第七十二話『老竜の戦場』
大陸暦一三五八年、九月十日――
ワーグリン海軍空母『リギニオ』が軍艦としての機能を喪失したのは、それから間もなくだった。風の竜王ミュルコ・モースの引き起こした稲妻の嵐により、艦内の至る所で乗組員による暴動じみた騒ぎが頻発し、軍の根幹たる部分が致命的な損害を被っていたのだ。
「やれやれ、レンストラ大陸の軍は下の兵ほど不満を溜め込んでいるというのは本当だったか」
竜王は艦内から響く怒号や罵声といった暴動の音を、妖精伝いに聞いていた。中々に気持ちのいいものではないとして、早々に妖精達を撤収させたが、最後に聞こえたのは艦橋にて引き抜かれた軍刀の奏でる音だった。
「呆気ないものよ。サイクス……いや、ニックの奴ならもっと上手くやっていたものだ」
不和の煽動による組織の崩壊は、過去にも図った事がある。しかし、相手によっては効き目が弱く、むしろ結束を高める危険性さえあった。ミュルコ・モースは遠い昔の記憶を思い返しつつも、幾千の人間の憎悪が渦巻く暴力の坩堝と化した空母を後にした。
「そっちも上手くやったか」
「おう、これで奴らの船はしばらく動けんだろう」
沈黙の孤城と化した駆逐艦と、炎上し傾く巡洋艦を背に近付いてきたのは、火の竜王ツアンカだった。自らの名を冠する火山都市に陣取る北部方面隊と連携し、ワーグリン艦隊の対処を買って出たのだ。竜王自ら駆逐艦を丸ごと心の火で無力化させ、一族の腕利きを繰り出して巡洋艦一隻を撃破した。二頭一組で投下爆弾をぶつける作戦は、被害こそ出たものの確実な戦果を上げていた。
「お前さんだけで空母一隻を使えなくするとは、やはり若さかの」
「何言ってんだ。俺様とお前は五十と違わないだろ」
「そうだったな。お前さんも、千年竜が近いという事だな」
「まぁな。しかし、昔ならもう一くらいは何とか出来たかもしれないが、トシかな。それとも、人の力が強くなっているか」
ミュルコ・モースのぼやきに、ツアンカは答えなかった。恐らく、両方であるからだ。常に世界は次の世代のためにある、互いにそれは分かっていたため、それ以上は何も言わなかった。
「さて、後は人間の仕事だ。老いぼれの竜は相応の奴に向かうとしよう」
風と火の竜王は、北東の水平線に小さな艦影を認めると、速やかにその場を去った。
巨岩の籠手を振りかざすヨイカフツを前に、カーンとイェリアは互角と言ってよかった。打ち寄せる波のような二振りの刃も、短剣と拳銃による連係攻撃も、見た目以上に巧みに動く石の連なりに弾かれていた。
「強いわね……刃を差し込む隙間もない」
「分かってはいたが、やっぱり危ないな」
同時に後ろ跳びで距離を取ったカーンとイェリアは、自分達の攻めの一切を通さない、岩壁と化した四天王の強さに溜息を吐いた。ヨイカフツの両腕は一塊の岩のように見えるが、それは人の拳から頭ほどのサイズの石が幾つも組み合わさっていた。
「どうした、もう疲れたのかい?」
「お前は、まだまだって所だな」
「当たり前だよ。やっと体が温まったくらいさ」
弾むような息を吐き出したヨイカフツの顔は、程よく赤みを帯びていた。薄緑色の硬質なオルウークの肌を、滾る血の色が塗り替えている。それは彼女の快感、恍惚を示していた。
「そっちの方が性に合っている、って所だな」
「分かってるなら、口より手を動かしな!」
一対の巨岩と化したヨイカフツの両腕が、重さを感じさせないほどの速さで振り上げられる。突き出した拳の勢いのままに、巨岩の籠手を形作る石が立て続けに射出された。剣でも銃弾でも対処不可能で、避ける他ない。
「前に見た時よりも、随分と遅いな……?」
撃ち出された石は、妖精の郷で見た宝石の刃、ヌンカル火山で見た火山岩と比べると、ひどく遅く見えた。カーンもイェリアも難なくそれらを躱したが、ヨイカフツの狙いは二人ではなかった。
「しまった、狙いはリンダか!」
