後日談3 二人で帰る場所
朝の管理人室は、いつも同じ匂いがする。
淹れたばかりのコーヒーと、窓際の観葉植物の土の匂い。それから最近では、もう一つ。対になった湯呑みが乾いた音を立てる、生活の匂いだ。
凪原透がこのアパートの管理人になってからずっと変わらなかった部屋に、自分のものではない気配が、今では当たり前に馴染んでいた。
「透さん、今日は美月たちと第七支部のほうなので、帰りは夜になります」
台所のほうから声がして、透は手元の依頼書から顔を上げた。出かける支度を整えた日和が、玄関先で靴を履きながらこちらを振り返っている。
「気をつけて。無理そうなら、遠慮せずに呼び出してくれ」
「もう、私を誰だと思ってるんですか」
日和は今や、仲間を率いてトップ層を駆け上がる、一線級の探索士だ。心配する余地なんて、本当はもうほとんどない。
ただ、それでもやっぱり、心配なものは心配だった。
「俺の大切な奥さんだ」
「っ……もう。朝から、ずるいですよ」
顔を赤くして、それでも嬉しそうに笑って、日和は「いってきます」と言い置いて出かけていった。外廊下を駆けていく足音が遠くなる。透はその音が完全に消えるまで、なんとなく耳を澄ませていた。
結婚して、しばらく経った。
二人でこのアパートに暮らすようになっても、生活の形は劇的に変わらなかった。日和は仲間との活動が中心で、透は管理人業と、合間に政府窓口経由の依頼をこなす。たまに二人でパーティーを組んで、潜ることもあった。
残されたコーヒーをひと口飲んで、透は一日を始める。
午前中は、いつものように管理人としての仕事だ。共用部の点検、外廊下の電灯の交換、二階の部屋の蛇口から異音がするという連絡への対応。
どれも地味で、淡々とした仕事だ。けれど透にとって、この時間は決して軽いものではない。依頼書の山より、まずはこちらに手をつける。もちろん、人命に関わるような急ぎの案件があれば、迷わずそちらを取るが。
設備を確認しながら廊下を歩いていると、すれ違う住人が「管理人さん、おはようございます」と会釈してくれる。透はそのたびに、挨拶を返して頭を下げる。
政府窓口の依頼は、管理業の合間に片付ける。担当の渡辺から届いた分は、地方の未調査ダンジョンの構造把握が一件。優先順位と備考まで丁寧に整理された依頼書に目を通し、予定を確認してから、受けるものと後回しにするものを選り分けて、短い返信を送る。
管理人の仕事をこなしているうちに夜になって、外廊下に軽い足音が戻ってきた。玄関の鍵が回る音。透が顔を上げるより先に扉が開く。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさい」
言葉は、ごく自然に口をついて出た。もう、慣れた言葉だ。日和は「ふふ」と笑って、上着を脱ぎながら部屋に上がってくる。疲れた顔の奥に、やり遂げた充実がのぞいていた。
「今日は、どうだった」
「ばっちりです。すずなの弓が、もうすっかり戦力ですよ」
その日の出来事を聞きながら、透が用意していた夕食を二人で食べた。
***
二人での暮らしが、すっかり馴染んできたある晩のことだった。
その日は、仕事を早く終わらせた日和が作った夕食が卓に並んだ。煮物と、透が温めた味噌汁。料理当番の腕も上がって、味付けに迷いがなくなってきた。透が「うまいな」と言うと、日和は得意げになる。今夜もそうだった。
食事が半ばに差し掛かった頃。
「あのね、透さん」
箸を置いて、日和がそう切り出した。声の調子が、いつもの世間話とは少しだけ違う。透は味噌汁の椀を置いて、続きを待った。
「美月たち、新しく家を買ったんですって」
「家?」
「はい。すずなも、颯太も。誠一なんて、もう契約済みで……蓮は今、いろいろ見て回ってるところみたいで」
透も知り合いの、日和のパーティーメンバー。桐谷美月、葉山すずな、神崎蓮、伊吹颯太、東郷誠一。
日和は、自分のことのように嬉しそうに、けれど少し感慨深そうに言った。探索士として稼げるようになって、仲間たちがそれぞれの足で立ち始めている。かつて学校の活動室で肩を寄せ合っていた子たちが、今では自分の家を持とうとしているのだ。
