第六十六話『魂の残滓』
大陸暦一三五八月、九月四日――
港湾都市ニプモスは、予期せぬ小雨に濡れていた。昼過ぎまで続いた会談が終わり、詰所にも戻らずに食堂に足を運んだ二つの影は、人間のものではなかった。
「すまねぇ、遅くなった」
「そのようだな。我々も少し遅らせて貰ったよ」
昼食のトレイを手にテーブルにやって来たのはリカルドだった。半歩後ろにソキュラがいる。あの襲撃の夜以来の再会となっていた。先に待っていたのはゲルハルトとゴードンだった。義勇兵の訓練の都合上、マリーはタイミングをずらしていた。
「思った以上に、簡単にお偉いさんが動いてくれるみたいだ」
「王家直轄の特別顧問が寄越した書状に竜王二頭を前にして、首を縦に振れないなんて事はないだろう」
「まぁ、それもそうか」
リカルドの正体がミュルコ・モースである事が判明した今、彼は恭しくも胡散臭い、老いた鳥亜人の態度を取らなくなった。齢九〇〇を数えながらも若々しく振る舞う姿は、竜王となって日が浅いソキュラからすれば、ある種の畏敬の念さえあった。
「……して、我々の動きも変わるのか?」
「あぁ、海軍の駆逐艦とフリゲート艦が出る事になって、陸の奴らも五〇〇〇ほどアーカル奪還作戦に投入するんだと。明日から軍や警察の輸送車、民間のバスやトラックで運ぶって話だ。で、恐らくだがキヤスキー傭兵隊も前線行きだろう。ニプモスの守りは残りの奴らと水竜で担当するそうだ」
ゴードンの問いに、リカルドは揚げ鶏を頬張りながら答えた。くすんだメモ用紙に、大まかな流れを鉛筆で書き込んでゆく。
「しかし、分からない事もあるもんでな」
「何かあったのか?」
粗方を書き終えた所で手を止め、リカルドは茶で口の中を流し込んだ。老獪な竜王の神妙な顔付きに、ゲルハルトは思わず身構える。
「これはこっちの話なんだが、ゴードン達の知り合いに、リンダって娘っ子がいる話は以前にしたな」
「あぁ、確か相手の挙動を物真似というにはおかしいレベルで写す事が出来ると」
「そうそう。それで魔王軍の四天王を一人倒してる」
「その娘がどうかしたのか?」
「いや……ソキュラと話してて気になったのは、兄貴の方なんだ」
リカルドの視線に不気味な輝きが宿り、老いた鳥亜人の中に秘めた竜王の気配が滲み出る。その内心に思い出していたのは、妖精の郷での一件だった。
「リンダ、どういう事だ……?」
プッカ司令部の会議室、王立魔法団の重役を前に、エリックは困惑するばかりだった。自分の中に何かがいる、それを妹の口から告げられた事によるものだった。
「さっき、お兄ちゃんをコピーした時に、何かザラついたような気がしたの。サイクスの時は、たぶん昔の記憶。どこかのお屋敷から飛び降りたような感じ」
リンダの言葉に、サイクスは一寸の間を置いて、あっ、と言うような仕草を見せた。心当たりがあるらしい。
「でも、お兄ちゃんのは……明らかに別の誰か」
エリックは面食らいながらも、打ちのめされるという程ではなかった。自分の中にある違和感には、以前から気が付いていた。相変わらずルコアールは厳かな視線をこちらに向けている。カリエもどことなく倣っているように見えた。
「妹が言った事ですが、心当たりがあります。以前に我々は妖精の郷にて、風の竜王ミュルコ・モースがサイクスの記憶を呼び戻すため、稲妻を呼び寄せた所に居合わせました。その時でした。存在しない記憶と言いますか……初めて見た光景のはずなのに、見覚えがありました」
「あぁ、たまにあるアレか。初めてなのに既視感があるというやつ」
カリエの横のボーヴァンが口を挟んだ。エリックは黙って頷く。
「アレは……本当は過去に見たけど忘れていたという説があったが、竜王を見た記憶なんか忘れようにも忘れられない。となると、もう一つの説である、前世の記憶が関係している可能性かもな……」
