第6話 夜はまだ、神のものじゃない
夜半の王都は、昼とは別の街だった。
昼間は商人の声と馬車の音で満ちる石畳も、夜には風の音のほうがよく通る。表通りの店々は扉を閉ざし、灯りは窓の奥に引っ込んで、残るのは巡回兵の足音と、遅くまで働く職人の小さな明かりくらいだ。
だが、静かなのは表だけだった。
西の荷車置き場へ近づくにつれて、空気の質が変わる。
乾いた木材の匂い、馬の汗、油の臭い、積み上げた荷箱の隙間に溜まる埃。人目を避けて動く者たちの気配が、暗闇の下で薄く重なっていた。
レインは指定された裏手の石壁に背を預け、周囲を見渡す。
月は雲に半分隠れている。悪くない夜だ。 明るすぎず、暗すぎない。
見張る者にとっても、忍び込む者にとっても。
「ちゃんと来たんだ。」
頭上から囁くような声がした。
次の瞬間、屋根の縁からミレイアが滑り降りてくる。
相変わらず音が軽い。着地のときに石を鳴らさないあたり、慣れている。
「来ないと思ったか」
「半々。真面目そうだから来るかなって思ったけど、真面目そうだからこそ“危険すぎる”ってやめる可能性もあるかなって」
「それで、どっちだと嬉しかった」
「来るほう」
ミレイアはあっさり言って、すぐに目を逸らした。
軽く言っているようで、その実、昨日より少しだけ警戒を解いた声音だった。
レインはそれを指摘しない。
「状況は」
短く問うと、ミレイアの顔つきが変わる。
ふざけた色が引き、仕事の目になる。
「見張りは表に三人、裏に二人。荷運びの連中があと四人。交代はまだ。教会の紋章付き箱は奥の倉庫に運ばれてる。問題は、その倉庫に普通の鍵だけじゃなくて封印が一つついてること」
「封印?」
「扉の下に細い銀線が張ってある。踏んだらたぶん鳴るか、光るか、そのへん。あたしはあれ嫌い。音より厄介だから」
レインは小さく頷いた。
教会は、表では古代召喚術を危険視し、価値のない外れ系統として扱っている。 そのくせ、裏では封印まで使って回収品を管理している。
やはり隠しているものは一つではない。
「中の箱の数は」
「少なくとも三つ。昨日あたしが見たのもそのうちの一つだと思う。たぶん、まだ何かある」
「護衛の質は」
「そこそこ。正規兵じゃない。けど裏仕事には慣れてる感じ」
「教会付きの私兵か」
「そうかも。あんた、こういうの詳しいね」
「詳しくなっただけだ」
何度も見て、何度も失ってきた結果として。
そう続ける代わりに、レインは荷車置き場の奥を見た。
木箱が積まれ、幌付きの荷車が何台か並んでいる。遠くの詰所にだけ灯りがあり、そこから時折、男たちの低い話し声が聞こえた。
目立つ見張りは少ないが、それは油断ではなく配置だ。見えやすい場所より、侵入者が隠れそうな陰に意識を置いている。
「正面はだめだね」
ミレイアが言う。
「だろうな」
「じゃあ、屋根から行く?」
「見張りの死角が残るなら」
「あるよ。二十歩ぶんくらい」
「十分だ」
ミレイアはレインの反応を見て、少しだけ感心したように眉を上げた。
「迷わないんだ」
「迷う時間があるなら、先に見ろ」
「そういうとこ、ちょっと怖い」
「褒め言葉か」
「さあね」
ミレイアは笑ってから、荷車の陰へ身を滑らせる。
レインも続く。
足音を消しながら進むと、自然と呼吸まで浅くなる。
こういう夜の侵入は珍しくない。過去の世界でも何度もやった。敵地への潜入、逃走路の確保、監視塔の間を抜ける移動。覚えているというより、身体に染みついている。
だが今夜は少し違った。
隣にいるのが、かつての仲間ではない。
まだ信用していない少女だ。