話を聞きながら透は頷いた。日和たちのパーティーが軌道に乗っているのは知っている。探索士は、世間でも指折りの花形職業で稼げる。とはいえ卒業して一年も経たないうちに新しい家を購入するというのは、かなり早いほうだろう。
「それでね」
日和は一度言葉を切って、それから、少しだけ遠慮がちに――けれど芯のこもった声で、続けた。
「私たちも、いつか家を買えたらいいなって、思って」
言ってから、慌てたように付け加える。
「あ、今すぐっていうわけじゃないんです。透さんは管理人のお仕事があるし、このアパート、私も大好きですし。だから、無理を言いたいんじゃなくて……ただ、そういうのもいいなって、最近ちょっと考えるようになって」
押しつけにならないように。透の事情を、ちゃんとわかったうえで。日和の言葉には、そういう気づかいがあった。それでいて、願いそのものは、しっかりと差し出されている。
透は、そういう日和の言い方が好きだった。遠慮はするのに、言うべきことはちゃんと言う。昔からそうだ。
「うん、そうだな。新しく家を買うのも、いいかもな」
この部屋が手狭というわけではないが、将来のことを考えれば、早いうちに購入しておくのも悪くない。
「これは、ちょっと気が早い話なんですけど」
そう言いながら日和の頬が、ほんのり染まった。視線が少しだけ卓の上を泳ぐ。
「もし、いつか……私たちに子供ができたら。このお部屋だと、ちょっと手狭かなって。そういうのも、想像しちゃって」
それは、透自身も折に触れて思っていたことだった。
「それで、せっかくなら、少し広いところで暮らせたらいいなって……あの、欲張りすぎ、ですかね?」
最後にそう言って、日和は上目遣いに透をうかがう。
「いや、そんなことはないさ。俺も、同じことを考えてた」
いつまでも二人で、このアパートで暮らしていくわけにもいかないだろう。彼女の言っている通り、子どもができることも考えておかないと。そう返すと、日和の表情が、ぱっと明るくなる。
「ほんとですか?」
「ああ。悪くない」
日和は嬉しそうに、もう少しだけ、これからの暮らしの夢を語った。日当たりがいいといいな、とか。庭があったら家庭菜園をしてみたい、とか。透はその一つ一つに相槌を打ちながら、温くなった味噌汁を飲み干した。
――さて。
前向きに考えてみよう。新しい家を探して、引っ越す。それは、もう決めた。
ただ、そうする前に。透には、片付けておかなければならない考えごとが残っていた。
――管理人を、誰に任せるか。
***
すぐに引っ越し先の家が見つかった。日和の仲間たちから紹介してもらった物件を、透も一緒に確認して決めた。値段は相場に見合ったもの。アパートからも近い。
そして週末、日和の母――朝倉陽子が、部屋を訪ねてきた。
日和が透の部屋で暮らすようになって、陽子は今、一人で生活している。とはいえ部屋は目と鼻の先で、会おうと思えばいつでも会える。暮らしぶりが大きく変わったわけではない。
こうして、会いに来てくれる。今日は日和が「新しい家を買おうと思ってる」という話を、母に直接伝えたかったらしい。三人で卓を囲み、お茶をすすりながら、その報告から話は始まった。
「あらあら、そうなの。新しい家をねえ」
陽子は驚いた様子を見せて、けれど確かに嬉しそうに、何度も頷いた。娘が新しい家庭を、その器となる家を持とうとしている。それを聞く母の顔には、確かな喜びがあった。
「いい話じゃないの。透さんが一緒なら、安心ね」
「俺のほうが、いろいろ助けられてますよ」
透が正直にそう返すと、陽子は「あらあら」と笑った。礼節を崩さず、けれど身内らしい温かさのある、いつもの調子だ。
話が新居の場所や時期に及び、やがて、透がずっと抱えている宿題に関する話題に移っていく。
「ただ、一つだけ、片付けないといけないことがあって」
透は湯呑みを置いて、切り出した。
