第八十一話『魔王の行方』
大陸暦一三五八年、九月十二日――
地竜が魔王を封印していたという、遺跡の地下深くの部屋にて、水の四天王イミノッキが水鏡でもってこちらの手の遅さを嘲笑した。言ってしまえばそれだけの事だったが、状況が急激に悪化している事実は、ニールの気付きによってますます重さを帯びてきていた。
「魔王はそもそも、どのような形で封印されていたのかね」
「言い伝えによると、黒い鎧の英雄がルハーラを破った際、その肉体は崩れるように弾けるように消し飛び、切り離された魂を四天王が依り代に収めたという。それが正しければ、恐らくは大きくない器のようなものと思われるが……」
語気を強めたニールに対し、竜王たるコッティスが気圧されていた。黒い鎧の名を出され、丸眼鏡のレンズが残光を帯びて向き直ったのは、サイクスに対してだった。
「私がルハーラを倒した時の事は、呪いのせいかはっきりと思い出せない。しかし、コッティス殿の言うように、相当な勢いで崩壊していたとは思う」
「崩れる肉体から魂を切り離した……か。イェリア君、イカヤザの門に行くはずの魂を現世に留めるには、何を使う?」
ニールの視線はイェリアに飛び火した。魂と聞いて、専門家というより本職に訊いた方が早いと判断されていた。突然の迫力に、冥界の使者さえもわずかにたじろぐ。
「そうね……最も多かったのは、水瓶ね。『流れる銀』……魔晶流体の入った水瓶なら、反魂の術式に近い要領で魂を縛り付ける事が出来るわ」
「それならば、この部屋の中に水瓶ないしそれに近い器があるはずだ。エリック君、探してみようじゃないか」
大仰な推理ショーの様相を垣間見た一行は、ニールに促される形で魔王の魂を納めていたとされる器を探し始めた。そしてそれは、驚くほど早くに見つかった。というより、既にネジムの手の中にあったのだ。
『すまないが、あんた方の話が分からなかったので、適当に辺りを見回していたら、不自然な器を見付けていた』
「……だ、そうよ」
通訳したイェリアに手渡された器は、長い年月を経てひどく黒ずんでいた。魔王の魂を封印していたものとは思えないほど小さく、手頃な花瓶を一回り大きくした程度でしかなかった。土器とも陶器とも金属器とも付かない硬さと重さで、刻み込まれた紋様は何らかの術式陣のように見えた。
「これは……私にもよく分からない術式陣ね」
「それなら、僕に見せて下さい」
イェリアがお手上げの様相を呈した所に、エリックが言った。魔法文明時代の生まれの冥界の使者でも分からない事が、今の者に分かるのかという疑問を抱きつつも、彼女は器を差し出した。
「サイクスの石棺があった、遺跡の隠し部屋に描かれていたものと似てる……」
「あの壁に描かれてたのは壁画だったと思うけど……」
リンダが口を挟んだ。サイクス自身は自分が眠らされていた石棺の部屋については、何も知る由がない。カーンも慌ただしさからほとんど覚えていなかった。あの遺跡の部屋について覚えているのは、この兄妹だけと言ってよかった。
「壁画に隠れて、術式陣が刻まれているらしい。僕の中にいるオリビアが知ってるようだ」
「オリビアが……私の中のミリアムも、何か知ってたりしないかな」
そんな言葉を返しながら、リンダは自分の心に問い掛けるように、ミリアムの名を呼んでみた。端から見ると、いきなり黙り込んでいるようでしかないが、彼女としては何か手応えがあるように思えた。目を開いたリンダに、ティットルが心配そうな顔で声を掛けた。
「リンダ、どう?」
「……うん、ミリアムもオリビアから聞かされていたみたい。あの石棺の部屋には、冥界に送られる魂を留めておく術式陣が刻まれてるって」
リンダの言葉に、最も驚いたのはイェリアだった。長く冥界の使者として仕えて来た身ではあるが、自分が生きていたのと同じ時代に、そのような術式陣
