10話
あれから葵はすすきを離してくれず、朝起きたときもしっかり腕が巻きついていた。どこにも行かせないつもりだろうか。
「葵さん、離してください」
「ええー」
そうは言いつつも葵は手を離した。名残惜しそうな顔をしながらも自身もベッドからでて二人で身支度をする。歯磨きをしながら階下の景色を窓から眺めるのが日課になりつつあり、ここでの生活にも少しずつではあるが慣れてきた気がした。
朝ごはんは久々の和食だった。刻みネギがたっぷり入ったあさりの味噌汁に、だし巻き玉子、お新香。それとつやつやのご飯。朝食をとらないことが当たり前だった以前とくらべたら、しっかりと栄養が体に行きわたっている感じがした。
「貝の味噌汁ってなんでこんなにおいしいんだろね。風味がほんとにいいし、ご飯にあうなあ」
黄金色の玉子焼きは出汁をたっぷり含んで、ぷるぷるのふわふわ。口にいれた瞬間にうまみがひろがる。何個でも食べれそうだ。目をきらきらさせてだし巻きを食べるすすきを見て、葵の目が嬉しそうに細まった。
「すすきちゃんって料理するの好き? そうだったら、いつか食べてみたいな」
「……あんまり上手じゃないので、お口に合わないと思います」
毎日潤の作ったものを食べる人に出せる料理はないんじゃないだろうか。
「俺は食べたいよ。すすきちゃんが俺のために作ってくれたってだけで感激して泣いちゃうかも」
こういうことを言うから葵はたちが悪い。頬が熱くなるのを感じながら、すすきは小さく息を吐いた。
朝食が終わり食器を返しに行くと、そのまま事務所へ入った。葵がなにやら用事があるというのでその後ろをついていく。応接スペースからパーテーションで隔てた奥は葵のデスクがある。書棚には資料がぎっしりと詰まっていて、いかにも仕事場という感じだ。
「お守り、ちょっと貸してね」
すすきの首からするりと抜き取ると、巾着の袋をあけて中身を取りだした。折りたたんだ白い紙だった。それが何かはわからないが、葵はそれを広げてふむと首をかしげる。それは人型をしていて、ところどころ黒く汚れていた。
「思ったよりすすきちゃんにふりかかる災厄って大きいな。今までよく無事だったね」
確かに昔から不運にふりまわされてきたが、どうしてそれが分かるのだろう。葵は自分のデスクの引き出しをあけると、あたらしく人型の紙をとりだしてペンでさらさらとなにか文字を書いていく。すすきの名前だった。だが不思議なことに、しばらくするとその文字はすっと消えていく。最初から文字など書かれていなかったのようにまっさらだった。
「これはすすきちゃんの代わりに悪いことを引き受けてくれる。だから、肌身離さずもってて」
そう言って葵は白い紙を折りたたんで巾着の中に入れた。はいと手渡されたお守りはほんのりあたたかい。
「葵さんは……」
聞きたいことはあるのに言葉が思いつかない。さっきの人型の紙は何なのか。すすきの不運とどう関係するのか。葵はいったい何者なのか。
葵は困ったように笑うと、白くて透き通った紙をとりだすとハサミで蝶の形に切り抜いた。自分の手のひらに置くとふうと息をふきかける。
「えっ、うそ」
次の瞬間。
白い紙の蝶がひらりと舞い出した。葵の手をはなれて本物のようにひらひらと辺りを飛んでいく。それは風に乗っているとか、ひもで操っているとかそんなものではなかった。紙の蝶が意思をもって動いているとしか思えなかった。
「俺ね、少し不思議な力が使えるの」
すすきの周りをひらひらと飛びまわる蝶。最後はすすきの手の中にぽとりと落ちてただの紙になってしまった。
「……ねえ、前世って信じる?」
言われて顔をあげると、またあの目だった。悲しそうに伏せられた眼差しには、どうしても心がざわめく。脈絡のない唐突な問いかけだったが、それはふたりにとってとても大事なことに思えた。前世とは、今歩んでいる人生のひとつ前、あるいはいくつか前の人生のことだ。しかし、その時の記憶がない以上、信じる信じないというより意識したことがなかった。
すすきがなにか言葉を発しようとしたとき、事務所に来客をつげる鈴の音が鳴り響いた。
「ごめん、またあとでね」
両手で顔をつつむとついばむように軽いキスをして、葵は入口の方へ行ってしまった。
前世。これはふたりにとってどういう意味を持つのだろう。
◇
事務所にやってきたのは神谷とその部下だった。パン屋の外にいたあの厳つい男だ。
「昨日はここにお嬢さんが来たそうじゃねえか」
「困りますよ、ちゃんと見張っててくれなきゃ」
「残念ながら俺の体はひとつしかないんでね」
すすきは掃除道具を片付けながら耳をかたむけるが、それ以上の会話は拾えなかった。諦めてパン屋に向かいながら少しだけ考える。お嬢さんと聞こえてきたが、それはあの鹿見という女性だろうか。なにやらワケありげに葵に抱きついていたのはよく覚えている。しかし神谷も彼女を知っているのは驚きだ。
すすきは両手で自分の頬をぱんぱんと叩いた。
余計なことは考えちゃだめだ、と気持ちを入れ替える。事務所からさほど離れていないので、もう目の前はパン屋だ。バイトの人が復帰するまでのわずかな間だが、仕事はしっかりとこなしたい。今のところ大きなミスはしていないし、理加子のエネルギッシュな姿を見ていると自分も頑張らなきゃとポジティブな気持ちになれる。
午後二時ごろ、お昼のピークも過ぎてホッとしていたころだった。ガラス戸を通して外から誰かがすすきのことを見ていた。その視線に気づいて顔を向けると、そこにはいたのは鹿見香奈だった。昨日とは違う装いだが、見間違えるはずがない。お互いの視線ががっちりと絡まった。
勤務中だということもあって、すすきは軽く頭を下げる。
鹿見はそんなすすきを見て笑った。美しい笑顔ではなく、人を見下すような怖い笑みだ。背筋がすっと冷えていくのが自分でもわかった。




