第104話 箱舟の警告
アーニャ博士が提示した「ウラシマ効果」という残酷な仮説は、俺の心を巨大なハンマーで殴られたかのように激しく揺さぶった。
目の前が、真っ暗になるような感覚。
つまり、こういうことか。
俺が死んだ後、俺の家族――父さんも、母さんも、まだ小さかった妹も、普通にそれぞれの人生を歩み、寿命を全うした。俺の友人たちも、大人になり、家庭を持ち、そしていつか土に還った。
彼らの子供が、孫が、さらにその子孫たちが、俺の知らない歴史を紡ぎ、俺の知らない科学を発展させ、俺の知らない歌を歌い、そして……やがて訪れた滅びの時に、絶望の中で立ち向かい、散っていった。
ここに眠っている彼らは、俺の直接の知り合いではない。
俺が生きていた時代の、遥か遥か未来の、名も知らぬ子孫たちなのだ。
もしかしたら、この中には俺の血を引く者がいるのかもしれない。あるいは、かつて共に笑い合った友人の、遠い遠い系譜を継ぐ者がいるかもしれない。
だが、俺の記憶の中にある、あの温かくて、少し窮屈で、けれど愛おしかった「地球」という故郷は、もう時間の彼方に完全に消え去ってしまっているのだ。
「……なんてことだ……」
俺の口から、呻きのような声が漏れた。船の外、巨大なハッチの前で待機している俺の肉体まで、魂の震えが伝わってくる。
俺は、アキラのカメラを通して映し出される、氷漬けのカプセルの中で眠る見知らぬ同胞たちの穏やかな寝顔から、目を離すことができなかった。
どちらの可能性が真実だとしても、俺とこの船のクルーとの間には、決して埋めることのできない、途方もない時の断絶が存在していた。
俺は転生者として時間を超え、彼らは旅人として時間を超えた。
そして、この異郷の地で、神の悪戯か、奇跡か、こうして巡り会ってしまったのだ。
「……いずれにせよ、彼らを目覚めさせるのは、極めて慎重にならなければ」
重い沈黙を破ったのは、タカギ司令だった。彼は腕を組み、いつもの冷静さを取り戻しながらも、その声には深い苦悩と痛ましさが滲んでいた。
「……彼らが目覚めた時、直面するのは『故郷の完全な喪失』と、数千年という時を超えてしまった『浦島太郎状態』。……さらに、自分たちがたどり着いたのが、魔法と科学が混在し、人間以外の知的生命体も存在する未知の惑星だと知れば……その精神的ショックは計り知れない。パニックを起こし、自ら命を絶つ者が出る可能性すらある」
彼の言う通りだった。
俺ですら、千年ぶりに目覚めて、故郷の山が消え都市になっているのを見ただけで、あれほどの孤独感と喪失感を味わったのだ。
彼らが受ける衝撃は、その比ではないだろう。彼らにとって、この星は最後の希望の地であると同時に、受け入れがたい現実を突きつける、絶対的な異物なのだから。
「……まずは、この船のシステムと技術を徹底的に解析し、彼らの健康状態や精神状態を完全に把握することが先決だ」
タカギは、リーダーとしての決断を下した。
「……彼らを安全に目覚めさせ、そして彼らが受けるであろうショックを最大限に和らげ、この世界の一員としてスムーズに受け入れるための『準備』を整える。……それには、長い時間と、国家レベルでの緻密で慎重な計画が必要になるだろう。……幸い、船の動力はまだ生きており、彼らはあと数百年はこのまま眠り続けられるようですからな」
「賛成です」
アーニャ博士も頷いた。
「我々はこの船から、彼らの文化、歴史、社会構造、心理学……あらゆるデータを抽出し、学ぶ必要があります。彼らを理解することなくして、真の共存はありえません」
「……わかった。俺も協力する」
アキラも、真剣な顔で拳を握りしめた。
「トレジャーハンターのネットワークを使えば、この星の歴史や文化について、公式記録にはない情報も集められるはずです。彼らが少しでも早く、この世界に馴染めるように」
こうして、俺たちは、最後の地球人たちを今はまだ眠らせたまま、この宇宙船の存在そのものを、人類最高レベルの機密として封印することを決定した。
そして、その解析と、来るべき「覚醒の日」に向けて、極秘の国家プロジェクトチームを発足させることになった。