が存在するなど、聞いた事がなかったからだ。
「反魂に近いんだけど、媒体を用いて実体化させず、時が来るまで眠らせておく……そういう術式陣みたい」
「僕の中のオリビアが言っている。サイクス……いや、ニックが魔王ルハーラの呪いを受け、ほとんどの記憶と記録から忘れられてゆく中、行き場を失う魂がいつか安息の地へと向かえるよう、あの石棺に鎧ごと留めておいたのだと」
「……ルハーラの掛けた忘却の呪いは、私達だけでなく、冥界神イカヤザ様も影響を受けていた……留めておかなければ、行き場を失った魂は濁り、腐り果ててしまう……そうなってしまえば、取り返しのつかない事態になってしまうわ。オリビアはそれを防ぐため、ニックの魂を現世に留めたのね。いつか、呪いが解けるか効果が弱まるかして、冥界の者が迎えに来られるように」
イェリアの語る口調は、穏やかというよりも悔恨に沈んだものだった。それだけ、魔王の呪いが強い事を意味していたが、それによって息子の魂を七百年以上も封印されていた事へのショックが大きかったのだ。
「ふむ、ちょっと気になる事はあるが、エリックの持ってる器が、魔王を封印していたもので間違いないんだな?」
「恐らくは。強い魔力の残滓を感じる……と言うか、この器に一杯の魔晶流体なんて注いだら、どれほどの魔力になるのやら」
カーンに訊かれたエリックは、器を軽く掲げるようにして答えた。重さを感じないというほどではないが、材質が分からない以上、不気味な物である事に変わりはなかった。
「この器一杯ならば、魂を長く留めておくには充分過ぎるだろう。そして、これが仮にルハーラの魂を留めていたと言うなら、奴の封印は既に解けている」
「だろうね。この器と魔晶流体、それと魂の留保にどのような繋がりがあるのかは分からないが、今はそれどころではない事は分かった」
器を眺めながら言ったサイクスに、ニールが相槌を打つ。イミノッキの言っていた事と、水通信の術式からすると、既にこの場を離れた後だと推測された。全てが一手遅く、それが最悪の事態を招こうとしている。
「コッティス様、私達は一刻も早く、魔王を倒さなくてはなりません。すぐに出ましょう」
「そうだな、急いで戻るとしよう」
「残念だが、そうはいかぬ」
リンダとコッティスの間に割って入ったのは、その場にいないはずの者の声だった。闇の底から響き渡り、臓腑を押し込むような不快な声色には、聞き覚えがあった。ティットルの顔色がたちまちに険しいものになる。
「ワイヨール……!」
「愚かなるは水竜も地竜も同じであったか。揃いも揃って、我が主に楯突くとはな」
即座に六振りの妖精剣を浮かべたティットルが、その妖精光の輝きで忌まわしき四天王の姿を照らし出す。黒耀石を思わせる煌めく鱗が、紫紺の雷光によって浮かび上がっている。
「ワイヨールと言えば……風の竜王ミュルコ・モースの兄だったか。父から聞いていたが、竜の王ではなく魔王の眷属に甘んじて七百……いや、八百年か」
コッティスがずいと前に出た。ワイヨールと比べると、一世代ほど離れた地の竜王だが、全く気圧されない芯の強さのようなものがあった。風竜の翼が、紫紺の稲光によってそのシルエットを広げている。憤怒にも似た電光が爆ぜる度に、辺りの暗闇を昼間のごとく照らしていた。
「図星のようだな。せめて歴代ソキュラのように、己の信念に殉ずるほどの甲斐性でもあればよいものを」
コッティスがソキュラの名を出す事には意味があった。かつて魔王ルハーラを討った戦いにて、水の竜王ソキュラは最後まで魔王の側に付いていた。そのソキュラと刺し違えたのが地の竜王コッティスであり、それから今日まで、両者は長く因縁の関係にあったのだ。その関係が終わり、すべては歴史の一幕となった。彼女の言葉にはそういった思惑がある。
