脱出一日目・午後その一 反省とその後
横浜、品川と有名な土地を経て、とうとう東京にたどり着いた。以前に新幹線で来たことはあったが、在来線で来るのはさすがに初めてだ。
さすがは首都。人も多い。そのほとんどが、私が今初めて目にし、そして二度と出会わない人々だ。
そう考えると、日本という国はつくづく広いと思える。私はホームから出られず、しばらくベンチに座り、来ては行く列車群を眺めていた。
周りは慌ただしく動いてばかりいるのに、私の座るこのベンチだけは時間が止まったかのように、はたまた一九六〇年代のモノクロ映像見たく色を失ったかのような状態になっている。この足の先は、どうも自分がいていい世界ではないような気がしてきた。
…私、何をしたかったんだろう…。ここに来て、ようやく後悔がこみ上げてきた。いくらひどい人間だとはいえ、母であるのことには変わりないのに…。
そのまま、私は二時間ほどその場で考えていた。今すぐ帰るべきなのか…。それともこの無謀な旅を続けるべきなのか…。
…しかし、私は当初の目的を思い出した。やはり、普段きつくあたる母を、私は許せなかったのだ。本当に幼稚な考えだったが、私は旅を続けることにしたのだ。
私はホームから降りて、伊東までの切符を買った。
一度、温泉でこの気持ちを忘れたかったからだ。熱海と迷ったが、行ったことのない伊東温泉に、私は惹かれた。
例に漏れず在来線の旅だが、時間はいくらでもある。
のんびりと行こう。
そうして、行きと同じようにE231系の小田原行に乗り込んだのだが、ここで少し面倒なことに巻き込まれた。
多くの人が私と一緒に乗り込んできたのだが、その中に一人、なぜかいろんな人の顔をかわるがわる覗き込みまくるオッサンがいた。当然、私のところにも来た。私は怖くなって、とっさにスマホを取り出した。知らないふりをするのもそうだが、いざという時のために外部と連絡を取るためだ。
まあ、人も結構乗っているので、大丈夫だとは思うのだが…。
私の想像していた万が一は、杞憂で終わった。そのオッサンは、横浜で降りて行った。
「ふう…。本当、何だったんだあの人…。」
不安要素が取り除かれて、力が抜けてきた。私は、できた空席に座った。
周りを見渡してみると、やはりというべきか、外国人が多数だ。
その後も、列車は多くの駅に停車していった。
小田原に着いたのは、十四時だった。普通の旅行だったら小田原城を拝んでいたのだが、あいにくと、熱海行きの列車が三分後に来る。駅を出るわけにはいかないのだ。
「…あ、お昼ご飯食べてないじゃん。今食べちゃお。」
私は、熱海で買ってきたおにぎりの封を開けた。量は少ないが、今はこれくらいしか買えないのが実情…。…いや、本当は買えるのだが、どこまで行くことになるのかわからないので、今はため込みたいわけだ。
「…やっぱり、魚食べたかったな…。」
…少しは後悔はある。だが、後戻りはできない。私は、やってきた列車に乗り込み、熱海まで揺られることにした。
熱海に着いたのは、そこから三十分後であった。私は、ダメ元でもう一度みどりの窓口へ向かった。もしかしたら、サンライズの空席があるのかもしれない。そして、駅員に聞くその時には、少し聞き方を変えてみた。
「すみません、サンライズ号で岡山まで行きたいんですが、空席はありますか?」
「サンライズ号の岡山までですね。瀬戸、出雲の指定とかは…。」
「ないです。」
「かしこまりました。…出雲のほうに、ソロの空席がありますが…。」
ソロ…。サンライズ号では二番目グレードの低い席だ。とはいえ、個室だし、最低限の睡眠も取れる。値段も安い。
「その部屋、予約します。」
「承知いたしました。」
私は、二万円余りを払って、今日の宿を確保した。
…あっさりと切符を取れてしまったことに、今だに実感がわかない。
「…本当に、これサンライズの切符だよね…。」
横長の切符には、"サンライズ出雲号B寝台ソロ"と、しっかり記載されている。やはり、今日の宿はしっかり取れていた。
とはいえ、これで一番の不穏要素は解消した。あとは温泉につかって心を癒やし、ここにまた戻ってくればいい。
私は、自動券売機で伊東までの往復切符を買い、一番線にのぼった。
「…やった!!リゾート二十一だ!!」
