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波濤揺蕩う神殺し  作者: 韋駄天
ナハトの争乱編
89/100

清算

「・・・大丈夫・・・ですね・・・」


恐る恐る、と言った様子で一歩づつ前に進むジェイクだが、特に体に変化は見られない。


マハラティーの糸の力は本物であると、これで立証された。


「ほぉら、ウチは嘘なんて言わへんよ」


自分の力を証明できた事にマハラティーは自慢気に微笑むと、神殿を先導するように歩き始めた。


「それで、比丘尼・・・いえ、マハラティー様、大丈夫ですか? この先は危険ですよ」


その背中を追うジェイクは、話の途中でマハラティーの呼び方を訂正した。


比丘尼とは神の教えに従う者、神である彼女には相応しくない。


「もぅ~水臭いこと言わんといて、そないに固うならへんでも、ウチとあんさんの仲やないの」


そんな気遣いは無用とばかりに、マハラティーはジェイクの手を取り、まるで散歩でもしているかのように並んで歩く。


ジェイクは血で汚れた手をきちんと拭いておけば良かったと後悔した。


「困った時はお互いさん、今後はウチがお返しする番どす・・・」


そして、マハラティーは真っ直ぐな瞳でジェイクを見つめる。


そこに打算は一切ない。


彼女は友として、仲間として、恩人でもある彼に少しでも力になりないと願っていた。


「マハラティー様・・・」


その気持ちはジェイクにも伝わったらしく、彼はマハラティーはこの場にいてくれた事に感謝した。


たった1人で敵地へ踏み込む彼の心細さは尋常ではない。


例えマハラティーが線の細い非力な女性であるとは言え、隣にいてくれるだけで彼は言いようのない孤独から解放された。


アコの言う彼女が本当に必要とされる時とは、今日この瞬間だったのかもしれない。


「おい! 今すぐその手を離せ!」


そんな2人の所へ突然何者かが乱入した。


「汚い手で比丘尼様に触るな、この変態が!」


聞き覚えのある声にジェイクが顔を向けると、そこにはヤマトで出会った放火魔ヘンリックが目くじらを立て、声を荒げていた。


「変態? 街に火をつけて喜ぶ貴方に言われたくありませんね」


これには流石にジェイクも頭に来たらしく、すぐさまトゲのある台詞を投げ返す。


いかにマハラティーの手を握る事が彼にとって罪であったとして、都を火の海にしようとした極悪人に言われる筋合いはないはずだ。


「煩い! 誰だか知らないが、僕に指図するな!」


思わず絶句するジェイク。


彼がヘンリックと過ごした時間は僅かだが、ゴミ処理場で死闘を繰り広げた因縁浅からぬ仲である。


少なくともジェイク側はそう考えているが、ヘンリックにとってはすぐに風貌を忘れるほどにどうでも良い相手のようだ。


「そない言われても、ウチはジェイクはんを上まで案内するお勤めがあるさかい、またにしておくれやす」


睨み合う2人の間に割って入る形でマハラティーが毅然とした態度で告げると、ヘンリックはまるでこの世の終わりでも来たかのような顔をした。


「・・・解った、これをやるよ、お前」


ジェイクへの怒りを必死に堪え、歯噛みをしながらヘンリックはポケットからくしゃくしゃに丸まった紙をジェイクへと投げ付けた。


震える指からは小さな火花が散っており、彼の精神が乱れている事が如実に伺える。


ジェイクがヘンリックから視線を逸らさずにその紙を拾い上げると、それはこの神殿の地図らしき物で、各階毎の図面が乗っていた。


「何のつもりですか?」


彼がここで待っていたのは間違いなく侵入者を阻むためだと言うのに、まさか自分とマハラティーを引き離すために仕事を放棄するとは流石のジェイクも思わなかったようだ。


「何してる、僕が通れって言ってるんだ、その代わり1人でな!」


早く2人が離れて欲しいのか、急かすヘンリックを尻目にジェイク達は顔を見合わせる。


言う通りに彼が上に向かえばマハラティーはこの男と2人きりになってしまう。


それを危惧してジェイクは相談をするつもりだったが、彼女は一切表情を崩さないままだった。


「ここはウチに任せて、ジェイクはんはお行き・・・こないな血生臭い戦、はよ終いにしてお握り食べよ、な?」


マハラティーはこの場を自分1人で切り抜けるつもりのようで、ジェイクに階段を上るように指示する。


その原動力は彼女がアコから受け継いだ平和への願いであり、自分も戦争を終わらせる一助になりたいと考えていた。


「すみません・・・どうか、ご無事で」


ジェイクはその気持ちを無碍にはしまいと、深々と頭を下げ階段へと走った。


途中でヘンリックが奇襲をしては来ないかと警戒していたが、マハラティーの前で約束を破るつもりはないらしく、ジェイクの方を見ようともしなかった。


