第47話:魔導院総帥の襲来と、極厚ローストビーフの暴力的な香り
魔導都市エテメンアンキの歴史において、これほどの異常事態が起きたことはなかった。
都市の地下を這うように張り巡らされ、精霊たちから魔力を強制的に吸い上げていた『搾取の魔法陣』。そのネットワークが、完全に沈黙したのだ。
都市の空を覆っていた分厚い煤の雲は晴れ渡り、見たこともないような満天の星空が広がっている。冷たかった人工的な風の代わりに、どこか花の香りを孕んだ優しい夜風が石畳を撫でていた。
しかし、その美しい夜景の下で、ただ一人、どす黒い怒りと焦燥に身を焦がしている男がいた。
「……忌まわしい。この澄んだ空気も、不快な花の匂いも、すべてが忌まわしいッ!」
魔導院のトップに君臨する男――総帥は、純白の最高級マントを夜風に翻しながら、路地裏の奥深くへと向かって歩を進めていた。
彼の背後には、魔導院が誇る最強の精鋭戦闘部隊、三十名が重武装で付き従っている。彼らの手には高出力の魔力砲が握られ、いつでも都市の区画一つを吹き飛ばせるほどの殺気を放っていた。
「総帥。魔力波形の逆探知、完了いたしました。都市の魔法陣を破壊し、この異常な魔力を供給している『震源地』は、間違いなくこの先の路地裏にある小さな店舗です。登録名は……『カフェ・エル』」
「ただの喫茶店が、我が魔導院の数百年にわたる叡智を凌駕したというのか? 馬鹿馬鹿しいにも程がある。……どのような反乱分子が潜んでいようと構わん。扉ごと木端微塵に吹き飛ばし、反逆者どもを全員捕縛しろ!」
総帥の眼が、血走ったように赤く光る。
彼らエリートにとって、精霊とは徹底的に管理し、利用するべき『動力源』でしかない。それを解放し、あろうことか都市のシステムを破壊した犯人は、万死に値する大罪人だった。
ガチャリ、と精鋭部隊が一斉に魔力砲の引き金に指をかける。
彼らが、その憎き『カフェ・エル』の重厚な木製扉の前に到達した、まさにその時だった。
「……な、なんだ、この匂いは……?」
総帥の足が、不意にピタリと止まった。
精鋭部隊の兵士たちも、魔力砲を構えたまま、困惑したように顔を見合わせている。
閉ざされた扉の隙間から、強烈な、圧倒的に暴力的な『肉の焼ける匂い』が、彼らの鼻腔を容赦なく強襲してきたのだ。
その少し前。
カフェ・エルの厨房は、かつてないほどの熱気と、多幸感に満ちた香りに包み込まれていた。
「ポポ、火加減は完璧よ。お肉の表面が、素晴らしいきつね色に焼き上がっているわ」
『オッケー! ナカハ、シットリ、ピンクイロニ、ナルヨウニ、魔法ノオーブンダヨ!』
大地の精霊ドランが作り出した熱々の石窯の中で、小さな火の精霊ポポが楽しそうに踊っている。
その中央で焼かれているのは、市場の肉屋の主人が「都市の空気が綺麗になったお祝いだ」と安く譲ってくれた、五キログラムを超える特大の『最高級牛モモ肉』のブロックだった。
エレインは、焼け焦げる寸前の香ばしい匂いが立ち昇った肉塊を、重い鉄板ごと石窯から取り出した。
ジュワァァァッ!! という凄まじいシズル音と共に、表面に浮き出た肉の脂が弾け、厨房の空気を一瞬にして濃厚な旨味の香りで塗り替えていく。
「ここからが一番大切な工程よ。ローストビーフは、焼き上がった後、すぐに切ってはいけないの。……ラム、お肉を休ませながら、旨味を内側にぎゅっと閉じ込めてもらえる?」
『……フニャァン……マカセテ……トベキリノ、ジュクセイ……カケルゥ……』
発酵と熟成の精霊ラムが、湯気を立てる巨大な肉塊の上にふわりと浮かんだ。
琥珀色の光が肉を優しく包み込む。普通なら、アルミホイルで包んで何時間も休ませ、肉汁を落ち着かせなければならない。しかしラムの魔法にかかれば、暴れていた肉汁が瞬時に肉の繊維の奥深くへと定着し、さらにアミノ酸が極限まで分解され、数日間寝かせたような深い深い『熟成のコク』が生まれるのだ。
「お肉を休ませている間に、ソースを作るわよ」
エレインは、肉を焼いた後の鉄板に残った、旨味たっぷりの肉汁を小さな鍋に移した。
そこに、赤ワインと、少しのお醤油、そして今日の主役である『熟成バルサミコ酢』をたっぷりと注ぎ入れる。
「チャイ、少しだけニンニクと黒胡椒の香りを」
『キュルルッ! オニクニ、ピッタシノ、スパイスダヨォ!』
香りの精霊チャイが尻尾を振り、スパイスの粉末を鍋に落とす。
エレインがそれを弱火でとろみがつくまで煮詰め、最後にたっぷりの有塩バターを溶かし込むと、鍋の中から、むせ返るほどに芳醇で、甘酸っぱく、そして胃袋の底を直接鷲掴みにするような『極上バルサミコソース』が完成した。
『ガウッ!! オイ、エレイン!! なんだその黒いドロドロは!! 肉を焼いた匂いと合わさって、俺の気高き理性が吹き飛びそうだぞ!!』
厨房の入り口で、三尾の雪狐ギルが、前足をジタバタさせながら滝のようにヨダレを流している。
「ふふっ、お待たせ。今、切るからね」
エレインは、休ませていた巨大な肉塊をまな板に乗せ、よく研がれた包丁の刃を当てた。
――バンッッ!!!!