そこには、真っ黒な車両が停まっていた。伊豆急行の、二一〇〇系リゾート二十一である。黒船をイメージした塗装になっており、明らかに追加料金が必要な雰囲気を醸し出しているが、普通列車である。つまり、追加料金は不要。本数が少ない伊東線・伊豆急行線においては救世主である。ちなみに、伊東線はJR東日本の運行であるが、ほとんど伊豆急行による運転が行われている。
私が乗り込むと、程なくして列車は発車した。
たった数駅しか経由せずに伊東に着けるので、温泉好きにはありがたいだろう。
ーーまもなく、伊東、伊東です。ーー
アナウンスがかかった。降りる準備をしよう。
伊東駅はJR伊東線と伊豆急行線の境目である。なかなか趣がある駅舎なので、私は結構好きだ。
私は駅から歩いてすぐの源泉かけ流しの銭湯に立ち寄った。こちらもまた趣がある建物で、昭和レトロな雰囲気が漂っている。
さすがにここで性別を偽ることなどできるわけがないので、おとなしく女湯に入る。
愛知からは結構距離があるし、そもそも昼間なので、そんなに気にすることでもない気がしてきた。
しっかり体も洗い、浴槽に入る。お客は私と中年程度に見えるおばさんぐらいで、かなり広々とした空間でくつろぐことができた。
しばらくすると、そのおばさんが声をかけてきた。
「お嬢さん、一人旅かい?」
「ええ、まあ。心の慰安旅行と言いますか…。」
「なんか嫌なことでもあったのかい。」
「そうなんですよ…。ちょっと親族とのいざこざがありまして…。」
「あるあるだね。あんまり心配させちゃいけないよ。行動するにあたって意外なことが起こるかもしれないけど、それを意外な方法で解決することもできるからね。」
「はい。ありがとうございました。」
そのおばさんが上がった後も、私はしばらく温泉につかり、問題解決のことを考えていた。
銭湯をでて、駅のほうに戻ってきたはいいものの、乗る予定の列車はまだ来ていない。
しかたなくホーム上にあるベンチで待つことにした。
…それにしても風が強いな…。雨も少し降っているので、あまり快適とは言えない。
少し待つと、伊東線ではよく見るステンレスに青い帯が描かれた列車がやってきた。伊豆急行の八○○○系である。すぐに乗り込んだ。
時刻は、すでに十八時になっていた。熱海に着いたら、ちょっと籾治に連絡してみようかな…。
そう考えている間も、列車は伊豆半島を北上してゆく。
遠くを見ていると、雲の間からかすかに見える空は赤く染まり始めており、山の方にはホテルや店の明かりが灯り始めた。ここから温泉街が活発になっていくのを感じられる。雨天でも関係はないのだろう。
ちょうど網代駅を発車したところか、車窓には海が広がっている。東側なので夕日は見えないが、遠くから反射して水面が綺麗に光っている。ギリギリ太陽は顔を出しているようだ。
その景色を見ていると、曇り空なのに心が洗われるような感覚に陥る。何も考えていないでいると、涙が出そうになる。
「…やっぱり、疲れてたんだね…。」
誰に対して放った言葉かはわからなかった。ポロッと出てしまった言葉だ。しかし、それは私の心境を私に知らせる足がかりになったのは確かだ。
ーーまもなく、熱海、熱海です。ーー
機械仕掛けのアナウンスが鳴り響き、ようやく我に返った。八○○○系の轟音モーターが、急に耳に入ってきた。私はすぐさま降りる準備をして、ドアの前に立った。すぐに熱海駅の一番線ホームに入線して、ドアが開いた。
「うわッ」
伊東にいた時よりも風が強くなっている。ちょっとでも油断すると簡単に飛ばされそうだ。さすが海が見える町。
このままいると飛ばされそうなので、私はすぐさまホームに降り、改札を出たあと、今度は寝台特急サンライズ用の切符で入場した。乗車券には熱海→岡山としっかり書いてあり、寝台券には、やはりサンライズ出雲号B寝台ソロと書いてある。
「…なんか有人改札が騒がしいなあ…。」
今は帰宅ラッシュの時間ではあるのだが、それでも明らかに人が集まりすぎている。…これは、何かあるな…。
すると、駅構内の放送がかかった。…のだが、あまりにも周りがうるさいので、しっかり聞き取ることができなかった。私は新幹線のホームのほうに移動して、繰り返される放送を聞こうとした。
ーー繰り返し、ご案内いたします。強風の影響により、東海道線"熱海↔沼津"間にて運転を見合わせております。なお、現在、運転再開のめどは立っておりません。ご迷惑をおかけし、大変、申し訳ございません。なお、東海道新幹線は、平常通り運転をしております。繰り返します、ーー
………え……?




