第68話 落日の翼
破壊の跡地に希望の種を蒔いた『竜涙の庭園』が完成し、大陸に真の平和の礎が築かれた後も、俺はしばらくの間、平和協定機構の象徴的な守護者として、リンドブルム近郊のあの静かな渓谷に留まり続けていた。
当初の予定では、公園の完成と機構の枠組みが整うのを見届けた後、すぐにでも故郷であるエルロード山脈の奥深くへ帰り、誰にも邪魔されないあの静かな地下神殿で、再び長い眠りにつくつもりだったのだ。
俺の本来の目的は、歪められた歴史を正し、かつての友の遺志をこの世界に繋ぎ直すこと。それが達成された以上、これ以上俺のような規格外の存在が人間の社会に干渉し続けるのは、彼らの自立を妨げ、新たな依存や権威を生み出すだけで、決して彼らのためにならないと考えていたからだ。
だが、俺のその帰還計画は、大幅に延期されることになった。
生まれたばかりの新しい時代の安定には、まだどうしても俺の存在が必要だと、リンドブルム国王アルフレッドや、亜人連合の議長代行となったルシルに、半ば泣きつかれるようにして強く引き留められたのだ。
「ヴァイス様がこの国の空から我々を見守ってくださっているという事実だけで、教国の残党による過激派の暴動がどれほど未然に防げているか計り知れません。どうか、新しい機構の基盤が完全に固まり、人々がこの平和に慣れるまで……もう少しだけ我々にお力をお貸しください」
アルフレッド王にそこまで深く頭を下げられ、ルシルからも懇願されてしまえば、無下に断ってさっさと飛び去ることもできない。
それに、正直に白状すれば、俺自身も、カイルやルナミリアたちが命懸けで守り抜いたこの世界が、これからどのような道を歩んでいくのか、もう少しだけ近くで見届けていたいという未練があったのは事実だった。
結果として、俺がその渓谷で過ごした穏やかな数十年間は、永遠にも似た長い竜生を送る俺にとっても、宝石のようにかけがえのない、温かく宝物のような時間となった。
俺はもはや、人々に恐怖を与えるだけの「伝説の怪物」や、教国が政治利用した「人間の兵器」ではなかった。
俺という存在は、名実ともに、この世界を生きる全ての者たちにとっての「優しい隣人」であり、真の「守護竜」として受け入れられていた。
天気の良い昼下がりには、近隣の村や街から、人間の子供たちと亜人の子供たちが連れ立って、俺の巨大な足元まで駆けっこをしてやってくるようになった。
彼らは、五百年前に大人たちが抱いていたような、俺の鋭い牙や鋼鉄のように硬い鱗に対する恐怖を少しも持っていなかった。まるで、街にある大きな公園の遊具にでも向かうように、無邪気な笑顔で話しかけてくる。
「ヴァイス様、おっきいね!空の雲くらいおっきい!」
「ねえねえ、今日は背中に乗せてよ! 一番高い角のところまで登って、風に当たりたいな!」
「あーっ、ずるい! 僕が先だよ!」
俺はそんな彼らの賑やかな声に『怪我をするなよ。順番を守れ』と念話で優しく忠告しながら、巨大な前足をスロープのように地面に差し出してやり、背中の上で遊ばせてやった。
俺の広大な背中は、彼らにとってはさながら「動く白い丘」のようなものだ。巨大な角の間に隠れてかくれんぼをしたり、太陽の光を浴びて温かくなった純白の鬣にすっぽりと包まってお昼寝をしたり。
その小さな体温と、鈴を転がすような屈託のない笑い声が、俺の背中の鱗を通して直接心に伝わってくるのは、なんとも言えずこそばゆく、そして胸の奥がじんわりと温かくなるものだった。
大人たちとの交流もまた、俺の密かな楽しみの一つとなっていた。
特に、かつて教国の兵士としてリンドブルムの攻城戦に参加し、俺に無数の大砲や岩石を撃ち込んでいた者たちが、今は俺の鱗の手入れを手伝うと言って、休日のたびに巨大なブラシやモップ、そして大量の水を積んだ馬車を持って集まってくるのだ。
「へへっ、ヴァイス様。ここの右の脇腹の鱗、ちょっと土埃で曇ってますぜ。今日は俺たちが、顔が映るくらいピカピカに磨き上げておきますからね! あの時は本当に、酷いことをしちまって……」
彼らは、俺が寝そべっている横で高い梯子をかけ、ゴシゴシと力強く、そして丁寧に俺の硬い鱗を磨きながら、昔の武勇伝や、今の暮らしぶりを語って聞かせてくれる。
「あの『朱の調印式』の前の、リンドブルムでの戦いの時……俺は本当にビビっちまってよぉ。上官には『さっさと撃て』って怒鳴られるし、目の前には武器も持たない女子供が立ちはだかってるしで、頭の中が真っ白だったんだ」