それなのに、ミレイアの足運びは思った以上に安定していて、無駄に足を引っ張られる気配がない。物音を立てるタイミングも、身を屈める位置も悪くない。雑に見えるわりに、危険の感覚が研ぎ澄まされている。
ひとつ目の荷車を越え、木箱の山の陰へ入る。
そのまま梯子代わりに積まれた樽へ足をかけ、低い屋根へ上がった。
板張りの屋根は古いが、体重のかけ方さえ間違えなければ軋みは最小限で済む。ミレイアが先に進み、屋根の端で指を二本立てた。
見張り二人。次いで手のひらを伏せて振る。
しゃがめ、の合図。
レインはそれに従い、視線だけを前へ送る。
見えた。
倉庫の裏口。
木扉の下に、確かに細い銀線が走っている。月明かりでは見落としそうなほど薄いが、そこだけ空気が少しだけ硬い。踏めばただの紐では済まない類の封印だ。
「どう?」
ミレイアが唇だけで訊く。
レインは首を傾け、目を細めた。
銀線の両端に刻まれた小さな印。
教会式の封印だが、純粋な聖術だけではない。古代文字の崩しが混じっている。つまり、教会は古代術を否定しながら、その一部を自分たちの術式に取り込んでいる。
「切るな」
囁くと、ミレイアが怪訝そうに眉を寄せた。
「切る気だったんだけど」
「たぶん二重になってる。線を切ると、印の方が起きる」
「うわ、嫌なやつ」
「迂回する」
「できるの?」
「やるしかない」
レインは屋根の上で一度目を閉じた。
こういうとき、自分の中の“ずれ”を探る。
現在の視界に、過去の欠片が混じる瞬間がある。嫌な感覚だが、使えないこともない。
暗闇の向こうに、別の夜が重なる。
四度目の世界。雪の城壁。見張り台の影。
五度目の世界。崩れた修道院の地下。
六度目の世界。焼けた神殿の封印陣。
断片的だ。 誰の記憶なのか、自分のものなのか、もう曖昧なこともある。
けれど、封印を無力化する前に“眠らせる角度”だけは、指先が覚えている。
レインはゆっくり右手を開いた。
亀裂紋が、微かに熱を帯びる。
すると視界の端に、一瞬だけ別の手が重なった。
焦げた皮手袋をはめた、節くれ立った手。
どこかの敗北世界で、神殿の封印を解除しきれずに死んだ誰かのもの。
その指先の動きを、レインは薄くなぞった。
屋根の端から身を乗り出し、石壁に刻まれた印へ向けて、空中でゆっくりと線を描く。
触れていない。
だが、印の上を通る空気だけが僅かに歪む。
銀線の輝きが、ふっと鈍った。
「……は?」
ミレイアが声を飲み込む。
「今、何したの」
「起こす前に、眠らせた」
「意味わかんない」
「俺も全部はわかってない」
正確には、理屈ではなく感覚のほうが先に動く。
過去の敗北の中に、そうするしかなかった誰かがいた。その“選び方”を借りたにすぎない。
銀線の光が完全に沈む。
ミレイアは数秒だけレインを見つめ、それから首を振った。
「ほんとに気味悪いね、あんた」
「褒め言葉か」
「今日は褒めてる」
そう言いながら、彼女は屋根からするりと降りる。
着地、歩幅、重心移動。やはりうまい。
レインも続き、倉庫の裏口まで近づいた。
扉自体の鍵は単純だった。
ミレイアが針金道具を二本差し込み、耳を寄せる。カチ、と小さな音。わずか数秒で錠が外れた。
「見てた?」
「早いな」
「そっけな。もうちょっと褒めてもよくない?」
「十分だ」
「そういう中途半端な褒め方が一番むず痒いんだけど」
小声でそんなやり取りをしながら、二人は倉庫の中へ滑り込む。
内部は暗かった。
だが外よりはましだ。月明かりが高窓から差し込み、床と荷の輪郭だけはぼんやり見える。積まれた木箱、縄、布、古い木棚。その奥に、他より新しい木箱が三つ並んでいた。
