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後日談4 おやすみ

 やけに静かな病院の廊下。


 長椅子に腰かけた凪原透は、もう何度目になるかわからない深呼吸を、また一つ繰り返した。


 壁の時計の針が進む音が、いやに大きく聞こえる。等間隔に並んだ蛍光灯。消毒液の匂い。時折、看護師が忙しなく行き交うほかは、人の気配も少ない。


 その閉ざされた扉の向こうで今、日和が頑張っている。


 ――落ち着け。


 自分にそう言い聞かせてみるが、あまり効き目はなかった。膝の上で組んだ指に、知らないうちに力が入っている。


 おかしな話だった。


 未知のダンジョンの最奥へ単身で踏み込むときも、海の向こうの危険の多い現場へ救援に向かったときにも、ここまで落ち着かない気分になったことはなかった。世界規模の緊急事態でさえ、いざとなれば「やるだけだ」と腹をくくれた。


 自分には、やれることがあったからだ。だけど今は、何もできない。ただ、無事を祈って待つことしかできない。


 ――情けないな。


 そんな自嘲が浮かんで、けれどそれを苦笑に変えるだけの余裕も、今の透にはなかった。


 どれだけそうしていただろう。


 ふいに、扉の向こうの空気が変わった気がした。張り詰めていたものが、ほどけるような前兆を察知した。透は、いつの間にか腰を浮かせていた。


 そして――小さな、けれど確かな産声が扉越しに響いた。


 その泣き声が耳に届いたとき、透の息が止まった。そして、ゆっくりと肺の底から空気が抜けていく。膝の力が、抜けそうになる。


 しばらくして扉が開き、医師が顔を出した。透の顔を見て、にっこりと笑う。


「おめでとうございます。元気な女の子ですよ。お母さんも、赤ちゃんも、お元気です」


「……っ、はい。ありがとうございます」


 声が、わずかに掠れた。母子ともに健康。


 その一言を、透は何度も心の中で繰り返した。張り詰めていた不安が、ようやく消えていく。体の芯から力が抜けて、自然と頬が緩んだ。


 医師に促されて、透は分娩室へ足を踏み入れる。


 ベッドの上に日和がいた。


 髪は乱れ、額には汗が滲んで、見るからに疲れ切っている。ダンジョン攻略でも訓練でも、ここまで消耗した日和を見たことはなかった。出産とは、それほどの大仕事なのだろう。けれど、透がそばまで来ると日和はこちらを見上げて、ふっと笑った。


「透さん」


 その声は、くたくたなはずなのに、不思議と透き通って晴れやかだった。


「……日和」


 透は、ベッドの脇に膝をついた。何か気の利いた言葉を探そうとして、けれど見つからなかった。飾った言葉なんて、今の透には何一つ浮かんでこない。


「ありがとう。本当に、ありがとう」


 そして出てきたのは、ただそれだけだった。


 飾り気のない、不器用な礼の言葉。けれど、これ以上の言葉を透は知らなかった。この大仕事をやり遂げた日和に、今の自分が伝えたいことは、これだけだった。


「ふふ……大げさですよ」


 日和は、汗の滲んだ顔で嬉しそうに笑った。やり遂げた者が浮かべる、満ち足りた笑みだった。


「私たちの子が、ちゃんと生まれてきてくれました」


「ああ」


 透は頷いて、それから日和の腕の中へ目を向けた。


 小さな布にくるまれて、その子がいた。


 驚くほど、小さい。透の片腕にも収まってしまいそうなほどの、頼りない大きさ。顔は赤くて、くしゃくしゃで、ぎゅっと目を閉じている。さっきまで力いっぱい泣いていたのが、疲れたのか静かにしていた。


 ――これが。


 言葉にならなかった。


 透は、ただそれを見つめた。胸の底が、じんと熱くなって、何かがあふれそうになる。まだ、こんな初めて味わうような感情があったのかと、三十年以上も生きてきて知った気がした。


「抱いてみますか?」


 医師に促されて、透は思わず身を引いた。


「……いや、その。落としたら」


「落としませんよ、透さんが」


 日和が、おかしそうに目を細める。


 それはそうだ。ダンジョンで、巨大なモンスターを何体も捌いてきた、この手だ。赤ん坊一人、落とすはずがない。理屈では、わかっている。


 わかっているのに――この、小さくて柔らかいものを前にすると、自分の手が、ひどく頼りなく思えてくるのだから妙なものだった。規格外の握力も、繊細な剣捌きも、こういうときは何の自信にもならない。