妙に遅いと感じたカーンが横目で弾道を追うと、その先にはリンダ達の姿があった。ダジラもサイクスも回避は容易だろうが、コピーが出来なかった事で、精神的な揺らぎのあるリンダはその限りではない。
「カーン、前!」
イェリアに言われて振り向くと、目の前にヨイカフツが迫っていた。カーンの視界が彼女の顔で埋まるほどの距離は、紅潮した肌と息づかいさえ感じるほど近く、そして危険極まりなかった。巨岩の左手が掴み掛かる。首から下の自由を失いながらも、カーンは可能な限りの視線をリンダに向けていた。一拍(一秒)にも満たない時が、不気味なくらいに引き延ばされるのを感じた。リンダの目が石礫の連なりを捉える。回避は間に合わない、すべての音が消えたような錯覚に襲われた。
「リンダ!」
カーンは叫んでいた。巨岩の籠手を成していた石は、リンダの身体を打ち砕く事はなかった。一振りの妖精剣と、金色の茨が飛来する石を切り落とし、また掴んでは砕いていた。
「リンダ、大丈夫?」
「ありがとう、ティットル。でも……」
低空で機動戦をしていたらしいティットルは、両の腰に一振りずつの妖精剣を保持していた。助かった安堵感と、自分に降り掛かった予想外の出来事に対する戸惑いが混ざり合ったリンダの表情から、何かを察したようだった。
「だいたいは見ていたから分かるわ。大丈夫、すぐ元に戻る。オリビア、金の茨で守って」
「……!」
ティットルの呼び掛けに目を丸くしたのは、リンダよりもエリックだった。今この瞬間、どちらの魂が表立っているのかが見えているようだった。エリック本来の瞳の青に、赤みを帯びた輝きを宿すと、彼の中のオリビアは静かに頷いた。
「カーン、貴方は自分で何とかしろ」
「分かってる、リンダを頼むぞ」
一振りの妖精剣は、カーンを拘束する巨岩の籠手に突き刺さると、その指を開かせた。痺れるような痛みが籠手を通じてヨイカフツを怯ませた。
「ちっ、風の妖精剣とは相性が悪いね」
この四天王は両手の籠手を失いながらも、素早く後ろ跳びに転じる事で、カーンとイェリアの追撃を躱していた。それでも、付近の瓦礫や石材の破片を浮石の術式で攻防一体の武器に変える事はわけなかった。
「イェリアさん、あんたの剣はあと何本だ?」
「妖精剣は既に消えたわ。後は私の剣だけ。あなたはその妖精剣で大丈夫?」
「問題ない」
イェリアの二振りとカーンが持つ妖精剣、合わせて三振りの刃が、土の四天王の対峙していた。その隙に、ティットルはリンダの異変に対処しようとした、その時だった。
「な、なんだ!?」
頭上、空から振り降りた閃光が空気を断ち、地を割っては人体を呆気なく打ち砕いた。傭兵の複数名が瞬時にして黒焦げた塊となり、倒れては文字通りに崩れ落ちた。巻き添えを喰ったオルウーク兵も少なくなかったが、動揺はそこまで広がっていなかった。自分達の損害さえ、容認され得るものとして捉えている節さえある。
「わぁっ!」
「痛ってて……ヴァイス、大丈夫か?」
「僕は大丈夫です、ダジラさんこそ」
リンダ達にも爆ぜる稲妻が放つ衝撃波が襲い掛かり、ダジラとヴァイスが突き飛ばされていた。
「風の四天王……!」
祖父とよく似た、しかし決して相容れる事のない、黒耀石の輝きを放つ鱗の風竜が、紫紺の稲光を伴って降りて来た――ティットルは思わず、リンダの事も忘れそうになった。
「随分な物言いだな、ティットル……弟の孫娘よ」
口から出る言葉の一つ一つが、撫でるような不快感を醸し出す。聞いているだけで、腹の底から沸き立つような声だった。恐らく、竜の魔力による精神干渉が加わっている、ティットルの頭がそれを理解出来ないはずはなかったが、ざわつく心が冷静さを奪っていた。
「気安く呼ぶな、風竜の裏切り者が……!」
「ふん、ツアンカ辺りにでも吹き込まれたか。もう八百余年も前になるが、未だにそう考えているとはな」
