第五十四話『水竜の見廻り』
大陸暦一三五八年、八月二十九日――
晩夏の夕暮れ時、季節外れのにわか雨が王都ジョーギンを叩き、道から屋根から跳ね返っては辺りを白く濁らせる。島西部から押し寄せた避難民の多くは大公園にテントを張った避難所や、ヤノミ信仰の寺院に身を寄せていた。
「こんな時に雨とは珍しいな」
「朝にはこんな雨雲無かったんですけどね」
大通りから少し分け入った路地裏の片隅、かろうじて車が入れるほどの幅の道に面したバーにて、二人の刑事が窓を濡らす雨に歪んだ外の景色を眺めていた。
見慣れていたはずのジョーギンの街並みからは活気が失せ、浮浪者の数は段違いに増えている。元からいた者が集まってきたのか、他所から来た者が加わったのか、その違いを見極める事は困難だった。
「しかし、すまんね。店を占拠しちまって」
「いえ、刑事さん達がいてくれるので、面倒がなくて済みます」
気持ち申し訳なさそうな視線を寄越したキスウィーに対し、リュークスは疲れた声で返した。
店内は警官や兵士、傭兵に義勇兵とごった返しており、異様な空気に包まれている。ニプモスから派遣されて来た増援を待機させておく為の宿舎が足りなくなったため、上の階のホテルが貸し切られているためだ。
バーではあるものの、酒が出せなくなった今、この店の機能は一般的な飯屋とほとんど変わらない。違う事といえば、ジョーギン中心街と東側エリアの境目にある為、中間拠点として用いられている事だった。
「他の店では、浮浪者とも避難民ともつかない奴らが居座り、時には暴れているとも聞きます。警察の方がいるだけでも、だいぶ違います」
「そうか、そう言って貰えると、こちらとしても助かるよ」
リュークスは心付けにと、キスウィーとロックのテーブルにチーズの小鉢をサービスした。こちらも、少しずつではあるが高価になっている。戦時さながらの物不足が、現時点では後方にあたるこの王都でも、明らかに影を落としつつあった。
「兄ちゃん、酒はないのかね」
腹の出た中年が声を掛けてくる。身なりからして傭兵、微妙な訛りからメーシア大陸からの出稼ぎと思われた。
「すいません、前線に回されてしまって、ウチのような小さな店にはとても……」
「仕方ねぇな」
何度目か数える事さえやめたやり取りを済ませると、リュークスはカウンターの奥へと引っ込んでいった。幸いにも食材は融通して貰えるため、料理を出す分には不足はない。その上、彼は母ウィノアから手ほどきを受けているため、その腕もまた一人前であった。
「おぅ、そこの姉ちゃん、いいケツしてんなぁ」
先程の傭兵の仲間と思わしき犬亜人の男が、下卑た口調でターナに声を掛けた。彼女とは対称的に低い鼻と垂れた腹が、声色と相まってゴブリンやオルウークの類を連想させる。ロックが目許を鋭くしたが、ターナは慣れたものとばかりに軽くあしらった。
「そんなに目くじら立てないで、兄さん」
「すまない、しかしどうしてもだな……」
両親の離婚により生き別れ、再会してから日が浅く、ロックにとってターナは未だ、幼い日の面影を重ねられていた。
「しかし、こうも騒がしいと調べ物の一つも出来ないね」
「先生は何故、こちらに?」
「単純に、形式ばった研究室に篭るのが好きじゃないのさ」
片隅のテーブルにて資料を広げていたのはニールだった。ニプモスの自宅兼作業場が半壊し、無事だった資料をジョーギンの国立歴史研究所に収めてからというもの、とにかく彼はキュリール王国の興りについての研究に没頭していた。
「しかし、改めて調べてみると、魔王ルハーラの配下はかなりの戦力を有していた事が分かるね」
「火、水、風、地の四天王と竜王を従えて、島を支配していたとも聞きます」
「そうそう、働かせるための奴隷は付近の国や地域から流されてくる罪人を捕まえればよく、まぁある意味では栄えていたようだね」
ロックが仕事もそこそこに話に顔を突っ込む。リュークスがテーブルにサラダの小鉢を置くと、ニールの持つ大判の本を覗き込んだ。彼も妹シルビアが考古学を専攻しているため、歴史の資料に興味がないわけではない。
