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第48話:陥落するエリートと、溶けゆく冷たい常識


 静寂。

 魔導院が誇る最強の精鋭部隊三十名と、彼らを率いる最高権力者である総帥。そして、カウンターの奥でふにゃりと微笑む、元・精霊翻訳官の令嬢エレイン。

 一触即発の空気が支配するはずの『カフェ・エル』の店内は今、信じられないほどの静寂に包まれていた。


 すべての者の視線が、一点に集中している。

 それは、総帥の震える右手に握られた銀色のフォークと、その先端に突き刺された『厚さ三センチの極厚ローストビーフ』だった。


 カリッと香ばしく焼き上げられたブラウンの表面から、ルビーのように艷やかなロゼ色の断面が覗く。そこに絡みつく、漆黒の熟成バルサミコソース。

 立ち昇る湯気と共に放たれる、暴力的なまでの肉の旨味と、甘酸っぱく濃厚なバターの香りが、総帥の鼻腔を容赦なく蹂躙し、彼の理性を限界まで削り取っていた。


「……一、一口だけだ。一口だけ食べて、その直後に貴様らを全員処刑してやる……ッ!」


 血走った目でそう宣言し、総帥は震える手でフォークを高く掲げ、大きく口を開けて、その極厚のローストビーフへと喰らいついた。


 ――サクッ。


 まず歯を歓迎したのは、小さな火の精霊ポポの絶妙な火加減と、特製スパイスによって焼き上げられた表面の小気味良い食感だった。

 だが、驚愕はすぐその直後にやってきた。


(な……なんだ、この柔らかさは……ッ!?)


 厚さ三センチもある赤身肉。普通に焼けば、ゴムのように硬くなり、顎が疲れるまで噛み続けなければならないはずだ。

 しかし、総帥の歯が肉の中心へと沈み込んだ瞬間、その常識は粉々に打ち砕かれた。

 発酵と熟成の精霊ラムの魔法によって極限まで繊維を解きほぐされた肉は、まるで赤ん坊の頬のように柔らかく、力を入れる必要すらないままに、スッ……と噛み切れてしまったのだ。


 そして、肉が断ち切られたその瞬間。


「――――ッッ!!??」


 総帥の目が見開き、全身の筋肉が硬直した。

 口の中で、爆発が起きたのだ。


 閉じ込められていた熱い肉汁(グレービー)が、決壊したダムのように溢れ出し、口腔内を暴力的に満たしていく。

 それはただの肉汁ではない。熟成によってアミノ酸が極限まで高められた、野性味と深いコクの結晶だった。

 そこに、特製の『熟成バルサミコソース』が完璧な円舞曲(ワルツ)を踊りながら絡みつく。バルサミコの芳醇で気品のある酸味が、肉の脂っこさを瞬時に切り裂き、直後に赤ワインと焦がしバターの濃厚な甘みが、舌を直接とろけさせるような快感となって押し寄せてきたのだ。


(美味い……! 美味すぎる……ッ!! なんだこれは……なんだ、この熱は……!!)


 魔導院で総帥が食べてきたものは、味覚や喜びを完全に排除した「エリートのための食事」だった。

 魔力と栄養素だけを計算し尽くした、冷たいゼリー状の完全食や、無味乾燥なサプリメント。食事とは、ただ生命と魔力を維持するための『作業』であり、そこに感情が入り込む余地などなかった。