「フフフ・・・最後まで他人さまの心配やなんて、ほんまにお節介焼きなお人どすなぁ」


何事も無く階段を駆け上がって行ったジェイクの背中を見送ると、マハラティーはヘンリックへと向き直る。


楽しそうな彼女とは裏腹に、ヘンリックはへそを曲げた様子で腕を組んでいた。


「ねぇ、もう良いでしょ比丘尼様、あんな奴の事は・・・それより久しぶりに会えたんだから、もっと僕とお喋りしようよ」


ヘンリックはマハラティーが自分以外の男を話題にすることが気にくわないらしく、自分だけに注目して欲しいと話題を変えた。


「そうどすなぁ・・・ディー・・・いや、ヘンリックはんはどないしてここに?」


マハラティーが最初にした質問は、この神殿で起こっている異変に関係することだった。


特別な神の助け無くして、人間がここに入る事は不可能。


最も考えられる事はヘンリックがこの反乱の片棒を担いでいる可能性だった。


「そうだなぁ・・・一言で言えば仕事・・・そう、ビジネスかな?」


ヘンリックは曖昧な物言いをするが、そのビジネスが何を示しているかはマハラティーも良く知っている。


文明を燃やす事。


人が積み上げた歴史を灰にする事である。


「それは、この街を燃やすちゅう事で・・・よろしおすか?」


マハラティーの言葉にヘンリックは少しだけ後ろめたそうな顔をしたが、そのまま何も言わなかった。


しかし、その無言の間が肯定の沈黙である事は、マハラティーにもすぐに伝わった。


「ほなら、ほんまに・・・ほんまに都を燃やしはったのは・・・ヘンリックはん、あんさんどすか?」


しかし、頭では解っていても、マハラティーは心の何処かでヘンリックを信じようとしていた。


彼は確かに気が多く、沢山の女性にアプローチを繰り返してアコに出入り禁止を喰らった身分ではあるが、それ以外の面は親切な好青年だった。


少なくとも、彼女の前では。


「そうだよ、あんな展覧会で比丘尼様の何が計れるっていうのさ? 必要ない所か、むしろ邪魔だよね・・・だから燃やしたよ」


マハラティーの願いもむなしく、ヘンリックはあっさりと自分の犯行を認めた。


まさに開き直りといった様子で、聞いてもいない事をペラペラと喋るその姿に、彼女の中にあるヘンリックのイメージが音を立てて崩れ去った。


そして彼女は、自分の目の前にいるこの男を、ようやく冷血な放火魔であると認識した。


「もぅ、あないな事止めて! 気に入らへんモン全部燃やしはっても、誰も幸せになんてなれへんよ!」


必死に呼びかけるマハラティーの声は、昂る感情に震えていた。


ジェイクと再開し、ヘンリックと敵対する覚悟ができていなければ、きっと涙を流していた事だろう。


かつての友人、その余りにも身勝手な裏切りに。


「うぅ~ん、そうかな? 皆いらない物を背負い過ぎだと思うんだよね、だから不幸になるのさ」


「ウチも、ヘンリックはんの生き方に口出しする気はあらへん! せやけど、他の誰にも他人様の生き方に干渉する権利は無いどす!」


適当に受け流そうという魂胆が丸解りのヘンリックの態度は、とうとうマハラティーの怒りに火をつけた。


不幸の形も、幸福の形も、他人に押し付ける行為は無粋の極みだ。


「確かにこの間の事は僕の意思でもあるけど、ボーガード様のご意思でもあるからね、僕は神のしもべとして働いただけだよ?」


その言葉に、マハラティーは初めてヘンリックを侮蔑の眼差しで睨んだ。


神であれば、誰かの人生を決定する権利があるというのか、運命が相手であれば、人はそれに跪くしか無いというのか。


人に選択肢が無いというならば、人生に意味は無い。


結果として苦しみ抜く事になったとして、己で選んだ人生こそ価値が産まれると彼女は知っている。


ヘンリックの言葉は、彼女の生涯への最大の侮辱だった。


「解った、解ったから・・・そんな怖い顔しないでよ、綺麗な人が怒ると余計に怖いなぁ」


流石にマハラティーが怒り心頭であると気付いたヘンリックは慌てて作り笑いを浮かべて話を逸らした。


この変わり身の早さも、彼が自分を隠すための術なのだろう。


「じゃあさ、比丘尼様が僕を幸せにしてくれる? 比丘尼様が僕の事を永遠に愛してくれるなら、改宗してもいいよ」


そして、次にヘンリックが口にした言葉は、突拍子も無いプロポーズだった。


「何どすか、藪から棒に・・・」


話の流れも理屈も無視して愛の告白をされたマハラティーは開いた口が塞がらない。


そんな簡単に信仰する神を変える事ができないくらい、神官である彼が最もよく知っているはずなのだ。


「僕は、僕が理想とする人と、永遠に色あせない愛を誓い合いたかったんだ、でも・・・あとちょっと、もう少しの所でいつも上手くいかない、ごちゃごちゃ小難しい事並べてご破算になる、だから・・・僕にはもう比丘尼様しかいないんだ」