ワイヨールは彼女の後ろに居並ぶ人間を一瞥すると、改めて鼻を鳴らした。澱んだ眼光には、侮蔑や嘲笑が見て取れる。
「ふん、人間こどきと馴れ合って、竜としてあるべき道を外れたか。どけ、お前に竜の何たるかを思い出させてやる」
老いてなお鋭い眼光から奔る稲妻が、左右で不均一に弾けた。ただそれだけで、ティットルは凄まじい威圧感に気圧された。足は震え、視界はチラつき、口の奥から渇く感覚がある。それでも、自分がここで踏み止まらねば、竜の魔力を食い止める術はない。
「私は……私は、風の竜王ミュルコ・モースの孫、ティットル・ソグ……! 竜王の系譜に連なる者として、一族の裏切り者を許すわけにはいかない!」
震えてはいたが、よく通る声だった。ワイヨールが放つ不安の煽動に、ティットルが高揚で立ち向かっている。エリック、サイクス、ダジラ、ヴァイス、そしてリンダが、彼女の背を見守っている。自分も立ち上がらなければならない事は分かっていたが、事あるごとに奔る稲光が空気そのものを爆弾に変える様は、竜王に近い存在の本気を見せつけられる。
「ならば、諸共に死ねい!」
広げられた翼の両端から放たれた稲妻が、一行を囲う輪のように繋がると、紫紺の影を落とす白い電光を縦横無尽に走らせた。突き刺すような痛みと、他の感覚を失わせるほどの光と音と衝撃に、辺りは悲鳴だけが響き渡った。残ったオルウーク兵も流石に手が出せず、ほとんど処刑に近い光景を見ているしか無かった。
「……やはり、まだ残っているか」
ワイヨールは自身の放つ稲妻が不完全である事に、薄々ながら勘付いていた。ティットルを睨んだ時の稲光が左右で不均一に弾けたのは、魔封じの術式の効果がまだら状に残っているためだった。相変わらず悲鳴が聞こえてくるが、それがあまりにも長い。悲鳴が上がるという事は、まだ生きている事を証明している。そして、その時間が長引くほど、この老いた竜の意識は目の前にばかり集中する事となった。
「何だ!?」
出し抜けに、稲妻の輪が途切れた。直後、右の翼から鋭い痛みが走る。翼端を銃弾が擦過していた。
「これは……狙撃か!」
ネジムの放った銃弾がワイヨールの右翼端を捉え、稲妻の発生を阻害したのだ。三〇ルマーチョ(約二〇〇メートル)は離れた場所からの一撃は、恐らく頭を狙っていた。翼端を掠めた銃弾は、右の角先に突き刺さって砕いていた。
「なるほど、確かにあの距離なら精神干渉も届かぬか。だが、ここまでだな」
老竜の手がネジムに向けられる。開かれた指先の間を稲光が走り、掌には握り拳大の光球が形成されていた。爆ぜる火花は、その一撃がまさしく命を刈り取る力の迸りである事を示していた。二度目の銃声と共に、小銃弾がワイヨールを捉える。しかし、既に種も仕掛けも見破られた狙撃は、この四天王の眉間を割る事はなかった。見えない壁にめり込むように、銃弾は勢いを失って地面に転がった。
「無駄だ……死ねい!」
「させるか!」
声を張り上げ、ワイヨールの注意を引いたのはダジラだった。小銃が火を噴くも、同様に銃弾が見えない壁に阻まれる。ティットルの妖精剣、エリックの炸裂火、ニールとヴァイスの銃撃が続くも、それらは全て見えなかった壁、紫紺の稲光の壁によって阻まれていた。
「その程度では、わしには届かんよ」
嘲るような、耳にする者の心の底から嫌悪感を沸き立たせるような声で言い放つと、ワイヨールの右手に湛えた光球はネジムに向かって放たれた。仮に今の一瞬で逃げていたとしても、爆ぜれば建物どころか付近をまとめて吹き飛ばせるほどの威力がある。しかし、光球がネジムを砕く事は無かった。両者の間に割って入った者がまとう雷の魔力によって弾き飛ばされたからだった。
「……来たか、愚弟」
「てめぇを兄とは思っちゃいねぇよ」
憤怒の気を稲光に変えて放つ風の竜王ミュルコ・モースが、魔王ルハーラ配下の風の四天王にして実兄ワイヨールと対峙していた。