「このアパートの管理を、どうするか、なんです。俺は管理人を辞めるつもりはないんですが、引っ越した先から毎日ここへ通うのは、ちょっと大変かもしれないんで。だからといって、誰でもいいというわけにもいかなくて」
長年住んでくれている住人がいる。彼らの暮らしを預かっている以上、いい加減な引き継ぎはできない。信頼できて、アパートの事情を分かっていて、住人とも顔の通じている――そういう相手でなければ、おいそれとは任せられない。そんな都合のいい人間が、そうそういるはずも。
――と、そこまで考えたとき。
「それなら」
陽子が、湯呑みを両手で包んだまま、ふと口を開いた。
「私で良ければ、引き受けましょうか?」
透は、つい陽子の顔を見返した。日和も、隣で目を丸くしている。
「ええっ! お母さんが?」
「あら、変かしら。ちょうどね、今のお勤めを続けるかどうか、迷っていたところだったのよ」
陽子は、少しばつが悪そうに、けれど落ち着いた口調で続けた。通うのが少しずつ億劫になってきたこと。契約の更新の時期が近づいていて、このまま続けるべきか考えあぐねていたこと。そんな折に、この話が出てきた。渡りに船、というやつだ。
「それに、ねえ」
陽子は透のほうへ向き直って、穏やかに言った。
「このアパートのことなら、少しは分かっているつもりよ。透さんが地方に出張で出ているとき、留守を預かったこともあったでしょう。掃除や、設備の確認や……何かあったときの連絡や」
それは確かに。透が探索の仕事で家を空けるとき、陽子に任せていた。
陽子は、既にこのアパートの管理を何度か引き受けた実績がある。住人とも顔見知りで、誰がどの部屋に住んでいて、どんな性分かも、おおよそ把握している。引き継ぎに、これ以上の即戦力はいない。
「住人さんたちも、私の顔は覚えてくださってるしね。急に知らない人が管理人になるより、いくらか安心していただけるんじゃないかしら」
「……ええ。それは、間違いなく」
透は、内心で唸っていた。これ以上の適任が、どこにいるだろう。
日和も、母の申し出に、表情をほころばせていた。母がこのアパートを見てくれる。新居からここは近いから、いつでも会いに来られる。日和にとっても、これ以上ない心強さだろう。それが透には、隣に座る日和の顔つきだけで伝わった。
「私に任せてちょうだい」
陽子の返事に、迷いはなかった。透は、姿勢を正して頭を下げた。
「ぜひ、お願いしたいです。陽子さんなら、安心して任せられます」
アパートを引っ越すにあたって、終わらせておきたかった宿題が、思いがけず一番いい形で片付こうとしている。
「あらあら。そんな、頭を上げてちょうだいな」
陽子は慌てたように手を振って、それから、ふっと笑った。
話は、こうして固まった。陽子が正式に、このアパートの管理人を引き継ぐことに決まった。
――ただ。
ここで一つ、透には譲れないことがあった。引き継ぎの中身ではない。その対価の話だ。陽子がどういう人か、透はよく知っている。だからこそ、ここはきちんとしておかなければならなかった。
***
そして、後日。
「陽子さん。お願いするにあたって改めて、給料のことを、ちゃんと決めさせてください」
透はそう言って、用意した一枚の紙を卓の上にそっと滑らせた。管理人の報酬額を記したものだ。
陽子が、それを手に取る。確認しようと目を落とした瞬間、その表情が、ふと止まった。
「……透さん。これ」
「はい」
「こんなに貰えないわよ」
陽子は、紙を卓に戻して、首を横に振った。困ったような、けれど芯のある断り方だった。
「掃除と、設備の確認と、何かあったときの連絡。前にもやらせてもらっていたことよ。それをするだけなのに、いくらなんでも多すぎるわ。半分でも、まだもらいすぎなくらい」
以前、出張中の管理補助を頼んだときも、陽子は直接の報酬を断った。金銭を受け取ることそのものに、遠慮があるのだろう。結局あのときは「家賃の一部免除」という、いわば間接的な形に落ち着いた。陽子という人は、昔からそうやって、きちんと一線を引く。礼節を重んじる人なのだ。