「ヘンリックはん・・・」


懇願するように目で訴えるヘンリックにどんな言葉をかければ良いか悩みマハラティーであったが、その目が本気である事は彼女にも伝わってきた。


彼女が条件を飲みさえすれば、この男は簡単に改宗するだろう。


それを踏まえて、彼女はまた1つ大きな選択をする事にした。


彼女は自分が非力である事は理解しているが、暴力のみが戦う術でない事も知っていた。


「・・・うん、ええよ」


しばしの思案の後、彼女が出した答えはそのプロポーズを受ける事だった。


「本当!?」


訝し気な顔をしているマハラティーをよそに、ヘンリックは満面の笑みを浮かべた。


猛烈なアタックがついに実を結んだと言いたい所だが、現状は相手の感情を無視した独りよがりの暴走でしかない。


そんな事も解らない人間であったのかと、マハラティーの心は深い悲しみに包まれた。


「その代わり、2度と他人様の物に火ぃ着けへん事、迷惑かけたお人に謝る事・・・約束できはる?」


そして、婚約の条件として彼女は約束を取り付けた。


それは夫婦の約束事であると同時に、神との契約でもある。


これは極めて奇妙な形ではあるが、神前での誓いの儀式なのだ。


「勿論約束するよ! ははっ・・・やった、僕はついにやった!」


彼が何処までその重大さを理解しているかはマハラティーにも計りかねたが、とにかく念願叶い、子供のように大はしゃぎするヘンリック。


しかし、それと同時に部屋全体へと何かが燻っているような臭気が立ち込めるのだった。


「本当に、永遠の愛を、僕は手に入れたんだ!」


そして、マハラティーがその発生源を知覚した時には、もう手遅れだった。


臭いはさらに強くなり、火に焼かれ何かが焦げる音が耳に入ったその瞬間。


「やったぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


ヘンリックの体が炎に包まれる。


擦ったマッチのように赤々と。


「ヘンリックはん!」


異常事態にマハラティーが悲鳴混じりの声で彼の身を案ずるも、もはや手の施しようも無い。


この場に消火手段など無く、仮にあったとして毛ほどの役にも立ちはしないだろう。


ヘンリックに火を放ったとは他でもない、始原の神ボーガードであるのだから。


彼は火だるまになりながらも、歓喜と苦痛の入り混じる叫びをしばらく上げていたが、やがて力を失い、乾いた音を立てて倒れる。


それが、神を裏切った背教者の末路だった。


「あぁ・・・」


かろうじて人の形を残した燃えカスにマハラティーが恐る恐る近寄ると、その炭化した肉体はすぐに粉々の塵となり、床に散らばった。


「何で・・・何でこない阿呆な事を・・・」


魂の抜け出た体は、もはや神の加護を受けられず、膨大な時間の流れの前に塵となる。


この結末を迎える事は、マハラティーも解っていた。


古い神ほど寛大で慈悲深いが、それ故に嫉妬深く、裏切り者を絶対に許さない。


彼に残酷な罰が下る事は火を見るよりも明らかだった。


しかし、彼女もまたそれを承知の上で改宗を承諾したのである。