「プロジェクトの名前をどうする?」
タカギが皆に問いかける。
「……『アーク(方舟)』はどうでしょう」
提案したのはアーニャだった。
「彼らが乗ってきた希望の箱舟。そして、我々が過去と未来を繋ぎ、二つの世界の架け橋となるという意味を込めて。
「……いい名前だ」
タカギは頷いた。
「よし、これより、プロジェクト『アーク』を正式に発足する。チームの最高責任者は私が務める。アーニャ博士には技術解析の総監督を、アキラ君には情報収集及び、ヴァイス殿とのリエゾン役を。そして、ヴァイス殿……貴殿には、このプロジェクトの最高顧問として、我々を導いていただきたい」
俺の旅は、ここで新たな、そして明確な目的を得た。
この星で眠る、遠い未来の子孫たち――同胞たちを、いつか笑顔で迎えるために。
俺は、この千年後の世界を、彼らが目覚めた時に絶望するような場所ではなく、安心して暮らせる、平和で優しい場所にしなければならない。
そのために、俺ができることは何なのか。
俺は、この世界の空を飛びながら、人類の歴史を学び直し、彼らの文化を深く理解し、そして彼らが抱える貧困や差別といった問題と、真正面から向き合うことを決意した。
それはもはや、ただ外敵を倒すだけの守護者としての役目ではない。
過去と未来、地球とこの星を繋ぐ、「未来への架け橋」としての、俺の新たな使命だった。
だが、俺たちはまだ、本当の意味で気づいていなかった。
この宇宙船がもたらしたものは、希望と技術だけではなかったことに。
ブリッジからの帰路、アキラが何気なくコンソールの隅をタップした時だった。
「ん? 博士、このファイル、まだロックがかかってますね。航海日誌の最終ページのようですけど……」
「どれどれ……ああ、これは三重の量子暗号化が施されているわ。船長クラスの最高権限がないと開けないようになっている。よほど重要な情報なのね……。まあ、解析には少し時間がかかるでしょう。後回しにしましょ」
アーニャがそう言って通り過ぎようとした時、俺は、そのファイルから放たれる微かな、しかし不吉な気配を感じ取っていた。
『待て、アキラ。……そのファイル、今すぐ開け』
「え? でも博士が……」
『いいから、やれ。俺の勘が、何かを警告している』
俺のただならぬ気配に、アーニャも足を止め、深刻な顔でコンソールを覗き込んだ。
「……わかりました。総員、ハッキングを開始します。必ずこじ開けてみせます」
数十分後。アーニャと彼女のチームの奮闘の末、ついにその暗号は解読された。
スクリーンに表示されたのは、たった一行の、戦慄すべき警告文だった。
『―――我らを滅ぼした"それ"は、執拗だ。……奴らは、我々の船が放った超空間航行の航跡を、今もこの宇宙のどこかで、我々を追っているかもしれない』
「……追って……いる?」
アキラが、乾いた声で呟いた。その顔から急速に血の気が引いていくのが、俺にも分かった。
「おいおい、何かの冗談だろう……? 地球を滅ぼしたっていう、あの『デボアラー』が……まだ、この宇宙のどこかにいて、俺たちを追ってるかもしれないって……ことか?」
「その可能性が、極めて高いということです」
アーニャが、顔面蒼白になりながらアキラの言葉を引き取った。彼女は震える指でスクリーンをなぞり、絶望的な事実を紡ぐ。
「航海日誌によれば、彼らは『超空間航行の航跡』を残してしまったとあります。それは、宇宙空間に刻まれた、消えることのない道標のようなもの。……もしデボアラーが、その航跡を辿る能力を持っていたとしたら……」
「……アークの最終到着地点である、この星を見つけ出すのは、もはや時間の問題……ということか」
タカギが、最悪の結論を口にし、その場の空気が凍りついた。
俺たちが倒したデストロイドラゴンは、あくまでこの星で生まれた模倣品。
本物の、星そのものを喰らい尽くす真の脅威の影が、静かに、しかし確実に、この星へと近づきつつあった。
俺たちの戦いは、まだ何一つ、終わってはいなかったのだ。




