第57話 平和の光と影
俺が象徴的な守護者として君臨することになった『大陸平和協定機構』の誕生は、この大陸の勢力バランスを、文字通り劇的に変化させた。
度重なる暴動と民衆の離反によって、身動きが取れなくなりつつある西の「聖アルド教国」。
俺たちという強固な緩衝地帯を得たことで、直接的な教国の脅威から解放され、新たな国家のあり方を模索し始めた東の「アーベル亜人連合」。
そして、その大陸の中央に位置し、教国からも連合からも確固たる独立を保ちながら、自由と経済の要衝として急成長を遂げる「大陸平和協定機構」。
この三つの巨大な勢力は、まるで精巧な天秤のように互いに牽制し合う形となり、大陸にはここ数百年で最も確かな、そして穏やかな「平和」が訪れた。
国境を越えた大規模な軍事衝突の危機は、ひとまず遠のいたのだ。
人々は、この久しぶりの平和を、手放しで謳歌した。
機構に加盟した国々では、長年彼らを縛り付けていた教国の重苦しい圧政や、理不尽な重税から解放された自由な気風が、春の風のように満ち溢れていた。
国境の厳しい検問は簡素化され、商人たちの馬車が安全に行き交うための街道が、各地で急ピッチで整備されていく。
市場には、かつて教国が「異端の品」として禁じていた東の亜人たちの特産品が堂々と並べられるようになった。ドワーフの精巧な細工物や、エルフの森で採れた珍しい薬草、獣人たちが織った色鮮やかな絨毯。
街の広場には新しい音楽が奏でられ、夕暮れ時になれば、労働を終えた人々の屈託のない笑い声が酒場から漏れ聞こえてくる。
「ヴァイス様、聞いてください!」
ある晴れた日の朝。俺が住処としている静かな渓谷に駆け寄ってきたリリは、花が咲いたような満面の笑顔で報告してくれた。
彼女の背中の大きな狐の尻尾が、嬉しそうにパタパタと揺れている。
「リンドブルムの王都の市場が、去年より二倍も大きくなったそうです! それに、商人たちだけじゃありません。農民たちも、今年の麦の収穫は教国に奪われることなく、自分たちの手元に残ると言って、みんなで豊穣のお祭りを計画しているんですよ!」
彼女は、街で買ってきたという甘い香りのする焼き菓子を俺の鼻先に差し出しながら、さらに声を弾ませた。
「街の人たち、みんな言ってます! 『毎日がお祭りのようで、夢を見ているみたいだ』って!」
彼女が嬉しそうに語る明るいニュースを聞くたびに、俺の心もじんわりと温かくなった。
戦いがなくなり、理不尽な暴力に怯えることなく、家族と穏やかに暮らせるようになったことを喜ぶ手紙も、毎日のように俺の元へ届けられる。
誰もが、この温かい平和がずっと続くと信じていた。
正直に言えば、俺自身もそう思っていたし、そうであってほしいと心の底から願っていた。
だが、その平和という眩しい光の下で、新たな、より根深い「影」が静かに、そして確実に広がり始めていたことに、俺たちはまだ気づいていなかったのだ。
その不穏な兆候は、実に些細な出来事から始まった。
俺の住処の近くにある、機構加盟国の一つ、城塞都市バルド。
その路地裏にある、薄暗く安酒を出す酒場で、ちょっとした喧嘩が起きたのだ。
当事者は二人。
かつてリンドブルム侵攻に参加し、敗戦後に祖国を捨ててこの地に住み着いた「元教国兵」の男。
そして、長引く戦乱の時代に剣一本で生計を立ててきたが、平和になったことで職を失った「流れ者の傭兵」だった。
「ちくしょう! 平和だ、自由だって、どいつもこいつも浮かれやがって!」
傭兵の男が、空になった木製のジョッキをテーブルに乱暴に叩きつけた。安いエールの泡が飛び散る。彼はまだ昼間だというのにひどく酒に酔い、赤い顔で管を巻いていた。
「平和になったせいで、俺たちみたいな腕っぷししか取り柄のない奴らは、仕事が丸ごとなくなったんだぞ! 商人の護衛の仕事も激減だ! たまにある魔物狩りの依頼だって、若い冒険者ギルドの連中に安値でごっそり取られちまう! どうやって食っていけってんだよ!」
彼はテーブルを蹴り飛ばし、周囲の客に当たり散らすように叫ぶ。
その荒っぽい言葉を、隣の席で静かにスープを飲んでいた元教国兵の男が、咎めるような口調で遮った。
「お前たちのような、戦争と暴力でしか金を稼げない野蛮人がいるから、世界から争いがなくならないのだ」