 おそるおそる、透は両腕を差し出した。


 日和が、そっと我が子を預けてくる。腕の中に、ほんのりとした重みと温もりが伝わってきた。


 軽い。けれど、確かにある。命の重さだ。


 赤ん坊は、透の腕の中で、小さく身じろぎした。それだけで、透の心臓が跳ねる。落とさないように、けれど力を入れすぎないように――その加減が、まるでわからない。世界最高峰のダンジョンの攻略よりも、よほど難しい。


「……ちゃんと、抱けてるか?」


「上手ですよ。ほら、気持ちよさそう」


 言われて見れば確かに赤ん坊は、安心したように眠っている。小さな胸が規則正しく上下していた。


 透は、その寝顔を、いつまでも見ていた。


「名前、決めてましたよね」


 ふと、日和が言った。


「ああ」


 二人の間では、もう決まっていた。生まれてくる子が女の子だったら、こう名づけようと。


はる。晴れた空の、晴」


 透が口にすると、日和は満足そうに頷いた。


「いい名前です。透さんの『澄んだ』と、私の『良い天気』の、子ですもんね」


「ああ。……澄んだ空に、良い天気だ」


 透の名と、日和の名。その二つから、自然と導かれた名前だった。深く考えて捻り出したわけではない。ただ、そうあってほしいと願ったら、するりと出てきた。雲一つない、晴れた空のように――穏やかであれと。


「晴」


 もう一度、透はその名を呼んでみる。


 腕の中の小さな命は、何も応えない。ただ、すうすうと、穏やかな寝息を立てているだけだった。


 その寝顔を見つめながら、透は、満たされた心地で思う。


 長いこと、一人だと思って生きてきた。それが、いつの間にか二人になって。そして今日、三人になった。


 ――こんな日が、来るとはな。


 窓の外では、よく晴れた空が広がっていた。



***



 その後すぐ両親と、日和の母親に無事に出産を終えたことを報告した。その日の、夜更けのことだった。


 病室には、常夜灯のささやかな明かりだけが灯っていた。


 日和は、疲れ果てて眠っている。透は、彼女を起こさないよう気を配って、足音を忍ばせて病室を出た。廊下の先にある新生児室で、いくつか並んだ小さな揺りかごの一つを、静かに覗き込む。


 晴は眠っていた。


 すうすうと穏やかな寝息を立てている。時折、何かを掴むように小さな手が動いて、また力を抜く。


 その寝顔を、透はいつまでも見ていられた。


 満たされた時間だった。


 ――ただ、穏やかに眠っているだけなら。


 それなら、どんなにいいだろう。


 ふと胸に差した思いに透は、自分でも気づかぬうちに眉を寄せていた。


 こんなにも幸せなはずなのに、どうしても消えない不安が一つだけあった。今日、晴の寝顔を初めて見たときから、ずっと頭の片隅にあるものだ。


 ――もし、この子に。


 俺の能力が遺伝していたら。


 透は眠るたびに、別の世界へ連れて行かれる。比喩ではない。


 眠りに落ちると、意識だけが、見も知らぬ別世界のダンジョンへと招かれる。文字通り、招かれるのだ。本人の意思とは、まるで無関係に。行きたいと思ったことも、行かずに済んだ夜も、ただの一度もない。拒むことはできない。眠れば、必ず連れて行かれる。


 そのダンジョンから帰還する方法は、透が確認している限り三つ。


 ダンジョンの最奥にある目標地点まで、たどり着くこと。あるいは、道中で運良く入手できた特殊なアイテムを使って脱出すること。さもなければ――そこで死んで、元の世界へ戻るしかない。


 死んでも現実に戻れるのだから、命を落とす心配はない。理屈の上では、そうだ。けれど、たとえ戻ってこられるとしても、その一度一度に背負わされる痛みや恐怖が消えてなくなるわけではない。その精神的な負担は計り知れない。


 そして――この現象は、透が物心ついたときには、もうすでに始まっていた。


 赤ん坊の頃の記憶など、透にはない。けれど、これまでを振り返ってみれば、思い当たることはいくつもあった。おそらく、自分は生まれたその時から、あの世界へと招かれていた。今に至るまで、ずっと。一晩の例外もなく。