だが今度ばかりは、透も引くわけにはいかなかった。今回は、完全に仕事を任せるということ。今後も透は管理人の仕事を手助けしに来るつもりだが、メインは陽子に任せるつもりである。
「陽子さん」
透は、まっすぐに陽子を見て言った。
「これは、身内への頼みごとじゃなくて、正式なお仕事としてお願いしたいんです。だから、ちゃんとした給料をお渡しします」
「でも、これは……」
「即戦力ですし、信頼できる人ですから。それも加味しての金額です」
透は、迷いなくそう続けた。
「このアパートを任せられる人を探すとなったら、本当は、住人さんのことを一から覚えてもらって、設備のことも一つずつ引き継いで――時間をかけて、ようやく安心して任せられるようになる。それくらい大変なんですよ。でも陽子さんは、それが全部、もう出来ている。明日からでも任せられる。そんな人、そうそう見つかりませんよ」
これは世辞ではなかった。透の本音であり、同時に、雇う側としての冷静な評価でもあった。
「安心を買わせてもらうんです。だから、これは多すぎるんじゃなくて、ちょうどいいんですよ」
「……まあ」
陽子は、毒気を抜かれたように、少しの間、黙り込んだ。それから、ふっと肩の力を抜いて、苦笑した。
「敵わないわねえ、透さんには」
「日和のお母さんなんですから、これくらいは当然です」
「あらあら」
軽口に、場の空気がほどける。隣で日和が、こらえきれずに吹き出していた。
「わかりました。そこまで言ってくださるなら、ありがたく頂戴します」
陽子は、もう一度紙を手に取って、丁寧にそれを畳んだ。受け取る、という意思の表れだった。
「その代わり、お給料の分は、きっちり働かせていただきますからね」
「ええ。よろしくお願いします」
透も、肩の力が抜けるのを感じた。誠意は伝わったらしい。身内だからと甘えるのでも、遠慮させるのでもなく、働きに対して正当な対価を払う。透にとっては、それが筋だった。そして陽子も、その筋を受け取ってくれた。
話がすべて片付くと、透の横で静かに見守っていた日和が、心底ほっとしたように息をついた。
「よかった……これで、安心して引っ越せるね」
――いい形に、収まったな。
あとは――そう。あとは、この場所で過ごしてきた、住人たちとの時間に、きちんと区切りをつけるだけだった。
引っ越しの予定日が近づくと、住人たちが、一人、また一人と、管理人室へ挨拶に来てくれた。
透が「管理人が代わる」と各戸に知らせを回してから、数日のことだった。これからは陽子が管理人を引き継ぐこと、自分は近くに引っ越すこと――そう伝えてあったのだが、住人たちはわざわざ、透本人に一言、と足を運んでくれたのだ。
日が暮れ、挨拶が途切れた管理人室で透は一人、湯呑みを傾けていた。
――妙な気分だな。
自分は、ただ静かに管理人をやってきただけのつもりだった。誰とも深く関わらず、目立たないように淡々と。それが性に合っていると思っていたし、そんな人生で十分だとも思っていた。
けれど、こうして一人ずつ挨拶を受けてみると、今になって実感したことがある。自分は、知らないうちにアパートの住人たちの暮らしの、すぐ傍にいたのだと。
一人で生きてきたつもりだった。
いつの間にか、一人じゃなかったらしい。日和との出会いだけじゃない。このアパートで過ごした日々もまた、確かに人との関わりだったのだ。
透は、湯呑みの底に残った茶を飲み干した。胸の奥が、少しだけ温かかった。
***
引っ越しの当日。
荷物がすべて運び出された管理人室は、がらんとしていた。
物で埋まっていたはずの部屋が、何もなくなると、こんなにも広く見える。日和が持ち込んだ観葉植物も、対の湯呑みも、家具も、調理器具も――短い間だったけれど、二人で積み重ねてきた生活の道具は、もう一つ残らず、新居へと運ばれていった。
透は一人、その空っぽの部屋の真ん中に立って、最後にぐるりと見渡した。
――この部屋で、一生を終えるつもりだったんだよな。
ふと、そんな思いが、胸の奥から浮かび上がってきた。