元教国兵の男は、今は軍服を脱ぎ捨て、この街のパン屋で職人の見習いとして働いていた。その手や服には白い小麦粉がこびりついている。
彼はあの敗戦の日、俺が流した血から咲いた花畑を見て武器を捨てた者の一人だった。その目には、過去の過ちを償い、真っ当な市民として新しい人生を歩もうとする静かな意志が宿っていた。
「平和に不平を言う前に、自らの生き方を変える努力をしたらどうだ。偉大なるヴァイス様が、身を挺してもたらしてくださったこの尊い平和を、汚すような発言は許さん」
その言葉は正論だったかもしれない。だが、行き場のない怒りを抱えた傭兵にとっては、火に油を注ぐだけの結果となった。
「……なんだとてめえ! 安全な場所でパン焼いてる腰抜けが、偉そうに説教垂れてんじゃねえ! 俺だって好きで傭兵やってるわけじゃねえ! 他に生き方を知らねえんだよ!」
「平和」という言葉が、この二人の間に決定的な亀裂を生んだのだ。
売り言葉に買い言葉。
やがて掴み合いの殴り合いとなり、テーブルがひっくり返り、店主の悲鳴が上がる。最終的には巡回していた街の衛兵が駆けつけ、二人を力ずくで取り押さえる騒ぎとなった。
その報告をリリから聞いた時、俺はそれを軽く考えていた。
『まあ、平和に浮かれる民の、よくある酔っぱらいの小競り合いだろう。放っておけばいい。そのうち新しい仕事も見つかるさ』と。
だが、俺の考えが甘かったことを、すぐに思い知らされることになる。
似たような事件は、機構内の各地の街で、まるで伝染病のように頻発し始めたのだ。
平和は、必然的に「軍縮」をもたらす。
教国も、連合も、そして大陸平和協定機構も、これ以上の大きな戦争がない以上、莫大な維持費のかかる大規模な常備軍を抱え続ける必要がなくなった。
それは国家の財政にとっては喜ばしいことだ。だが、同時に、兵士や傭兵として生きてきた多くの荒くれ者たち、そして武器を作る鍛冶師や、軍需物資を運ぶ商人など、戦争関連産業で生計を立てていた数え切れないほどの人々が、一斉に職を失うことを意味していた。
戦うことしか知らなかった者たちが、急激に変化した平和な社会システムにうまく適応できるはずがなかった。
彼らは日々の暮らしに困窮し、その日暮らしの金を求めて街を彷徨い、行き場のない不満を溜め込んでいく。
彼らにとって、「平和」は決して救いではなく、自分たちを社会から不要なものとして切り捨てる「失業」と同義だったのだ。
さらに問題はそれだけではなかった。
教国の支配から抜け出し、自由な商業活動が可能になったことは、確かに経済全体の数字を押し上げ、街を活性化させた。
だが、その恩恵は決して平等に分配されるものではなかった。
商才のある大商人や、独自の技術を持つ一部の職人たちは、この好景気を逃さず巨万の富を築き上げた。彼らは街の一等地に豪華な屋敷を構え、夜な夜な豪勢なパーティーを開いている。
その一方で、変化の波に乗り遅れた者や、天候不順で不作に見舞われた農民たちは、好景気に伴う急激な「物価の上昇」についていけなくなっていた。
昨日まで普通に買えていたパンが、今日は高くて買えない。
貧富の差が、急速に、そして残酷なまでに拡大し始めたのだ。
街の華やかな表通りから、わずか一本裏側に入った場所。
路地裏の薄暗がりや、街の外れにあるゴミ捨て場の近くには、仕事にあぶれた者たちや、家賃を払えなくなった者たちが身を寄せ合う、粗末なテントや掘っ建て小屋が並ぶ『スラム街』が形成され始めていた。
それは、かつて教国の聖都にあったような「亜人スラム」のような、明確な種族差別によって生まれたスラムではない。
平和で自由な経済社会になったからこそ生まれる、「経済格差」という新たな病によって生み出されたスラムだった。
戦場では、誰もが等しく死の危険に晒されていた。矢が当たれば王も乞食も等しく死ぬ。ある意味で、そこには死という絶対的な平等があった。
だが、この平和な社会では、生まれや才覚、そして運によって、人の幸不幸が残酷なまでに、そしてはっきりと選別され始めていたのだ。
「……これが、私たちが望んだ、真の平和と言えるのでしょうか……」
ある日の夕暮れ。
茜色に染まる空の下で、リリは俺の巨大な前足に寄りかかるようにして座り込み、暗い顔でそう呟いた。