 だから――恐れた。


 もし、この能力が娘の晴にも受け継がれていたとしたら。


 今、こうして。


 目の前で何の憂いもなさそうに、穏やかに眠っているように見えるこの小さな子が。その瞼の裏では、たった一人、あの冷たい世界に放り込まれているのかもしれない。誰の助けもないままモンスターに襲われ、傷つき――たった一人で、死んでいるのかもしれない。


 今、この瞬間に。


 背筋が、ひやりとした。


 透は、思わず揺りかごへ手を伸ばしかけて――けれど、できることなど何もないことに気づいて、その手を止めた。


 生まれたときからずっと、自分は一人で、あの世界を渡ってきた。誰にも言わず、誰にも分かってもらえず。それが当たり前だと思っていたし、自分はそれでいいと、本気で思っていた。


 今はもう、あの世界と折り合いをつけている。日和と出会い、この力ごと生きていくと決めた。


 ――けれど、この子には。


 まだ生まれたばかりの、こんなにも小さなこの子には、あんな場所を、たった一人で過ごさせたくない。


 透は眠る晴の寝顔を、もう一度じっと見つめた。


 願うことは、ただ一つだった。


 晴。お前は、ただ穏やかに眠っているだけであってくれ。


 眠るということが、どういうことになり得るのか。それを誰よりも知り尽くしている透だからこそ、その願いは痛いほど切実だった。


 常夜灯の淡い光の中で、晴の寝息は変わらず穏やかに続いていた。



***



 出産から退院までの数日を、母子は病院で過ごすことになった。


 その間、看護師が定期的に新生児室で晴の様子を確かめていく。体温、体重、肌色の変化、母乳の飲み具合など。何か気がかりがあればすぐに確認できるし、機械が小さな異常も拾ってくれる。


 普通の親であれば、これ以上の安心はないだろう。医師がいて、看護師がいて、設備が整っている。この数日は、生まれたばかりの命をいちばん安全に見守れる場所のはずだった。


 けれど透の抱える不安は、その安心の、ちょうど外側にあった。


 透が恐れているのは、病気ではない。


 熱を出せば医師が診てくれる。どこか具合が悪ければ、検査の数値が示してくれる。そういう類のものなら、どれほど心強かっただろう。だが透が案じているのは、どんな精密な検査にも映らないものだった。


 医師や看護師に、相談する? ――できるはずもなかった。


 娘が眠っているあいだ、別の世界のダンジョンへ連れて行かれているかもしれないんです。


 そう打ち明けたところで、正気を疑われ、別の科を勧められるのが落ちだ。それに――幼い頃に負った医師への不信は、日和と出会って薄れたはずなのに、今もまだ、胸の隅にわずかに残っている。だから、簡単には頼れなかった。


 そして、性質が悪いことに。


 もしも自分と同じ能力が発現していたとして、それに気づけるのは、この世でただ一人、同じものを抱える自分くらいだろう。


 透の気配を察知する能力は人並み外れている。並みの探索士には気づくことのできない遠方の脅威も、息を潜めた相手の位置も、難なく察知できる。けれど、その規格外の感覚をもってしても――目の前で眠る我が子の意識が「今どこにあるのか」までは掴めなかった。穏やかな寝息の向こう側だけは、透の感覚も届かない。


 おまけに赤ん坊というのは、とにかくよく眠る。一日の大半を眠って過ごす。


 ただ気持ちよさそうに寝ているだけなのか。それとも、その裏であの世界を渡っているのか。見分ける手がかりがない。あの世界のダンジョンと現実とでは時間の流れが違うし、眠っている時間など参考にはならない。


 そして――もし、あの世界で死んで戻ってきたとしても。


 透自身がそうだったように、戻ってくることはできる。外傷一つ残らない。痕跡が、どこにもないのだ。だから、確かめようがない。


 気配を消した透は、揺りかごの中の小さな我が子の寝顔を見下ろした。


 人類最強だの、測定不能だのと呼ばれてきた。実際、これまで透の前に立ちはだかって、越えられなかった脅威など一つもなかった。剣を振るい、敵を倒せば、たいていのものは片がついた。


 なのに今は、どうだ。


 自分のいちばん大切な、この小さな娘に、今この瞬間、何が起きているのか。それすら、確かめる術がない。守ってやりたいのに、守る方法がわからない。立ち向かう相手すら見えない。とにかく注意深く、晴の様子を観察し続けるしかない。