「貴様、このわしを愚弄するか」
「事実を言ったまでだ。時を重ね、水竜は変わった。我々も変わろうとしている。だが、いつまでも魔王の存在にすがるお前は何なのだ」
言葉にならない裂孔の叫びが一つ。
ワイヨールの放つ稲光が、一層その輝きを増した。もはや、この黒竜を中心に空間全体が照らされていると言ってよかった。かつてないほどの怒りが、電光に焼かれて砕ける遺跡の石材からも見て取れる。角や翼の爪が一際強い光を放ち、空間をも切り裂く轟音が響いた。縦横に放たれた紫紺の稲妻が封印の間を染める。雷鳴が止み、巻き上がった土煙が晴れる頃には、敵対する者達の黒焦げた姿があるはずだった。
「やれやれ、この部屋全体を雷で埋め尽くすというのは良い手かもしれないが、光と土煙で自分の目も眩ませていたのは余計だったな」
コッティスの声に、ワイヨールはますます表情を曇らせた。彼女の周囲には、幾つもの石の柱が屹立している。黒焦げた石柱は手を触れるまでもなく倒れ、崩れるようにして地面に溶けた。
「石陣の術式も破れぬ程か。聞いていたよりも衰えたのだな」
崩れた石柱は幾何学模様を描くように、規則的に置かれていた。術式陣に似た効果を瞬時に出現させる、地の竜王に伝わる変幻自在の術式である。
「ふん、ここは地竜の……ミミズのように地下に潜っていた貴様達の領域だ」
「挑発のつもりなら、的を射ていないな。ミミズは遠くメーシア大陸カッサーナ皇国では、土の竜とも書くそうだ。小さきものながら、地を耕す存在だ。言ってしまえば、私もお前も、そういう意味ではミミズに劣る」
「貴様……!」
挑発を切り返され、激昂したのはワイヨールだった。
「ミミズを土の竜と書くカッサーナ方式は、カレド帝国に端を発するのだがね」
その光景を前に立ち尽くすしかなかったリンダに、ニールがこっそりと伝えた。レンストラ大陸に対して肯定的な言葉は伏せたという事だ。
「……ニール先生、なんか……揺れてない?」
「ふむ、確かに。リンダ君、君は脱出などの術式は使えるかね」
「私は写し身をしないと術式使えないよ。魔晶石の起動も出来ないし。誰かが使えるならいいんだけど」
先程まで舞い上がっていた砂埃が、何故か上から落ちてきている。部屋全体が崩れ始めているのだ。竜王とそれに類する者達がぶつかり合ったのだから、並大抵の建造物では耐えられるはずもなく、古い時代の遺跡ならわけない事だった。
「参ったね、エリック君も転移系は不得手だ。以前……」
「先生、今はそれどころじゃありません」
またもやニールの長話となりそうなところで、エリックからの制止が入った。転移系の魔術は難易度が高く、ティットルもヴァイスも、ロゼさえも使った事はないという。仮に水竜の一族が使えていたら、もっと早くに首飾りを奪還されていただろう。
「母上ならば使う事は出来ますが、今の状態では……」
シルドーが言うように、コッティスはワイヨールと対峙している。到底、脱出のための術式行使など出来る余裕は無かった。かと言って、憤怒に燃える黒竜を引き受けられるかも厳しかった。
「コッティス様なら使えるのね。だったら……」
「待て、リンダ。転移系の魔術はそんな簡単なものじゃ……」
エリックの制止も聞かず、リンダはリボンに触れた。銀色の短剣が鈍く輝く。彼女の頭に流れ込んでくるような感覚は、以前にルミチャス、今のソキュラを写し身した時とよく似ていた。竜の魔力が流れ込む感覚なのだろう。
「よ、よせ。お前にそれは危険過ぎる」
「腹くくれエリック。他に手はない」
狼狽するエリックの肩を、カーンが叩く。脳内を電流が走る感覚に襲われながらも、リンダは精神を集中させた。しかし、術式が成立する直前、彼女の耳朶を打ったのは、遥か足下の地下水脈を流れる水だった。




