第43話:エリートの秘密の晩酌と、極上チーズのブルスケッタ
やはり読みづらいとのことで行間空けるようにしました
魔導都市エテメンアンキの夜は、どこまでも冷たく、そして人工的な光に満ちている。
無数の魔導灯が規則正しく並ぶ大通りは、夜更けになっても昼間のように明るく、行き交う人々の影を鋭く石畳に焼き付けていた。
しかし、そんな喧騒から遠く離れた裏路地の最奥。
カフェ・エルの店内は、暖炉の中でポポがチロチロと揺らす、柔らかく温かいオレンジ色の光に包まれていた。
「ラム、そろそろいいかしら?」
『……フニャァン……マカセテ……カンペキナ、ジュクセイ……オワッタゾォ……』
厨房のカウンターの上には、大きなガラス製のピッチャーが置かれている。
その中には、地下庭園で採れたばかりの真っ赤なベリーや柑橘系の果実、そして爽やかなミントやローズマリーがたっぷりと漬け込まれていた。
ラムが琥珀色の光を放ちながらピッチャーの周りをぷるぷると飛び回ると、透明だった果実酒が、まるで数十年もの間、地下のワインセラーで静かに眠っていたかのような、深みのある美しいルビー色へと変化した。
『エレイン! キレエナ、アカイ、オミズ! スッゴク、イイニオイ!』
ナギが水樽から身を乗り出し、目をキラキラさせてピッチャーを覗き込む。
蓋を開けた瞬間、果実の濃厚な甘さと、ハーブの清涼感、そして熟成されたアルコールの芳醇な香りが夜の店内にふわりと広がった。
「ええ、大成功ね。自家製の『極上ハーブ・サングリア』の完成よ。……あとは、これに合うおつまみを用意して……」
カラン、コロン……。
エレインが言葉を言い終わるか終わらないかのタイミングで、重い木製の扉がゆっくりと開いた。
「……店主。いや、エレイン……。まだ、開いているだろうか……」
そこに立っていたのは、アリスターだった。
しかし、普段の隙のないエリート魔導士の姿はどこにもない。金糸の刺繍が入った純白のローブはシワだらけになり、美しく整えられていた金髪は乱れ、目の下にはくっきりとクマができている。
まるで、過酷な戦場から命からがら逃げ延びてきた敗残兵のようだった。
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「あら、アリスターさん。いらっしゃいませ。どうしたんですか、そんなにボロボロになって」
エレインが目を丸くして駆け寄ると、アリスターはふらふらとした足取りでカウンターの丸椅子にへたり込んだ。
「……上層部の、あの頭の硬い狸どもめ……。私が提出した『路地裏の違法魔力に関する長期内偵調査報告書』に対して、さらに詳細なデータを要求してきおったのだ。……カフェ・エルの存在を隠蔽しつつ、奴らが納得する完璧な偽造データを作り上げるのに、どれほどの脳細胞をすり減らしたことか……」
アリスターは深く、深い絶望のため息を吐いた。
「この三日間、宮廷料理人の作る無味乾燥な栄養食と、眠気覚ましの苦いだけのポーションで命を繋いできた。……もう限界だ。私の胃袋と精神は、至高の美味によって癒やされなければ、明日にも崩壊してしまう……ッ!」
悲痛な叫びを上げるエリート魔導士に、エレインはふにゃりと優しく微笑んだ。
「お疲れ様でした、アリスターさん。私たちのために、そんなに頑張ってくれていたんですね。……大丈夫ですよ。今日はとびきり美味しいお酒と、夜のためのおつまみを用意していますから」
エレインの言葉に、アリスターの死んだ魚のような目に、すっと光が宿った。
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エレインは早速、厨房の奥で夜の晩酌の準備に取り掛かった。
「ドラン、石窯の余熱を使わせてもらうわね」
『……ウン。……ポカポカ、アタタカイヨ』
裏庭に鎮座するドランの石窯は、昼間の熱をしっかりと内部に蓄えていた。
エレインは自家製のバゲットを少し厚めに斜め切りにし、その表面にオリーブオイルと、地下庭園で採れたばかりのニンニクをこすりつける。
「まずは、これを石窯に入れて……表面だけをカリッと香ばしく焼き上げるの」
余熱の残る石板の上にバゲットを並べる。
数分後、取り出したバゲットからは、小麦が焦げる圧倒的に香ばしい匂いと、ニンニクの食欲を刺激する香りが立ち昇っていた。
「ここに、最高のお供を乗せていくわよ」
エレインは、市場の高級店で仕入れておいた、透き通るほど薄くスライスされた極上生ハムと、白カビに覆われた濃厚なカマンベールチーズを取り出した。
熱々のバゲットの上に、大きく切ったカマンベールチーズを乗せる。
バゲットの熱と、ポポが少しだけ指先で送ってくれた優しい炎によって、チーズの表面がとろりと溶け出し、純白の雪崩のようにパンの縁からこぼれ落ちそうになる。
「チーズが溶けたら、その上に生ハムをふんわりと折りたたんで乗せて……」
薄紅色の生ハムが、とろけるチーズの熱に触れ、豚の脂がじわっと透明に透き通っていく。
さらにエレインは、その上から黄金色に輝く蜂蜜をとろりと回しかけ、最後にチャイが用意してくれた新鮮なタイムの葉をパラパラと散らした。
「よし! 仕上げに、昨日作った自家製ピクルスを添えれば……」