そう言って、視線をイェリアに向けた。こういった事は、本場の者に訊けば良いといった風情だった。彼女は若干の困惑を見せ、深呼吸ひとつの間を置いた。
「これから私がお話しする事は、冥界の法にまつわるものです。現世の生者たるあなた方は、本来ならば知り得ない情報となります。一切の口外をしないとお誓い下さい。約束を違えれば、即座に罪人としてお迎えに上がります」
イェリアの言葉は厳かな空気をさらに張り詰めさせる魔力を有していた。言い切ったところで、会議室全体が結界に閉ざされたような感覚に襲われた。
「これで、声も気配も魔力も洩れません。お話しします」
有無を言わさぬ口調だった。ネジムがダジラに大丈夫か、と声を掛ける。彼女の言っている事が分かっていたかのようだった。今のイェリアの言葉は、聞く者の話す言語に合わせて訳される性質を持つらしい。
「エリックの中にいる者は、魂の残滓と呼ばれる存在です。先程ボーヴァン少佐が言った、前世の記憶の正体ですね。人をはじめ、知性ある生き物は死語の魂が冥界にて浄化された後、新たな存在に転生する際、記憶は失われます。しかし、浄化の際にわずかな記憶が残る者がいて、それが魂の残滓として次の生命の存在しない記憶として呼び覚まされるのです」
「それで、イェリアさん。僕の魂の残滓とは一体……」
「……生前の罪ゆえに七百年も冥界に繋がれ、浄化の渦に呑まれながら、障壁の術式で魂の残滓を色濃く残した者」
障壁の術式、イェリアのその言葉でサイクスは何かを察したように反応した。
「メーシア大陸東部、ハーム王国を大きく揺るがしたべクォンの乱で、一度は死罪を受けながら、サイクス……いえ、ニック・ミアの計らいにより、共々にこの島に流された娘、オリビア・べクォン。彼女の魂の残滓が、あなたの中にいる何かよ」
そう告げたイェリアの口調は、どこか苦々しげだった。あたかも、サイクスと深い繋がりがある人物であり、彼の『計らい』が流刑を決定付け、同時にこの国の礎となった事情の複雑さの板挟みになっているように感じられた。
「……と、取り込み中に申し訳ないのだが、この場は会議と聞いていた。今はどういう話し合いなんだ?」
沈痛な空気に一石を投じたのはダジラだった。
「いや、作戦会議というか、お偉いさんの顔合わせのようなものとは聞いていたが、実際にはルビィ兄妹への審問みたいになってる。こちらとしては、話を先に進めて貰いたいんだがな」
ダジラの物言いに、ルコアールの厳かさに苛立ちのようなものが混ざる。自分のペースを崩される事を嫌う性分らしい。ボーヴァンの目からも、軽さが消えていた。
「落ち着いてくれ。あんた達の大元である、キーケトッホ島の元老が欲しがる情報も大事だが、魔王軍の中核に斬り込むだけの力量があるか判断するのも大事なんだ」
ボーヴァンの言葉に、ダジラは納得したように頷いた。同時に、今度はリンダ達の間に小さなどよめきが走る。
「ゴーザロッソ家とオーヴァン家はキーケトッホ島の四大元老の家系でな。親父が今の元老で、ギムココ諸島から緊急で派遣されてきた。俺達は親父の指示で、戦ってる相手を見極めてくるように言われて来た」
単なる海の荒くれ者ではない、それは一行にとってちょっとした衝撃だった。
「見極める……か。なるほどね、では元老の一族の者よ、あんた達は誰が相手なら、キュリール王国を救う為に戦ってくれるんだい?」
カリエの言葉には、ダジラ達の派遣に政治的な駆け引きが含まれている事を意味していた。ギムココ諸島はメーシア大陸域にあり、同大陸の大国がキュリール王国への侵攻に関与しているのであれば、どうしても手が出せなくなってしまう。