彼女の膝の上には、ここ数ヶ月の機構内の社会問題を独自に調査し、まとめた分厚い報告書の束が置かれている。彼女は俺の目となり耳となって各地を飛び回り、人々の生の声を丹念に集めてくれていたのだ。
「戦いの恐怖はなくなりました。兵士が理不尽に命を奪われることも……。でも、今、人々を苦しめているのは、明日のパンも買えないかもしれないという、別の種類の、じわじわと心を蝕む恐怖です」
彼女は、震える手で報告書をめくり、その一節を読み上げた。
それは、あるスラムで出会ったという、小さな赤ん坊を抱えた母親の言葉だった。
『ヴァイス様がもたらしてくださった平和は、素晴らしいものです。でも……その平和は、全ての人を幸福にはできませんでした。裕福な人たちが笑い合う壁の向こうで、私の子は、今日も腹を空かせて泣いているのです』
その言葉は、まるで小さな、しかし鋭い棘のように、俺の胸に重く、深く突き刺さった。硬い鱗の隙間をすり抜け、心臓を直接握り潰されたような痛みだ。
俺は、思い上がっていたのかもしれない。
マルクスや教皇のような、わかりやすい「悪」を力で打ち砕き、理不尽な暴力を盾となって止めさえすれば、それだけで世界は良くなると、あまりにも単純に考えていた。
だが、問題はもっと複雑で、もっと根深いものだったのだ。
戦争という巨大で明確な「敵」がいなくなった時、行き場を失った不満は、新たな矛先を探し始める。
富める者への嫉妬。
自分から職を奪った社会への怒り。
そして、皮肉なことに、この平和をもたらした象徴である「俺」への、漠然とした不満となって。
『あのドラゴンが現れなければ、俺たちは今も兵士として誇り高く生きていけたのに……』
『ヴァイス様は、金持ちや商人の味方なんだ。俺たちみたいな貧乏人のことなんて、空の上からじゃ見えちゃいないんだよ』
そんな声すら、街の場末の酒場や、スラムの片隅で囁かれ始めているという。
俺は、自分が倒すべき「敵」の姿がわからなくなっていた。
貧困や格差は、俺の鋭い爪や牙で引き裂けるものではない。
社会の歪みや人々の嫉妬は、俺の最大火力のブレスで焼き払えるものではないのだ。
それは社会の構造そのものに巣食う、見えざる病だ。
俺は守護竜として、この新たな「見えざる敵」にどう立ち向かえばいいのか。
その答えを、俺はまだ見つけられずにいた。
かつての友、エルフのルナミリアならどうしただろうか。彼女なら、民の貧しさに心を痛め、領主たちに柔らかな言葉で改革を訴えていただろうか。
俺の相棒だった勇者カイルならば、そのカリスマ性で人々を導き、貧しい者を助ける新たな互助の仕組みを作ろうと汗を流しただろうか。
だが、俺は竜だ。
圧倒的な暴力と、風を操る力はあっても、人間の社会の複雑な経済の仕組みや、人の心の繊細な機微を、本当の意味で理解しているわけではない。
俺が下手に力で介入して「富を分け与えろ」などと商人を脅せば、経済のバランスは崩壊し、それは新たな独裁の始まりと見なされかねない。事態はさらに悪化するだろう。
「ヴァイス様……」
俺の深い葛藤を見透かしたかのように、リリが心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「あなたのせいではありません。あなたは、確かに世界を戦争から救ってくださいました。ただ……世界が、人間社会の仕組みが、その急激な変化のスピードについていけていないだけなのです」
彼女はそう言って、俺の硬い鱗を小さな手で優しく撫でて、慰めようとしてくれる。だが、その優しい言葉は、俺のどうしようもない「無力さ」を、より一層際立たせるだけだった。
平和の光が強ければ強いほど、その足元に落ちる影もまた、深く、色濃くなっていく。
俺は自分がもたらした光によって生まれた、この深い影と、どう向き合えばよいのだろう。
ただ空から外敵の侵略を守るだけでは、もう誰も本当の意味では救われない。
だが、俺に何ができるというのか。
俺の本当の試練は、魔王を倒したことでも、五万の軍勢を一人で相手にしたことでもなく、ここから始まるのかもしれない。
それは、目に見えるどんな怪物と戦うよりも、ずっと困難で、孤独な戦いになるだろう。
俺は、答えのない問いを抱えながら、スラムの灯りが小さく、頼りなげに瞬き始めた眼下の街を、ただ静かに見下ろすことしかできなかった。