 そうして何十年も、冷たい機械のように生きてきた彼の胃の腑に、エレインの作ったローストビーフが、ドスン、と熱い塊となって落ちていく。


 ――じわぁぁぁっ……。


 胃袋から、信じられないほどの『熱』と『多幸感』が、全身の血管を巡って駆け巡った。

 それは、失われていた『命の温かさ』そのものだった。


「あ……、あぁ……っ」


 カラン、と。

 総帥の手から銀色のフォークが滑り落ち、カウンターに甲高い音を立てた。


「総帥……ッ!?」

「いかがなさいましたか、総帥!!」


 背後に控えていた精鋭部隊の兵士たちが、慌てて声を上げる。

 しかし、総帥は彼らの声など聞こえていないかのように、両手で顔を覆い、肩を震わせていた。


 ポタ、ポタ……。

 純白の最高級マントに、大粒の透明な雫が落ちていく。


「……なぜだ。なぜ、これほどまでに、心が震えるのだ……。私は、都市の最高権力者だぞ。すべての魔力を支配し、誰よりも豊かで、完璧な生を享受しているはずなのに……」


 総帥は、ボロボロと涙を流しながら、子供のように嗚咽を漏らした。


「なぜ、このたった一切れの肉が……私が人生を懸けて築き上げてきた『完璧な日常』よりも、圧倒的に美味しく、温かく、そして……満たされるのだ……ッ!」


 もはや、エリートとしてのプライドも、大罪人を処刑するという目的も、彼の頭からは完全に消え去っていた。

 総帥は素手で二切れ目の極厚ローストビーフを掴み取ると、ソースで手と口の周りを真っ黒に汚すことも厭わず、狂ったように肉を貪り食い始めた。


「美味い……ッ! 美味い、美味い、美味いッ! もっとだ、もっとこの熱を私の胃袋にくれェェッ!!」

「そ、総帥ッ! 抜け駆けはずるいであります! 我々も、もうその匂いで限界です!!」

「頼む、店主! 我々にもその肉を恵んでくれ! いくらでも払う! 魔力砲でもなんでも置いていくから!!」


 ガシャァァン!! という無骨な音を立てて、三十名の精鋭部隊が一斉に最新鋭の魔力砲を床に投げ捨てた。

 彼らは総帥の背後に群がり、まるで雛鳥のように、カウンターの奥のエレインに向かって必死に手を伸ばし、涙目で懇願し始めた。


「ふふっ。言ったでしょう? 今日は特別なお肉がたくさんあるから、座ってくださいって」


 エレインは、慌てることもなく、ふにゃりと優しい笑顔のまま、厨房の奥から巨大な木のボードを運び出してきた。

 その上には、まだ丸々三キログラム以上残っている、巨大なローストビーフの塊が湯気を立てている。


「お肉だけだとお腹が空いちゃうわね。ドラン、焼きたてのパンをお願い」


『……ウン。……フカフカノ、オオキナパン、イッパイアルヨ』


 大地の精霊ドランが、石窯から次々と、小麦の香りが弾けるような巨大なカンパーニュ(田舎パン)を取り出してきた。

 エレインはパンを厚めにスライスし、その間に極厚のローストビーフを惜しげもなく二枚重ねて挟み込む。そして、とろとろのバルサミコソースと、チャイが用意してくれた新鮮なハーブをたっぷりと挟み込んだ『究極のローストビーフ・サンドイッチ』を、三十個、あっという間に作り上げた。