 ――まったく。


 世界中のダンジョンを相手にしてきた男が、揺りかご一つの前で、こうも手も足も出ないとはな。


 こうして透と、別世界のダンジョンのことを透から聞いていた日和も、入院中は、晴の様子を注意深く見守り続けた。眠っているとき、起きているとき。泣き方、手足の動き、目の動き。ほんの些細な変化も見逃さないように。


 だが、どれだけ見つめても、得られるのは確かな答えではなかった。


 残るのは、ただ――拭いきれない不安だけだった。



***



 数日が過ぎ、母子ともに問題なしと判断されて退院の日を迎えた。


 自宅に帰ってきた透と日和。そして、初めての晴。玄関を、今日は三人でくぐる。


 自分たちの帰る場所に、新しい家族が増えたな。我が家に晴を抱いて入りながら、透は、そう思った。


 そうして迎えた、晴が初めて自宅で眠る夜。


 やはり透は、なかなか寝つけなかった。


 透たちが眠るベッドの横に置かれた、ベビーベッド。その中で、晴は小さな寝息を立てている。透は布団の中から幾度も身を起こしては、そっとベッドを覗き込んだ。


 呼吸は、ちゃんとしているか。苦しそうにしていないか。どこか、いつもとは違う様子はないか。――そして。自分と同じものが起きてはいないか。


 何度覗き込んだところで、わかることはない。晴はただ、穏やかに眠っているだけだ。それが普通の眠りなのか、そうでないのか――それを見分ける術が、相変わらずどこにもなかった。


 それでも透は、見ているのをやめられなかった。


 たとえ見ていたところで何が分かるわけでもないと、頭ではわかっている。それでも――ほんの少し目を離した隙に、この子に何かあったらと思うと、どうしても瞼を閉じる気になれなかった。


 夜の闇の中、透はベビーベッドの傍らに座り込んで、ただじっと、娘の寝顔を見守り続けた。世界中のどんな脅威の前でも揺らがなかった男が、今は、小さな寝息ひとつに、神経のすべてを傾けている。


「透さん」


 ふと、背後から囁くような声がした。


 いつの間にか、日和も起きていた。同じように眠れず、晴を気にかけていたのだろう。ベッドから体を起こして、一緒に寝顔を覗き込む。それから透の顔を見て、小さく言った。


「少しだけでも、休んでくださいね。今は、私が見ていますから」


 無理に寝かせようとするのでも、不安を急かすのでもない。ただ、交代で見ればいい、というその一言に、肩の力が少しだけ抜けた。一人で見張っているわけではないのだと、改めて思い出させてくれる。


「……ああ。ありがとう」


 そうして、二人で代わる代わる晴を見守りながら、長い夜は、ゆっくりと更けていった。


 やがて――朝が来た。


 窓の外が白み始めた頃、晴が、ぐずるように声を上げた。


 みるみる顔を赤くして、力いっぱい泣き始める。腹が空いたのだ。日和が母乳を与えると、晴は夢中になって飲み、満たされるとまた、うとうとと眠りに落ちていった。


 泣いて、飲んで、また眠る。


 それだけの、ごくありふれた赤ん坊の朝だった。


 その当たり前の光景を見て、透は、ようやく胸を撫で下ろした。


 少なくとも、今のところ晴の反応は普通だ。兆候は見当たらない。


 普通に眠って、ちゃんと目を覚ましてくれた。何事もなく、朝を迎えた。それだけのことが――今の透には、何より尊いものに思えた。


 もちろん、一晩無事だったからといって、明日も無事とは限らない。安心しきってしまうには、まだ早すぎる。透の不安は、完全に消えたわけではなかった。


 それでも。


 眠る晴の、規則正しい寝息を聞きながら、透は心の中で、そっと語りかけた。


 ――おやすみ、晴。


 どうか、ただ穏やかに。そのまま、ゆっくりお休み。


 眠るということが、どんな意味を持ち得るのかを知る父の、これは精一杯の祈りだった。朝の淡い光の中で、晴は、何も知らずに、安らかに眠っていた。



***



 それから、ひと月ほどの間。


 透と日和は、晴を注意深く見守り続けた。


 日中の機嫌や、物音への反応。目で何かを追う仕草。小さな手足が、どんなふうに動くか。そして何より――眠っているときの様子を。とりわけ夜は、二人とも神経を尖らせた。穏やかに見える寝顔に、苦痛や怯えの兆しが、ほんのわずかでも滲んでいないか。