「しかし、大陸暦六一六年の秋頃、島の東……今のニプモス辺りに、黒い鎧の戦士が降り立ったとされているね」
「それが後の建国の英雄、サイクス・キュリールというのは、小学生でも習う事です」
「では、彼らはどこから来たかご存知かね」
「メーシア大陸ですね。サイクスの鎧は同年期のモノゲア様式ですし」
「そう、初代国王サイクス・キュリールの鎧はモノゲア様式だ。では、我々が見たサイクスを名乗る、黒い鎧の様式は……?」
ニールとロックの問答が止まった。同じメーシア大陸でも、北西部のモノゲア帝国以外にも二つの大国が存在した。
「ハーム様式だよ。北隣のカッサーナ皇国の影響が強く、騎兵による機動戦闘が主力だったので、全体的に軽めの造りになっている」
「何故、そのような事が……それと、同じような鎧が二領あるのは……」
ニールが広げた資料に目を通しながら、ロックは沸々とした疑問を抑える事が出来ないでいた。二人が醸し出す独特の気配に、キスウィーもリュークスも近付き難いものを感じている。
「そこで、こちらだよ」
ニールはキュリール王国史の分厚い本を閉じてテーブルから下げると、今度は鞄の中から同じほどのサイズの封筒を取り出した。その中から出てきたのは、数十枚に渡る資料の写しだった。
「知り合いに複製を頂いてね。ハーム王国史の抜粋だ」
「大陸暦六一五年から六一六年……もしかして、ベクォンの乱ですか?」
ロックの眼差しに、ニールは頷いて答えた。ベクォンの乱とは、大陸暦六一五年秋から翌年春までの半年間、ハーム王国を二分したという大規模な反乱である。
「業王ハロルド三世の、人間に過ぎたる望みが幾つもの悲劇を重ね、玉突き事故のようにして起きた事件だね。国王は渦中で倒れ、その後を継いだのが賢王グレン一世だ」
ニールが指で追う文章に、古い時代の出来事が刻み込まれている。二人の間には、他者からは見る事の出来ない、激動する歴史のビジョンが浮かんでいた。キスウィーとリュークスは完全に蚊帳の外となったため、普段の仕事に戻っている。
「これを読んでいて分かったのだがね、グレン一世が即位した時、まだ十歳そこらの子供だったそうだ」
「王政の国で幼君が立てられるのはままある話ですね」
「ところがだ、グレンには腹違いの兄がいたという。名はニック、ベクォンの乱の渦中に生死不明となったそうだ」
「病死や戦死ではなく、不明……」
「そして、そのニックと同じ名前の男が、反逆罪で流刑に処されたという」
「当時のメーシア大陸諸国で流刑地といえば、今のキュリール島ですね」
そこまで話を進めたところで、はたと会話が止んだ。
テーブルの上の資料から目を離し、ニールとロックが互いの顔を見合わせる。店内の喧騒も、閃きに辿り着いた二人の沈黙を打破するだけの力は無かった。
「流刑に処された男の名は、ニック・ミア。ハーム王国でも指折りの貴族、ミア家の筋の者よ」
そんな二人に割って入ったのは、女の声だった。決して明るくない酒場にいながら、飾り銀縁の施された濃紺色のマントを羽織り、フードで顔を隠している。正規兵では決してなく、傭兵としても異質な見た目だった。
「ふむ、確かにそう記されているね。君も私達と同類かい?」
明らかに違和感を形にしたような女に、ニールは意に介さず尋ねた。
「……えぇ、魔法文明時代の歴史に興味があってね。その乱で魔法使いの名門だったベクォン家が断絶したのは有名な話よ」
「そうだね、これによると、乱の首謀者ルイスは死罪、その妻ヒルダは自害、息子のハンスは戦死、娘のオリビアは流罪となっている」
「話を整理すると、ベクォンの乱で王子ニックが失踪し、同じ名前のミア家の男とベクォン家の娘がこの島に流された……それが、大陸暦六一六年の秋で、サイクス・キュリールが来た時と一致する、という事ですね?」
ロックが話をまとめると、ニールと女は静かに首を縦に振った。周囲の喧騒など、三人の意識の外にあった。だが、その結界のような空気は、勢いよく開けられた入口のドアによって破られた。
「ひでぇ雨になりやがった」
