第85話 反逆の狼煙
フェニックス。
その名は、オオトリ派の幹部たちですら、その存在を噂でしか聞いたことのない、神話級の禁忌だった。
この千年後の人類が生み出した、科学という名の悪魔の落とし子。最悪の大量破壊兵器だ。その一撃は、都市を丸ごと消滅させ、その後百年間は草木も生えない死の大地へと変えるという。
あまりの非人道性と破壊力から、その開発と使用は国際条約で固く禁じられ、設計図ごと封印されているはずだった。
「……将軍! お待ちください! フェニックスの使用は国際条約で固く禁じられています! もしそれが露見すれば、我々は戦争犯罪人として国際司法裁判所に……!」
別の幹部が慌てて立ち上がるが、オオトリの耳には届いていなかった。
「……条約など、勝利者の手でいくらでも書き換えられるわ! そもそも、あれは『対異星文明用』の最終防衛兵器として建造されたものだ。あの竜は、この星の生物ではない、いわば異星からの侵略者。条約の適用外だと主張すればいい!」
彼の野心は、もはや誰にも止められなかった。法も倫理も、自らの欲望の前では些細な障害でしかなかった。
「……計画はこうだ。まず、あの怪物を、我々の手で狩る。……そして、その圧倒的な力を世界に示し、『竜すら殺した英雄』としてタカギを失脚させる。タカギは必ず反対するだろうが、それが奴の弱さの証明になる。……そうすれば、この軍も、この世界も、我らのものだ!」
彼の目には、もはや理性的な軍人の光はなく、ただ権力欲に憑かれた亡者の狂気が宿っていた。
「……幸い、奴はまだ我らの手の内、人工島の格納庫で惰眠を貪っている。……今なら、奴は袋のネズミだ。タカギが正式な保護条約を結ぶ前に、事を起こす。……計画を進めるぞ」
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そんな邪悪な陰謀が水面下で進行していることなど露知らず、俺はのんびりと格納庫で昼寝を貪っていた。
「いやー、今日のマグロは脂が乗ってて最高でしたね、ヴァイスさん!」
俺の巨大な鼻先に寄りかかり、アキラが満足げに腹をさすっている。彼が俺のために裏ルートで手に入れてくれた、極上の天然マグロを骨ごと一匹丸ごと平らげた後で、俺も腹も心も満たされていた。
『……うむ。あのゼリーよりは百倍マシだったな。褒めてつかわす』
「へへっ、でしょ? 給料、前払いで全部使っちゃいましたけどね!」
俺の周りでは、いつも通り白衣を着た科学者たちが、俺の吐息の成分分析やら、鱗の表面温度の測定やらを行っている。平和な、退屈で穏やかな日常だった。
異変に最初に気づいたのは、アキラだった。
彼はタブレットで古代史の文献を読んでいたが、ふと顔を上げ、格納庫の入り口に続く通路の方へと視線を向けた。
「……ん? なんだか、外が騒がしいな……」
普段は、作業員の往来と、穏やかな海風の音しか聞こえないはずの時間帯。だが、今は微かに、しかし確実に、複数の重機が動くような地響きと、大勢の兵士たちのブーツの音が聞こえてくる。
「……あれ? ヴァイスさん。……なんだか、今日の基地の警備、厳重すぎないか?」
彼は立ち上がり、格納庫の巨大なシャッターの隙間から、外の様子を窺うように首を傾げた。
普段なら、警備の兵士は数名が立っているだけで、彼らも俺に慣れて、すれ違いざまに手を振ってくるくらいだ。だが、今日は様子が違う。いつもは見かけない、全身を黒い特殊装甲に身を包んだ、物々しい装備の兵士たちが、格納庫の周囲を何重にも取り囲むように展開している。
さらに、遠くの埠頭には装甲車や戦車までが砲口をこちらに向けて並んでいるのが見えた。
「……な、なんだありゃ? 大規模な演習か? タカギ司令からは何も聞いてないけど……」
アキラが怪訝な顔をしたその時。
ドカドカドカッ!