箱の側面には、確かに聖教会の紋章が押されている。
ミレイアが顎で示す。
「あれ」
レインは頷き、最も近い箱へ寄った。
蓋には封蝋がされている。 ただの回収品なら、ここまで厳重にしない。
教会はやはり、これが何かを知っている。
「開けるよ」
ミレイアが囁く。
「待て」
レインは箱の木目に指を当てた。
嫌な感触がある。
封蝋だけではない。箱の中身そのものが、微かに反応している。まるで蓋を開ける人間を待っているような、湿った気配。
《終焉契約》が、はっきりと熱を持つ。
右手の亀裂紋がじわりと疼き、視界の奥が暗く染まる。
また別の終わりが混線する。
崩れた祭壇。 黒い獣の瞳。
誰かの「遅い」という声。
レインは一瞬だけ息を止め、低く言った。
「……中身は一つじゃない」
「どういう意味?」
「箱は三つだが、起点は奥にある」
目を上げる。
確かに視えるのだ。
木箱三つの先、倉庫の最奥。古い木棚の陰。そこだけ暗闇の質が違う。何も置かれていないように見えて、何かが“ある”と空気が告げている。
ミレイアもそちらを見る。
「隠し部屋とか?」
「いや……たぶん、もっと雑だ」
教会は丁寧に隠しているのではなく、
“見えないと思っている場所”に押し込んでいる。
レインは箱から手を離し、棚の奥へ歩いた。
木箱の陰を回り込み、棚板の下へ屈む。
そこに、石床の継ぎ目があった。
不自然に新しい漆喰で埋められている。小さな窪み。人の拳ひとつぶんほどの穴に、黒い金属の欠片が差し込まれていた。
「こっちだ」
ミレイアがしゃがみこむ。
「……これ、昨日の欠片と似てる」
「同系統だ」
差し込まれているのは、環状の器具の別の断片。
そしてその先、床下に何かがある。
レインの指先がわずかに震える。
近い。
思い出せない。
なのに、近いとだけわかる。
「抜く?」
ミレイアの声が少しだけ硬い。
「慎重に」
「それ、雑に抜いたらまずいって意味?」
「かなり」
「先に言ってよ……」
ミレイアは息を整え、そっと金属片へ手を伸ばした。
その瞬間、倉庫の外で声がした。
「おい、裏口の封印が変だぞ」
ふたりの動きが止まる。
続けて、別の男の足音。
複数。近い。
「誰か触ったのか?」
「中を見ろ!」
まずい、とミレイアが口の形だけで言う。
レインは一瞬で距離と時間を測る。
裏口から入ってくるまで数秒。隠れてやり過ごすには倉庫が狭い。箱の陰では足りない。逃げ道は高窓か、今いる床下。
だが床下は中身がわからない。
それでも――選ぶしかない。
「抜け」
短く言う。
「は!?」
「今しかない」
ミレイアは舌打ちしそうな顔をしたが、躊躇は一瞬だった。
金属片を掴み、力を込める。
ごり、と嫌な音がした。
次の瞬間、石床の継ぎ目の奥から、低く長い唸りのようなものが響いた。
空気が変わる。
冷気ではない。
もっと古くて、湿った、地下深くから這い上がってくるような気配だ。
男たちの足音が、扉の直前まで迫る。
「開けるぞ!」
そして石床が、内側からひび割れた。
漆喰が砕け、暗い穴が口を開く。
そこから吹き上がったのは風ではなく、重く淀んだ“影”だった。
ミレイアが息を呑む。
「なに、これ……」
レインの右手の亀裂紋が、焼けるように熱を持つ。
その熱の中で、彼は確かに聞いた。
暗闇の底、まだ姿も見えない場所から。
懐かしく、ぞっとするほど近い声を。
……遅い。
扉が蹴り開けられる音と、床下から這い上がる影の唸りが、同時に倉庫へ満ちた。