頭のてっぺんから足の先まで濡れに濡れた、柄の悪い男が顔を拭いながら入ってくる。少し遅れて、田舎臭さの抜けない若い男がついて来た。浅黒い肌は焼けたものではない、それだけで、この二人が島外からの出稼ぎ傭兵だという事は分かった。
「雨季も過ぎたというのに、困った雨に降られましたね」
「あぁ、こりゃあ水竜の見廻りだな。カッサーナでは狐の嫁入りって言うんだっけか」
「お客さん、ギムココ諸島からですか?」
「おう、いつもはキーケトッホ島の近海で大海蛇を狩ってるんだ」
リュークスの問い掛けに、男は独特の訛りを効かせながら応じた。白い歯を見せて笑うように喋ると、柄の悪さは幾分か気にならなくなる。後ろの男は黙って会釈するだけだった。
「こいつは言葉が分からないんでな。何かあったら俺に言ってくれ」
男はそう言うと、カウンター席に腰を下ろした。肩口まで捲くり上げた袖から覗く二の腕は太く、肘まで彫り込まれた入れ墨は鮫の歯の連なりを思わせる。
「先程言っていた、水竜の見廻りとは?」
「おぅ、ギムココ諸島では季節外れや雲のない雨をそう言うんだ。水竜が出張って魔力を垂れ流してるから、それで雨が降るんだと」
「確かに、かつて水竜ソキュラを王国海軍の討伐隊が制した時も、その海域は季節外れの大時化だったそうだね」
割って入ったニールに男は目を丸くしながらも、一寸の間を置いて「あぁ」と返した。
「島の伝承にあったな、水竜退治の話。人死にが出るくらいの嵐が何年も連続で発生した事があって、そいつが北西の海の水竜だって事で、俺達のご先祖様達が手を取り合って挑んだって話さ」
「キュリール王国海軍とギムココ諸島連合軍の軍船は大小百余隻、その半数が乗員もろとも喪われたとされる。先々代の竜王ソキュラはそれで討ち取られたのだな」
「先々代……? 先代じゃないのか」
「いや、君達にとっての当代は先日死んだよ。黒い鎧の戦士、サイクス・キュリールと戦ってね」
ニールの言葉に、男は再び目を丸くした。すると、横から先の女が割り込んできた。その視線には幾らかの鋭さが垣間見える。
「お詳しいのね」
「まぁ、その場に居合わせたからね」
「どんな手を使ったのか気になるな。長話になるならアレがいる……マスター、酒はないのかい?」
男の問い掛けに、リュークスはまたか、という表情を浮かべた。この日だけでも五回は同じ言葉を返している。
「すみません、前線に回されてて、こちらにはないんです」
「そうかい、すまねぇな」
申し訳なさに疲れが滲んだ顔を見て、男もこれ以上の追及は無意味だと悟った。その旨を、カウンター席に座る連れの男に告げる。言葉の通じない男も、仕方ないといった手振りで応じた。
それから少し考え込んで、男は顔を上げた。
「それなら……行くか、最前線」
「ははは、酒の為に行くか。面白いね、僕も久しぶりに出歩こうか」
「決まりだな、俺はダジラ・ゴーザロッソ、連れはネジム・オーヴァン。あんたは?」
「ニール・クニット、考古学者さ」
ニールとダジラが握手を交わすと、ネジムも空気を察したのか、申し訳程度に会釈した。ロックも同行したかったが、流石に持ち場を離れるわけにはいかなかった。
「私も便乗させて貰っていいかしら。名前は……イェリア・ソミス」
少し遅れて同行を申し出た女に、ニールとダジラはいささかの胡散臭さを覚えつつも、断る理由もないので了承した。
外は既に夜の闇に沈み、雨が止んだ空には星が力なく瞬いている。朔望に近い、か細い月明かりは、人の世に出来た奇妙な縁に微笑み掛けているようにも見えた。
水竜の見廻り
予期せぬ天気雨のこと。主にギムココ諸島で使われる表現。
水竜は海中を速く移動する際、魔力を用いで水の流れを捻じ曲げる性質があり、その余波で巻き上げられた海水が地上にまで降り掛かった事と、一度それが発生すると、一定範囲を帯状に雨を降らせる事からそう呼ばれる。
水竜の見廻りで降るのはほとんどが単純な天気雨のため淡水だが、まれに本当に水竜が巻き上げた海水が降る事がある。また、この現象を起こすためには複数頭の水竜が移動するほどの魔力が必要なため、不吉の前触れともされてきた。