 大げさかもしれない、と思うこともあった。けれど、やめる気にはなれなかった。どんな些細な変化も見逃すまいと、二人は毎日、ただ根気よく晴を見つめ続けた。


 透には、一つの見込みがあった。


 もし、あの能力が晴に受け継がれているなら。あれほど過酷な世界へ、毎晩のように放り込まれていれば――その負担が、いつまでも表に出ないはずがない。


 眠りを恐れるようになるとか、わけもなく怯えるとか、説明のつかない異様な反応とか。ひと月もあれば、どこかに、何かしらの兆候が現れるはずだ。少なくとも透はそう睨んでいた。誰よりもあの世界を知る、自分の経験から導いた推測だった。


 そうして――ひと月が経った。


 結論から言えば。


 晴に、能力が遺伝している兆候は一切見られなかった。


 晴は、毎晩穏やかに眠った。たっぷり眠っては機嫌よく目を覚まし、よく飲み、よく泣き、ときどき夜泣きで二人を起こしながらも、すくすくと育っていった。


 怯えも、異変も、どこにもない。ただ健やかな、ごく普通の赤ん坊として、日々を過ごしている。


 その「普通であること」こそが――透たちが求めていた最良の答えだった。


 何の異常もないこと。取り立てて語ることが、何もないこと。それが、確かめる術を持たない二人にとって、これ以上ない安心の証になる。


 ある晩、二人で晴の寝顔を覗き込みながら、日和がぽつりと言った。


「……大丈夫そう、ですね」


 声に、長く張り詰めていたものが、ほどけるような響きがあった。


「ああ」


 透は頷いて、眠る娘を見つめたまま、続けた。


「少なくとも、今はな」


 もちろん、これですべて安心、というわけではない。先のことは、誰にも分からない。今は何ともなくても、もっと大きくなってから、ふいに発現する――その可能性まで、完全に消えたわけではないのだ。


 それでも。


 今この子は、ただ眠っているだけだ。何にも脅かされず、ただ安らかに。


 今そう言えることが、どれほどありがたいか。


「……はい。きっと、大丈夫」


 日和も、噛みしめるように言った。その横顔から、ここしばらく抜けなかった硬さが、ようやく和らいでいる。


 長く張り詰めていた緊張が、二人の間で少しずつ薄れていった。


 不安が、まるごと消えたわけではない。けれど、ひとまず肩の力を抜いてもいい。透は、ひと月ぶりに、そんなふうに思うことができた。


 眠る晴の寝息は今夜も、ただ穏やかだった。



***



 長く胸を占めていた不安が、ひとまず落ち着いてからの暮らしは、一言でいえば、賑やかになった。


 晴は、よく泣き、よく飲み、よく眠る。夜中だろうと容赦なく泣くし、おむつは取り替えても取り替えてもきりがない。生まれたばかりの命が一つ増えただけで、家の中はてんてこ舞いだ。世の新米の親たちが、揃って寝不足でふらふらになるという話は、よく聞く。


 もっとも、透たちのその乗り切り方は、世間一般とは、いささか勝手が違っていた。


 引っ越しの際、透が前のアパートから移してきた秘密の訓練場。異空間にあるその場所は、現実とは時間の流れがまるで違う。外の世界と、およそ千倍ほどの差。中で一日を過ごしても、こちらでは、ほんの一分ほどしか経っていない計算になる。


 日和との修行に使ってきたその場所が今は、思いがけず別の用途で活躍していた。育児の合間の、透と日和の休息所として。


「透さん、これから休ませてもらいますね」


「ああ。こっちは見てるから、ゆっくりしてくるといい」


 透が晴を抱いている間に日和が訓練場へ入って、たっぷり睡眠を取り、身体を休めてくる。十分に休めたら、戻ってきて交代する。あるいは逆に日和が晴を見て、透が訓練場で羽を伸ばす。


 外ではわずかな時間しか経過しなくても、中ではいくらでも休める。夜泣きで何度も叩き起こされ、授乳で睡眠を細切れにされるこの時期でも、しっかりと休息を確保できてしまう。


 訓練場で長く過ごせば、その分だけ寿命を縮めてしまうのだが、ダンジョン産の薬で帳消しにできる。寿命そのものを延ばす効果を持つ一品で、訓練場で費やした時間のぶんを取り戻してくれる。だから、いくら休んでも寿命を削る心配はない。我ながら、つくづく規格外な環境だと思う。