「ああ、俺もだ。でも、あんたが一発も反撃せずに、ただ静かに盾になってくれた時、俺の中で何かが音を立てて崩れて、そして新しい何かが変わったんだ。あの日、俺たちはあんたのその背中に魂を救われたんだよ」
「今じゃ俺、教国の軍服を脱いで街で大工やってるんスよ。昨日も、獣人の家族が住む家を建ててきてね。完成して喜んでもらえた時は、剣振って手柄を立てた時より何百倍も嬉しかったなぁ」
彼らの話は、時折差し入れの酒が入ると半分くらい盛られている気もしたが、その誇らしげな笑顔を見ていると、わざわざ訂正する気にもなれなかった。
かつて憎み合い、殺し合うために剣を向け合った者たちが、今はこうして俺の体を気遣い、共に汗を流し、笑い合っている。それを見られるだけで、俺があの戦場で流した血は決して無駄ではなかったと、心から思えた。
亜人の学者たちもまた、頻繁に俺の元を訪れるようになった。
教国の厳しい情報統制がなくなったことで、真の知識を求める探求者たちが、大陸中から俺の住む渓谷へと集まってきたのだ。
「失礼します、ヴァイス様。本日は、竜種の魔力循環システムと、周囲の大気マナへの影響について、少し質問がございまして……。よろしければ、この魔力測定器を少しだけお近づけしても?」
分厚い眼鏡をかけた犬の獣人の学者が、大量の羊皮紙の束を抱え、俺の身体の構造や生態について熱心に質問してくる。
『我の心臓は巨大な魔力炉の役割を果たしていてな。呼吸と同時にマナを取り込み、血流に乗せて全身の鱗へ循環させている……』と俺が少し答えるだけで、彼らは目を輝かせ、猛烈な勢いで羽ペンを走らせる。
彼らにとって、生きた伝説である俺の存在そのものが、無限の知識の宝庫であり、生きた大図書館のようなものらしい。
俺は初めて、ただの「暴力の象徴」や「歴史の傍観者」としてではなく、本当の意味で「社会を構成する一員」として、彼らと共に生きている確かな実感を得ていた。
そして、俺にとって何よりも特別で、心安らぐ存在だったのは、リリとの時間だ。
あのおぞましい魔玉の呪いから生還し、『竜涙の庭園』の建設を見事に成し遂げた彼女は、その後、ある大きな仕事に取り掛かっていた。
彼女は、探検家としての情熱と、俺の側近としての知識を全て注ぎ込み、五年という歳月をかけて、『真実の英雄譚』という一冊の分厚い本を書き上げたのだ。
かつて俺が語った魔王大戦の真実。
ルナミリアの自己犠牲と、誰よりも平和を願った想い。
カイルの真っ直ぐな信念と、ギルバートの不屈の剛腕。
そして、亜人たちもまた、人間と共に世界を救うために血を流した勇敢な戦士であったこと。
それらの歴史を、教国が書き換えた嘘の教義から取り戻すため、彼女は何度も古い文献を調べ直し、誠実な筆致で、後世に残すための本を記したのだ。
その本は、出版されるや否や瞬く間に大陸中の人々の心を打ち、大ベストセラーとなった。今では人間、亜人を問わず、新しい時代の正しい歴史の教科書として、全ての学校で採用されるほどになっている。
その大事業を終えた後も、彼女は俺の良き「話し相手」として、機構での公務の合間を縫って、頻繁にこの渓谷を訪れてくれた。
俺たちは日がな一日、風に吹かれながら他愛もない話をした。
「ヴァイス様、聞いてください。南の島には、なんと海から飛び出して空を飛ぶ魚がいるんですって! 商人から聞いたんですけど、いつか一緒に見に行きませんか?」
『飛ぶ魚か。トビウオだな。俺の故郷の海にもいた。美味いぞ、あれは』
「えっ、食べちゃうんですか!? もー、ヴァイス様ったら相変わらずロマンがないんですから!」
彼女が旅で見つけた珍しい植物や、遠い異国の動物の話。
時には、彼女が探検先で見つけた古代遺跡の謎解きに、俺が竜としての長年の経験や記憶を頼りに助言を与えることもあった。
その時間は、俺にとって何よりも心地よく、この穏やかな時間が永遠に続いてほしいと、心から思えるものだった。
戦火の匂いも、陰謀の気配もない。ただ純粋に、知識を分かち合い、平和な日常の些細な出来事を笑い合う。
かつてカイルたちと過ごしたあの頃の、ヒリヒリとした熱い絆とはまた違う、静かで、しかし確かに満ち足りた幸福がそこにはあった。
だが、どれほど強く願おうとも、時間は等しく、そして残酷なまでに過ぎ去っていく。
どんなに穏やかな時間にも、必ず「変化」は訪れるのだ。
そしてそれは、悠久の時を生きる竜である俺ではなく、俺の周りにいる愛すべき者たちに、確実に、そして静かに忍び寄っていた。