色鮮やかな夏野菜のピクルスを小鉢に盛り付け、エレインはカウンターで待つアリスターの前に、木のプレートと冷えたグラスをコトリと置いた。
「お待たせいたしました。カフェ・エル特製の夜のおつまみ、『とろけるチーズと生ハムのブルスケッタ』と、自家製ピクルス。……そして、ラムが熟成させた『極上ハーブ・サングリア』です」
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アリスターの目の前に広がるのは、夜の闇を打ち払うような、圧倒的なシズル感の暴力だった。
ルビー色に輝く冷たいサングリアのグラスには、水滴が美しく光っている。
ブルスケッタの上では、とろけ出したチーズと生ハムの脂が蜂蜜の黄金色と混ざり合い、タイムの爽やかな香りが疲労困憊の脳髄を直接マッサージしてくるようだった。
「……な、なんだこれは。美しい……。まるで、宝石箱のような晩酌セットではないか……」
アリスターは震える手でサングリアのグラスを持ち上げ、ゴクリと喉を鳴らした。
「――――ッッ!!」
一口飲んだ瞬間、アリスターの全身を電撃のような快感が突き抜けた。
冷たい。
しかし、その冷たさの奥から、数十年熟成された最高級ワインの深いコクと、新鮮なベリーの甘酸っぱさが津波のように押し寄せてきた。
ラムの魔法によってアルコールの刺激は完全に丸くなっており、喉越しはどこまでも滑らか。飲み込んだ後、ミントとローズマリーの清涼感が鼻腔を心地よく抜け、一日のストレスを文字通り洗い流してしまった。
「う、美味ぇぇぇぇッ!! 魔導院の式典で出される年代物のワインが、泥水に思えるほどの芳醇さだぞ!!」
アリスターは感涙にむせびながら、今度はブルスケッタを両手で持ち上げ、大きくかぶりついた。
サクッ……!!
ドランの石窯で焼かれたバゲットが、軽快で小気味良い音を立てて砕ける。
その直後。
「はふっ……!? あぁぁっ……!!」
熱々とろとろのカマンベールチーズが、口の中いっぱいに溢れ出した。
濃厚なミルクのコクと強烈な旨味。そこへ、生ハムの暴力的なまでの塩気と豚の脂が絡み合う。
普通なら塩辛すぎるところだが、上からかけられた蜂蜜の甘みがその塩気を完璧に包み込み、塩気と甘みの無限ループという悪魔的なマリアージュを完成させていた。
タイムの香りが脂っこさをリセットし、ニンニクの風味が次の一口を強烈に要求してくる。
「あぁ……っ、美味い……ッ! サクサクのパンに、とろけるチーズの熱、生ハムの塩気、そして蜂蜜の甘さ! これらを一緒に噛み締め、冷たいサングリアで一気に流し込む……ッ! これが、これが大人の真の休息というものかァァッ!!」
エリート魔導士の面影など微塵もなく、アリスターは口の周りをチーズと蜂蜜でベタベタにしながら、泣きながらブルスケッタを貪り、酒を煽った。
濃厚な味に舌が慣れてきた頃合いで、自家製ピクルスをかじる。
ポリッ、という瑞々しい音と共に、野菜の甘みと爽やかなお酢の酸味が口内を完璧にリセットし、再びブルスケッタとサングリアへの欲望を限界まで高めてしまうのだ。
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『ガウッ!! オイ、ニンゲン! お前一人でその美味そうな肉とドロドロを独占する気か! 俺の分も寄越せ!』
特等席で寝ていたはずのギルが、強烈な匂いに目を覚まし、カウンターに身を乗り出してヨダレを垂らしていた。
『エヘヘッ! アリスター、スッゴク、オイシソウニ、タベルネ!』
『……フニャァン……ワタシノ、オサケ……サイコォ……』
『キュルルッ! タイムノカオリ、バッチリ!』
ナギやラムたちも、夜更かしのお茶会に大はしゃぎで集まってきた。
「ふふっ。ギルたちにも、特別に夜食のブルスケッタを作ってあげるわね」
エレインはクスクスと笑いながら、追加のバゲットを石窯に並べた。
『……お嬢様。このような素晴らしい夜には、それに相応しいBGMと幻影が必要でしょう』
アッサムが、温かいハーブティーの湯気を揺らした。
湯気の中に映し出されたのは、かつてこの都市がまだ優しかった頃、精霊たちが星空の下で焚き火を囲み、陽気に踊る記憶の幻影だった。
どこからか、古い楽器の穏やかな音色が聴こえてくるような気がする。
「……はぁぁ……。生きてて、よかった……。私の苦労は、この一杯のためにあったのだ……」
サングリアのピッチャーを半分以上空け、ブルスケッタを四枚平らげたアリスターは、すっかり出来上がった様子でカウンターに突っ伏しながらへらへらと笑っていた。
彼のエリートとしての重圧も、上層部への不満も、この小さなカフェの温かい空気と極上の食事の前に、すべて綺麗に溶けて消え去っていた。
「お疲れ様でした、アリスターさん。いつでも、ここへ逃げてきてくださいね」
エレインは、ソラが少しだけ暗く落としてくれた照明の下で、自分用のハーブティーを一口飲み、その多幸感にふにゃりと目を細めた。
夜のカフェ・エル。
暖炉の火が優しく揺れ、精霊たちの楽しそうな声と、エリート魔導士の安らかな寝息が交差する。
冷たい魔導都市の片隅で、氷の令嬢と呼ばれた少女の紡ぐスローライフは、極上の酒と夜のおつまみの香りに包まれながら、どこまでも深く、穏やかに夜の帳を下ろしていくのであった。