「ソキュラから聞いたが、ハーム王国東部に本拠地を置く傭兵団のモノゲア共和国支部が、少数を先行して派遣している。この二国が何かしらの関与をしていれば、この動きも封殺されるだろう。現状、不透明なのはカッサーナ皇国だ。あの国は北洋迂回ルートでカレド帝国やワーグリン王国と繋がりがある。レンストラ大陸連合軍と事を構えて、カッサーナを敵に回すのは、ギムココとしても望むものではない……というのが、こちら側のお偉いさんの考えだ」
ダジラの説明に、リンダはまた頭から煙を噴きそうになったが、すんでの所で抑えてみせた。しかし、今度はティットルが要領を得ないという顔をしている。彼女もキュリール島、もしくは妖精の森の外には詳しくないと見えた。
「北洋迂回ルートに関しては、後で俺が説明する。今は頑張って立ってろ」
カーンが小声で言うと、ティットルの背中を軽く叩いた。
「では、単刀直入に答えよう。敵は魔王軍、並びにレンストラ大陸連合軍だ。主力はワーグリン王国とカレド帝国、ヨーブル共和国はあまり兵を出してないと見える」
ルコアールの返答に、ダジラはやっぱりか、と言った反応を見せた。その仕草を見て、ネジムも穏やかでない顔付きになる。思った以上に後顧の憂いは大きかった。
「……しかし、だ。ウチのお偉いさんがこのまま黙ってキュリール島が陥ちるのを見ているとは思えない。それに、仮にギムココ諸島の正規軍が動けなかったとしても、俺達は義勇兵として、あんた達の為に戦う気でいる」
「良いのか? それはそちらの政治的な立場の問題になり兼ねんが……」
「主の手を離れた戦士はただ一人でも軍となる、キーケトッホ島の海の戦士の流儀だ。それに、地酒と女をちょいとつまんだからな。それには報いねばならんよ」
ダジラとルコアールのやり取りに、周囲の反応は様々だった。リンダは慣れたとばかりの表情で、エリックとティットルはどこか恥ずかしげ、カーンはふとヴァイスに目をやった。幼い水竜はニールと大差ない顔で、サイクスの顔色は窺い知れない。イェリアは苦笑いを浮かべ、視線を飛ばされたカリエは呆れ顔だった。努めて厳かさを維持するルコアールとは対照的に、ボーヴァンはその意気を笑い飛ばして見せたのだ。
「いいね、こちらからも、ギムココ諸島の関係者としてでなく、いち義勇兵として扱える。何より、一人の男としてな」
ボーヴァンの表情は満足げであった。この作戦に命を預けるに相応しいだけの仲間と判断したのだ。その陽気さが厳かな空気を溶かしてゆく。ルコアールが慌てたような仕草を見せる。居並ぶ魔法団員も嫌な予感を察したような顔になった。
「こら、ボーヴァン、まだこの空気を維持しろ……あっ」
喉をついて出たような情けない声と共に、厳かな空気がたちまちに変容していくのが分かった。
「……まったく、どうしてチミはワチの作った空気感を壊すのかね」
リンダ達は目を白黒させた。先程から変わらずそこにいるはずのルコアールが、まるで別人になってしまったかのように感じられたからだ。声色も口調も厳かさはなく、どことなく情けないという印象である。
「恥ずかしいところを見せたね。時間も時間だし、四半刻ほど小休止としようか。便所と煙草は済ませておきな」
対峙するボーヴァンとルコアールを尻目に、カリエが取り仕切った。やれやれと言った口調を三々五々に並べながら、魔法団員達が会議室を後にする。ルビィ隊もクニット隊も張り詰めていた気を緩め、外の空気を吸いに出て行った。そんな中、エリックはただ一人、その場に佇んでいた。自分の中にいる見知らぬ誰かの存在に、ある種の畏怖を覚えながら。
北洋
極北海洋の略で、世界の北の果ての海域を指す。
大陸暦一三五八年の時点では極北地への到達は成し遂げられておらず、極寒の海の向こうにあるものは、そのほとんど全てが荒唐無稽な想像に過ぎない。
カッサーナ皇国が貿易等に用いる北洋迂回ルートとは、ギムココ諸島方面海域のシーレーンが弱い同国が北洋方面の公海に出る事で、隣国モノゲア共和国の領海を迂回してレンストラ大陸に向かうルートの事。