「はい、お待たせしました。喧嘩しないで、みんなで食べてくださいね」


 エレインがサンドイッチの山をカウンターに出した瞬間、精鋭部隊の兵士たちは我先にと群がり、両手でパンを掴んで大きくかぶりついた。


「う、美味ェェェェェッッ!! なんだこれ、パンに肉汁が染み込んで、ソースと絡んで悪魔的な味がするぞォォ!!」

「俺は……俺は今まで、何を食べて生きてきたんだ! これが、これが食事というものなのか!」

「母ちゃぁぁん!! 生きててよかったぁぁぁッ!!」


 泣き叫びながらサンドイッチを貪る屈強な兵士たち。

 顔中をソースまみれにして、大皿の底に残った一滴の肉汁すらもパンで拭い取っている総帥。

 殺気と暴力で制圧されるはずだった『カフェ・エル』は今、三十人を超える成人男性たちの、歓喜と嗚咽に包まれた、異様な「大宴会場」と化していた。




『ガウッ!! オイ、ニンゲンども! それは俺の肉だぞ! エレイン、俺にもその分厚いヤツをもっと寄越せ!』


 カウンターの端で、三尾の雪狐ギルが、自分の分の肉をとうの昔に平らげたというのに、兵士たちに負けじと前足をバタバタさせてヨダレを垂らしている。


『エヘヘッ! オニク、アマーイ! トケチャウネ!』

『……フニャァン……ワタシノ、ジュクセイ……コノトシヲ、セイアツシタゾォ……』

『キュルルッ! みんな、美味しそうに食べてるね!』


 ナギ、ラム、チャイたち精霊も、総帥や兵士たちが自分たちの手伝った料理でメロメロになっているのを見て、誇らしげに胸を張って宙を舞っていた。


「……ふむ。どうやら、懸念していた武力衝突は回避できたようだな」


 騒乱のカウンターの隅。

 特別査察局長のアリスターが、自分用の少し上品なローストビーフをアッサムの淹れた最高級の紅茶と共に楽しみながら、呆れたような、しかしひどく満足げな溜息を吐いた。


「総帥。……聞こえますか、総帥」


 アリスターが声をかけると、四枚目のローストビーフを丸呑みしていた総帥が、ビクッと肩を揺らして振り向いた。

 その顔はソースと肉の脂でテカテカに輝き、エリートの威厳など微塵も残っていない。


「アリスター、お前……。この店を、知っていたのか……」


「ええ。私が、日々の激務と上層部の皆様の無茶振りから逃れ、正気を保つための大切な『聖域』ですからね」


 アリスターは、純白のローブを優雅に翻し、ティーカップを片手に持ちながら、これ以上ないほどの『ドヤ顔』を浮かべた。


「総帥。ご覧の通りです。……これが、私が命を懸けて、偽造報告書を作り続けてまで守ってきた『真の平和』です」


「真の……平和……」


「都市の地下に張り巡らされた、冷たい搾取の魔法陣。精霊たちを機械のように縛り付け、苦しめながら吸い上げた魔力で作られた私たちの都市は、確かに効率的でした。……しかし、それはあまりにも冷たく、無味乾燥で、心が死んでいくシステムだった」


 アリスターは、厨房で笑いながら追加の肉を焼いているエレインと、彼女の周りで楽しそうに踊る精霊たちを見つめた。


「彼らを見てください。精霊たちは、魔法陣で強制されなくても、こうしてエレインと共に笑い、自らの意思で力を貸してくれている。彼女が彼らの声を聞き、寄り添うだけで、魔法陣の何万倍もの『豊かで温かい魔力』がこの街に還元されているのです。……それを証明しているのが、今、あなたが涙を流して貪り食っている、その肉の味ですよ」


 総帥は、自分の両手を見た。

 ソースで汚れ、脂にまみれた手。しかし、その手からは、かつて感じたことのないほどの強い生命力と、内側から溢れ出すような熱が放たれていた。


「……ああ。そうだな。……お前の言う通りだ、アリスター」


 総帥は、憑き物が落ちたような、ひどく穏やかで、しかし少しだけ恥ずかしそうな顔をして、小さく笑った。


「私が間違っていた。……精霊をただの動力源として見下し、冷たい常識に囚われていた。……こんなにも美味しく、温かい奇跡が身近にあったというのに、私は何十年も泥水をすすって生きていたのだな」


 魔導院の最高権力者が、冷たい搾取のシステムを完全に否定し、敗北を認めた瞬間だった。

 しかし、その敗北宣言には、悲壮感は微塵もなかった。あるのはただ、最高に美味しい食事に出会えたことへの、純粋な感謝と多幸感だけ。


「……店主。いや、エレイン殿と呼ぶべきか」


 総帥が、居住まいを正し、少し顔を赤らめながらエレインに向かって深々と頭を下げた。


「この無礼、いくら謝罪してもしきれん。……だが、恥を忍んで一つだけ、お願いがある」


「はい? なんでしょうか?」


 エレインが首を傾げると、総帥は血走った目を再びカッと見開き、カウンターに身を乗り出した。


「お代は、魔導院の国家予算からいくらでも払う!! だから、あのパンに挟んだ肉を、私にもう三個……いや、五個追加してくれェェッ!!」


 都市を支配していた冷たい常識は、極厚ローストビーフの暴力的な旨味と、エレインの優しい笑顔の前に、完全に溶け去った。

 魔導都市エテメンアンキに、ついに温かく、そして美味しい革命の朝が訪れようとしていた。

 

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