 ――冷静に考えると、これはなかなかズルいな。


 晴をあやしながら、透は内心でひとりごちる。


 世の親たちが、目の下に隈をこしらえて必死に踏ん張っている時期を、自分たちは、こんな反則じみた手立てで悠々と乗り切っている。同じ子育てでも、難易度がまるで違う。罪悪感が、まったくないと言えば嘘になる。


 だが――まあ、いい。


 使えるものは、使う。家族のためなら、なおさらだ。せっかく手元にあるものを、意地を張って使わない理由もない。透は、そう割り切ることにしていた。


 探索士としての仕事も続けている。政府窓口の渡辺と相談しながら、無理のない範囲で受ける依頼を調整している。透ばかりが家にいるわけでも、日和ばかりが晴を見るわけでもない。


 手の空いたほうが晴を見て、もう一方が仕事や用事を片付ける。子育ては、二人で等しく担うもの。それが、透たちの当たり前だった。


 ただ。


 この、何かと便利な訓練場について透と日和の間には、一つだけ、絶対に破らないと決めた約束があった。


 ――晴は、訓練場へ連れて行かない。


 理由は単純だ。あの場所は、時間の流れが千倍も速い。そんなところへ赤ん坊を連れて行けば、晴はあっという間に育ってしまう。生まれたばかりのこの子の時間を、こちらの都合で勝手に早送りするなど、あっていいはずがなかった。


 かといって、訓練場で過ぎてしまった時間を、あの寿命を延ばす薬で補えばいいという話でもない。生まれて間もない体にそんな薬を使うのは、あまりに危険だ。何が起きるか、見当もつかない。


 いずれ、もっと晴が大きくなってから、本人がそれを望むようになったなら――そのときは、修行の場に招く日も来るかもしれない。だが、それは、ずっと先の話だ。


 今はまだ、その時ではない。どれだけ便利でも、晴を訓練場へ入れることだけは、透も日和も絶対にしなかった。


「晴は、ゆっくり育てばいいんだ」


 腕の中の娘へ、透はそっと囁いた。


 急ぐ必要など、どこにもない。この子には、この子のペースで、当たり前の毎日を過ごしていってほしい。透たちが願うのは、ただそれだけだった。



***



 ダンジョンで手に入れた、規格外のあれこれ。その恩恵に存分に与りながら、透と日和は晴とともに、穏やかな日々を重ねていった。


 晴は、すくすくと育っている。日ごとにできることが増えて、表情もずいぶん豊かになってきた。相変わらず、よく泣くし、夜中に叩き起こされるのも変わらない。けれど、その一つ一つがいとおしかった。


 ある晩のことだった。


 寝かしつけた晴の、穏やかな寝顔を二人で覗き込んでいると日和がふいに、笑みを浮かべながら言った。


「これなら、もう一人増えても大丈夫そうですね」


 透は、思わず苦笑した。


「気が早いな」


 一人目が生まれて、まだいくらも経っていないというのに。その横顔は、けれど冗談だけで言っているふうでもなかった。


 二人での育児は思っていたよりずっと、うまく回っている。あの能力の遺伝の不安も、ひとまずは乗り越えた。


 だからこその、前を向いた一言なのだろう。


 もっとも――その気の早さを、悪くないと思っている自分も確かにいた。


 三人家族になったばかりだというのに。二人の目には、もう、四人で過ごす日々が見え始めている。


「……まあ、そのときは、そのときだな」


 透がそう返すと、日和はおかしそうに、もう一度笑った。


 これから先、この家では、毎晩きっと、あの言葉が交わされていくのだろう。


 おやすみ、と。


 穏やかな眠りを願う、ただそれだけの、優しい一言を。


 透は、眠る晴の額を、指の背でそっと撫でた。


 ――おやすみ。


 今夜も、どうか安らかに。


 窓の外には、静かな夜空が広がっている。明日もきっと、いい天気になる。そんな気がした。




***



 ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


 後日談4を書き終えたことで、この作品で書きたかったことは一通り描き切ることができました。


 そのため、本作の更新は今回で一区切りとなります。続きを期待してくださる方には申し訳ありませんが、今のところ新たな更新予定はありません。


 最後まで透たちの物語を見届けてくださり、ありがとうございました。


 また別の作品も更新しておりますので、もしよろしければ、そちらも読んでいただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
うわっ、泣きそう 結局透の異空間ダンジョンはわからず仕舞いだけど それでも幸せになっててくれて涙腺が決壊してますわ。
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