった表情を浮かべた。彼女の世界は確かに存在し、人々は生き、息づいている。データなどという軽いものではない。
「並行世界……? 私の世界は、お前たちの世界の『覗き窓』に過ぎないというのか?」
「わからない。でも、僕のPCを通じて、何かが二つの世界を繋いでいたのは確かだ」
二人はまだ気づいていなかった。
これが、単なるファンタジーの具現化などではないことを。彼らの世界の「運営会社」が隠している、恐るべき量子実験の真実に、足を踏み入れつつあることを。
そして。
世界の壁が破られたその瞬間を、別の「視線」が見つめていた。
光も闇もない、虚無の薄暗い空間。
男とも女とも、あるいは老人とも子供ともつかない、不確定な容姿をした「それ」は、二つの世界が交わったノイズ(バグ)を愛おしそうに眺めていた。
「あはは、ついに繋がっちゃった。いいね、観測データとしては最高だ」
それ(ラスボス)は、歪んだ、不敵な笑みを浮かべる。
「さあ、始めようか。本物の『世界の調律』を――」