その時だった。
カフェ・エルの重厚な扉が、凄まじい轟音と共に吹き飛ばされた。
「動くなッ!! 貴様らが、都市の魔導炉を破壊した大罪人どもだな!!」
土足で踏み込んできたのは、魔力砲を構えた三十名の精鋭部隊と、怒りで顔を歪めた魔導院総帥だった。
店内にいたティルとザックが「ひぃっ!?」と短い悲鳴を上げてカウンターの下に隠れる。アリスターだけは、スプーンを持ったまま、呆れたような、しかしどこか諦観したような顔で総帥を見つめていた。
『グルルルルルッ……!! 無礼な人間どもめ。エレインの聖域に土足で踏み込むとは、ただで済むと思うなよ……!』
ギルが瞬時に巨大な三尾の雪狐の姿へと膨れ上がり、青い冷気を放ちながら総帥たちの前に立ち塞がった。ポポたち精霊も、いつでも総帥を燃やし尽くせるように戦闘態勢に入っている。
一触即発。
都市の命運を分ける、血みどろの戦闘が始まろうとした、まさにその時。
「まあ。お客様がいっぱい。……ちょうど、お夕飯ができたところです」
エレインの、のんびりとした、鈴の転がるような優しい声が店内に響き渡った。
彼女は、完全武装の精鋭部隊と、殺気を放つ総帥を前にしても、顔色一つ変えていなかった。
それどころか、両手には大きな大皿を持ち、ふにゃりと、世界で一番幸せそうな笑顔を浮かべて、カウンターの奥から歩み出てきたのだ。
「な……、貴様、自分が何をしたか分かっているのか!? この都市の、エリートたちの崇高なシステムを破壊して――」
「立ち話もなんですから、どうぞ座ってください。今夜は、とっても特別なお肉が手に入ったんですよ」
エレインは総帥の怒鳴り声を涼しい顔でスルーし、ギルの巨体をポンポンと撫でて宥めると、カウンターの中央に、その大皿をコトリと置いた。
総帥と精鋭部隊の視線が、無意識のうちに、その大皿へと吸い寄せられた。
そこに乗っていたのは、ドランの石窯とポポの火加減で極限まで香ばしく焼き上げられ、エレインの手によって『厚さ三センチ』という贅沢極まりない極厚にスライスされた、山のようなローストビーフだった。
表面は、スパイスと共にカリッと焼き上げられた深いブラウン。
しかし、その断面は――息を呑むほどに美しい、ルビーのような輝きを放つ『完璧なロゼ色(ピンク色)』だった。
ラムの熟成魔法によって、一滴の肉汁も逃すことなく繊維の奥に閉じ込められた肉は、断面から宝石のような瑞々しい艶を放っている。
「仕上げのソースをかけますね」
エレインが、熱々に煮え滾る『特製・熟成バルサミコソース』が入った小鍋を傾ける。
とろりとした、深い漆黒のソースが、ルビー色の極厚肉の上へと滝のように注がれた。
――ジュワァァァッ!!
肉の熱とソースが交わった瞬間、爆発的な香りが店内に吹き荒れた。
バルサミコの芳醇な甘酸っぱさと、赤ワインの深いコク、焦がしバターの濃厚な香り、そして熟成肉特有の、野性味溢れる強烈な旨味の匂い。
それらが混然一体となって、総帥と三十名の精鋭部隊の顔面を直接殴りつけたのだ。
「――――ッッ!!??」
精鋭部隊の兵士たちの手から、ガシャァン! と音を立てて魔力砲が床に滑り落ちた。
彼らの目は、大皿に乗った極厚のローストビーフに完全に釘付けになっていた。喉の奥で、ゴクリ、ゴクリと、無数の生唾を飲み込む音が鳴り響く。
「な……、なんだ、これは……」
総帥は、震える手でカウンターを掴んだ。
彼らエリート魔導士は、効率と魔力こそがすべてだと信じ、宮廷料理人の作る無味乾燥な栄養食や、サプリメントのような食事ばかりを摂ってきた。
そのため、目の前にある『命の旨味』の結晶とも言える圧倒的な暴力(シズル感)に対する耐性が、全く、完全に欠如していたのだ。
「赤身肉だというのに、なぜこれほどまでに……妖艶な匂いを放つ。この黒いソースからは、私の脳を直接溶かすような、甘く、そして酸味のある恐ろしい香りが……ッ」
総帥の額から、冷たい汗が流れ落ちる。
彼はこの店を破壊し、犯人を処刑するために来たはずだった。
しかし今、彼の脳を支配しているのは「殺意」ではなく、腹の底から湧き上がる、抑えきれない「強烈な空腹感」と、「この肉を喰らわなければ発狂してしまう」という生存本能だった。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
エレインが、総帥の目の前に、取り分けた極厚のローストビーフと、銀色のフォークをそっと差し出した。
「馬鹿にするな……! 私が、このような得体の知れない女の出した物など――」
総帥は言葉を紡ぎながらも、その手はまるで自分の意志とは無関係のように、震えながら銀色のフォークを握りしめていた。
目の前で、極厚のローストビーフから赤い肉汁と黒いソースが混ざり合い、とろりと皿に滴り落ちる。
その視覚的、嗅覚的な暴力に、魔導院の最高権力者の理性が、音を立てて完全に崩壊した。
「……一、一口だけだ。一口だけ食べて、その直後に貴様を処刑してやる……ッ!」
血走った目でそう宣言し、総帥は震える手でフォークを肉に突き立て、大きく口を開けて、その極厚のローストビーフへと喰らいついた。