と、複数の重い軍靴の音が背後から響き、黒い装甲服の兵士たちが格納庫の中になだれ込んできた。
「作業中止! 全員その場を動くな! 即刻退去しろ!」
「な、なんだ君たちは! 我々はタカギ司令の許可を得て調査を……!」
俺の調査を担当していた白衣の科学者たちが、銃口を突きつけられ、有無を言わさず腕を捻り上げられて拘束され、次々と連行されていく。
「問答無用だ! 連れて行け!」
「……おい! 何が起こってるんだ! 説明しろ!」
アキラが兵士の一人に詰め寄ろうとするが、アサルトライフルの銃床で無慈悲に胸を突き飛ばされ、コンクリートの床に強く尻餅をついた。
「民間人は下がってろ!」
その時、格納庫の天井に設置された巨大なスピーカーから、キーンという不快なハウリング音と共に、聞き慣れない男の声が響き渡った。
『―――聞こえるか、古代の遺物よ』
その声は、タカギのような理知的な響きではなく、聞く者の神経を逆撫でするような、傲慢さと粘つくような悪意に満ちていた。オオトリ将軍だ。
『我が名はオオトリ。統合平和維持軍を、真に導く者だ。……貴様を『ヴァイス殿』などと呼び、へりくだっていた愚かなタカギは、すでに失脚した。今この基地の全権は、我が掌握した』
「なっ……タカギ司令が失脚……!? 嘘だ!」
アキラが叫ぶが、オオトリは構わず言葉を続ける。その声は、歪んだ正義感と自己陶酔に満ちていた。
『貴様のような、制御不能な怪物を野放しにすることこそ、人類への最大の裏切り行為だ。タカギは平和ボケのあまり、その単純な真理すら見失っていた。……故に、我々が鉄槌を下す』
『―――聞け、怪物ヴァイスよ。そして、その尻尾にまとわりつくハエ、アキラよ』
『貴様たちの自由時間は終わりだ。タカギの愚かな平和ごっこには付き合っていられん。……今この時をもって、貴様を『人類の敵』と再定義し、排除する! これが、この星の新たな秩序だ!』
「……はあ!?」
アキラが、床に座り込んだまま呆然と叫ぶ。
『だが、慈悲はくれてやる。……大人しく、我々の実験体となれば、苦しまずに死なせてやってもいい。貴様のその規格外の死体は、我が軍の新たな戦力として、未来永劫有効活用してやろう。……光栄に思うがいい!』
『……実験体、だと?』
俺は、呆れて大きなため息をついた。
『もうすでに、散々血液だの鱗だの取られて、実験動物みたいな扱いを受けてるんだがな。今更何を言っているんだ、この男は』
俺のテレパシーに、アキラが「確かに!」と同意しかけて、すぐにハッとして青ざめた。
「いやいや、そんなこと言ってる場合じゃないですよヴァイスさん! こいつら、本気で攻撃してくる気だ!」
アキラがそう叫んだ、まさにその時だった。
ゴゴゴゴゴ……と、地鳴りのような重低音が響き、格納庫の巨大な防爆シャッターがゆっくりと下降を始めたのだ。
唯一の出口が、塞がれていく。
「……まずい! 閉じ込められる!」
アキラは瞬時に状況を理解し、出口へ向かうのではなく、すぐさま踵を返して俺の元へと全力で駆け出した。
コンクリートの床を蹴り、俺の巨大な前足の影へと滑り込むように身を隠す。
ズズズズズ……ンッ!!
彼がたどり着いた直後、シャッターは完全に閉鎖され、分厚い装甲板が外界からの光を完全に遮断した。俺たちは、完全に鉄の檻の中に閉じ込められたのだ。
「……くそっ、ロックされてる!」
アキラが閉ざされた扉に駆け寄り、拳で力任せに叩くが、びくともしない。彼はすぐさま腕の端末を操作するが、画面には「NO SIGNAL」という無慈悲な文字が表示されるだけだった。
「通信も遮断されてるぞ!」
そして、天井の無数のパネルがスライドして開き、そこから巨大な砲門がいくつも姿を現した。ウィーン……という無機質な駆動音を立てて、赤い照準レーザーが俺の眉間に集まる。
それは、この基地の対侵入者用自動防衛システムそのものだった。オオトリは、基地のシステムを掌握し、俺をこの格納庫ごと葬り去るつもりなのだ。袋のネズミにして、一方的に攻撃する。卑劣だが、確実な手だ。
「……おいおいマジかよ……。あれ、対艦用の大型レーザー砲だぞ……」
アキラは顔を引きつらせ、再び俺の元へと駆け戻ってきた。
「ヴァイスさん!」
俺の巨大な前足の影へと滑り込むように身を隠す。
「……どうするんだ!? ここで焼き殺されるのを待つのか!?」
『……どうすると言われてもな』
俺は、大きなあくびを一つした。
千年経っても、人間のやることは変わらないらしい。力を持てば、それを使いたくなる。自分よりも強大な存在がいれば、それを恐れ、排除しようとする。いつの時代にも、自分のちっぽけな力を過信し、身の程を知らない愚か者はいるものだ。
「……少し、運動が必要かもな」
俺はゆっくりと、巨体を起こした。
全身の筋肉が唸りを上げ、鱗と鱗が重なり合う重厚な音が響く。
俺の黄金の瞳が、天井に並ぶ無機質な砲門を、冷ややかに見据えた。
どうやら俺は、この千年後の人類にも、もう一度、教育的指導をしてやる必要があるらしい。
本当の「力」とは何か。
そして、眠れる竜の逆鱗に、軽々しく触れることがどういうことなのかを。
『アキラ、耳を塞いで伏せてろ。……少し、騒がしくなるぞ』
俺は、静かに、しかし絶対的な自信を持って告げた。