彼の悪行を止めるには、もうそれしか無かったのだ。


「おやおや、何処へいくのさ?」


人を殺めた罪を背負い、この場から立ち去ろうとしたマハラティーの背後から、彼女を呼び止める声がする。


「最愛の人を置いてきぼりなんて、酷いなぁ・・・比丘尼様」


マハラティーがゆっくりと振り返ると、そこにはつい先ほど炎の中で息絶えたはずのヘンリックの姿があった。


「あっはっはっは、ゴメンゴメン、驚いたよね・・・ほら、僕って仕事柄いつ死んでもおかしくないからさ、念のため保険をかけておいたんだ」


驚きの余り言葉を失うマハラティーをよそに、止めどなく喋り続けるヘンリック。


「死んでも魂だけこの世に留まるようにした、取って置きのお守りをね・・・もう燃えちゃったけど、ちゃんと機能して安心したよ」


自分の計画がどれほど周到であったが誰かに聞かせずにはいられない。


神すら欺いた自分の手腕を、誰かに見てもらいたい。


そんな心の内がありありと伝わって来た。


「前は幽霊になんかなっても面白くないと思ってたけど、今は違う・・・何たって比丘尼様と永遠の愛を誓ったんだからね! 永遠の時を生きる神に連れ添うなら、生身は邪魔だよね?」


そして、ヘンリックは高らかに笑い始めた。


全てが自分の計画通りに進んだことが愉快でたまらないようだ。


その笑いを聞きながら、マハラティーは無言のまま考えていた。


どうすればこの男を止める事ができるのか、と。


「さぁ、比丘尼様、一緒にヤマトに帰ろうか・・・それと、ハネムーンは何処が良い? 希望があるなら聞くよ!」


ひとしきり笑った後で、ようやくヘンリックはマハラティーへと近寄り、手を差し出した。


今の2人は愛を誓った仲、何もおかしな行為では無い。


「約束は?」


しかし、マハラティーはヘンリックの手を無視して自分との約束へと話しを戻した。


まだ、2人の約束は果たされていないのだ。


「あぁ、大丈夫、これからはむやみに火をつけたりしないよ、比丘尼様もそろそろ、過去の事なんてすっぱり水に流してさ~」


「うぅん、もう1つの方」


反省の色が見られないヘンリックに対してマハラティーは首を横に降る。


そう、彼女は彼に対して2つの事を守るように約束したはずだ。


「迷惑かけたお人に謝る事」


改めてマハラティーはヘンリックと交わした約束を口にした。


彼は重罪人であり、罪を償う義務がある。


それを改めて、この死した咎人へと突きつけた。


「そうそう、でもそれって一体どうすれば・・・」


「心配には及ばぬ」


唐突に、ヘンリックの背後から聞き慣れない男の声が聞こえた。


この部屋に彼以外の反乱軍は待機していない。


ジェイクもすでに上階へと消えている。


声を出せる生物など、この階層には存在しないはずだった。


「あれ? あんた、前に何処かで会ったような・・・」


振り返ったヘンリックの目の前にいたのは、全身黒ずくめの男。


彼はすぐにその正体を思い出せずに怪訝な顔をしているが、男の方はそうでも無いようで、一瞬たりともヘンリックから視線を外さず、まるで死人のようにその瞳には感情を宿していない。