このアパートを買ったとき。透は、本気でそう思っていた。一生この部屋で一人、管理人として細々と暮らしていくのだと。誰とも深く関わらず、目立たず、ただ静かに。それで十分だと、自分に言い聞かせていた。いや、言い聞かせるまでもなく、そういうものだと、ごく当たり前に思っていた。
誰も知らない別世界のダンジョンで、一人きりで戦い続けて。それは、いつまでも変わらないのだと思っていた。
なのに。
弟子ができて。探索士の資格を取って、表で活動するようになって。結婚して。新たな家族になって。そして、これから先も。
――こんな未来は、想像もしていなかった。
あの頃の自分に、「お前はいつか、このアパートを出ることになる」なんて言っても、きっと信じないだろう。「結婚して、奥さんと、もっと広い家に引っ越すんだ」なんて言ったら、たちの悪い冗談だと思うに違いない。
一人で生きて、一人で終わる。そう信じて疑わなかった男が、今、隣に帰る相手がいるからこそ、この部屋を出ていこうとしている。
不思議なものだ、と思う。
空っぽの部屋は寂しいというより、どこか――役目を終えた、という顔をしていた。
「透さん」
背後から声がした。
振り返ると、玄関先に日和が立っていた。運び出しの指示を一区切りつけて、戻ってきたのだろう。透の隣まで来て、同じように、がらんとした部屋を見渡す。それから、少しだけ気遣わしげに、透の顔を見上げた。
「……寂しいですか?」
透は、すぐには答えなかった。
少しだけ、考えた。
この部屋で過ごした、長い時間のこと。一人だった日々のこと。そして、その真ん中に日和が現れてから、何もかもが変わっていった日々のこと。それを一つずつ、心の中でなぞって――それから、正直に答えた。
「少しだけな」
この部屋は、確かに自分の人生が変わった場所だ。日和と出会った場所で、管理人になった場所で、一人で生きるつもりだった男が、そうじゃなくなった大切な場所だ。
「けど、後悔はしてない」
透は、はっきりとそう続けた。
寂しさは、ある。でも、それだけだ。進む先に、待っているものがある以上、振り返って立ち止まる理由には、ならない。この部屋で過ごした時間は、ちゃんと胸に残っている。それを抱えたまま、次へ行く。ただ、それだけのことだ。
日和は、その答えを聞いて、ふっと笑った。
「なら、良かったです」
穏やかな、それでいて心の底から安堵したような笑顔だった。彼女が何を思ってその一言を言ったのか、透には、はっきりとは分からない。けれど、その表情だけで、十分に伝わるものがあった。
透の中で、何かが区切りをつけた。
この場所で過ごした時間は、これからも忘れないだろう。だから、大丈夫。
外廊下に出ると、陽子が待っていた。
透は、手にしていた鍵の束を、その手にそっと預けた。アパートの設備一式の鍵だ。陽子は、それを丁寧に受け取った。
「お願いします」
「ええ。任せてちょうだいな」
陽子は、いつもの調子で、けれど確かに引き受ける重さを込めて、鍵の束を握った。それで、引き継ぎは終わりだった。透が長く守ってきた場所は、今日から、この人が守っていく。
異空間にある訓練場へのゲートも閉じたし、ダンジョンで入手した危ないアイテムの数々は回収済み。ここはもう、普通のアパートに戻った。
透は最後にもう一度だけ、管理人室の扉を確かめるように、そっと手で押した。鍵のかかった、確かな手応えが返ってくる。それが、この部屋との最後のやり取りだった。
日和が待っている。彼女に声をかける。
「行こうか」
「はい」
日和の声は、明るかった。
二人は並んで、外廊下を歩き出す。階段を下りて、見慣れた通りへ。陽子の「いってらっしゃい」という声が、背中をぽんと押した。
帰る場所は、もう、後ろにはない。
隣を歩く相手と、一緒に向かう――その先にある。
新しい家に着いたら、たぶん、あの言葉を言うことになる。
ただいま、と。お帰りなさい、と。
この先、何度でも日和と交わし合うことになる、その言葉を。
透は、ほんの少しだけ口元を緩めて、日和と歩幅を合わせる。そして、新たな家へと、二人で歩いていった。