「ヤマトで着けた謀反の火、あえなく鎮火と相成り申したな・・・」


彼はヘンリックと手を組み、ヤマトの展覧会を襲撃した賊だった。


刀を下げてはいないものの、その姿は間違いなく襲撃時の装束である。


「ヤマトで? あぁ~あの時の! 失敗しちゃったんだっけ、残念だったね」


賊の言葉でようやくヘンリックはその存在を思い出したようで、手を叩きながら労うが、賊はそれに対して首を横に降る。


「・・・あれは拙者の不徳とする所、曇った眼で見た幻よ・・・拙者は自分が何者であるか理解していなかった、それだけの事」


視線を床に落とした賊は、自分の最後の瞬間を思い出しながら語る。


その姿は道を踏み外し、国に刃を向けた自分を恥じているようだった。


「そう・・・ならもう良いよね? 僕達これから忙しいんだ」


しかし、そんな事は知った事では無いとばかりに、興味無さげな様子で立ち去ろうとするヘンリック。


やはり男相手に長々と立ち話をするつもりは無いようだ。


「悪いが、もうしばらく拙者に付き合ってもらうぞ」


そうはいかないと賊は素早くヘンリックの前に回り込み、行く手を塞ぐ。


彼はあの夜、屋根の上で出会った奇妙な女から自分のすべき事を知ったのだ。


己を求める声はヤマトの外にある。


そしてあの日の罪を清算しなければならない、と


「えぇ? しばらくって・・・どれくらい?」


自分を睨む賊の鋭い眼光に、ヘンリックはほんの少したじろぐと、その隙に賊は彼の右手を掴む。


その手は驚くほど冷たく、ヘンリックの全身を凍り付かせるような冷気を帯びていた。


「さぁてな、それは獄卒が決める事よ」


そして、その言葉にヘンリックは魂まで極寒の世界に引きずり込まれた。


賊の言葉が意味する所、それを理解してしまった為に。


「おい、冗談はよせよ、まるでこれから・・・」


ヘンリックは恐怖のあまり、ひきつった声を上げ逃げようとするが、賊の手は分厚い氷のように固く、振りほどく事が出来ない。


「地獄行きになる、か?」


その直後、ヘンリックは凄まじい力で地面に引き倒され、仰向けにされた。


余りにも一瞬の事で最初は賊の仕業かと考えたが、それは違った。


彼を引き倒したのは、自分の体から地面へと伸びる無数の糸。


それを大量の何かが地下から引っ張っているのだ。


「ひっ! な、何だよこれ・・・」


悲鳴を上げて暴れるヘンリックであったが、いくらもがいても糸を引く力は強く、また糸も頑丈で抜け出せない。


「お主から伸びた糸を、縁ある亡者共が引いておるのだ、拙者はその代表として来たまでよ」


「どうして! 何で僕からこんな糸が!?」


説明する賊をよそにヘンリックは抵抗を続けるが、やがて彼は話の辻褄が合わない事に違和感を覚える。


今の自分にあの世から迎えが来るはずがない。


そもそも賊がこの場にいることがおかしいのだ、ヘンリックはそれに気付くのが遅すぎた。


「はて? 拙者にも皆目見当がつかん、何しろつい先ほどの事でな・・・地獄で蜘蛛の糸とはまれに聞くが、絹糸とは珍しい」


首を傾げながら語る賊。


彼にもヘンリックが捕らえられた理由は解らないようだが、それを聞かされているヘンリックの方は心当たりがあった、


だがそれは、今の彼にとって最も信じられない結論だった。


「絹・・・おい、それってまさか・・・」


震える声で彼は心当たりの方へと視線を向ける。


この場で絹糸に関係のある人物など1人しかいない。


「嘘だろ? なぁ嘘だよな?」


ヘンリックは上ずった声でマハラティーへと呼びかける。


自分の最愛の人が、そんな事をするはずがない。


永遠の愛を誓い、これから悠久の時を過ごす妻がそんな事をするはずがない。


違うと言ってくれ、否定してくれ、関係ないと跳ね除けてくれ。


そう願うヘンリックであったが、マハラティーは口を閉ざしたまま一行に何も言わない。


その沈黙が何を意味するのか、彼には直ぐに解った。


「返事をしろ! この尼ァ!」


ついにヘンリックはマハラティーを信じる事を止めた。


怒りを爆発させ獣のような叫び声でマハラティーへとその矛先を向けるが、全身を拘束されているため、何もできない。


彼が今必死に動かしている口が、自由にできる最後の部位だった。


「なぁに、お主は知り合いが多いと聞く、地獄でも退屈はせぬぞ」


皮肉めいた言葉を告げると賊の体は沼へと沈むかのようにゆっくりと落ちてゆく。


そう、彼はこれから元の地獄へと戻ってゆくのだ。


かつての仲間を道連れに。


それを察知したヘンリックの顔が絶望に歪むが、もはやどうにもならない。


床に倒れている彼の体もまた、少しずつ亡者たちによって地獄へと引き込まれつつあった。


「止めろ! 嫌だ! 放せ! 僕は・・・あぁ畜生、このクソ尼、僕を騙しやがった! 今すぐ殺してやる! その後灰になるまで燃やして、骨ごと全部便所に捨ててやる! お前の大事な物も後を追わせてやるぞ、あの神殿も、畑も、信者も、知り合いも、全部、全部だ!」


半狂乱となり泣き叫びながら呪詛を吐きかけるヘンリックの姿を、マハラティーは微動だにせずに見つめていた。


彼は断罪者の手に落ちた、これから地獄で罰を受けるだろう。


それは彼女が手引きした結果であり、そこから目を逸らさない決意はできていた。


それが、神として生きるという覚悟だ。


「往生際の悪い御仁だ・・・観念せよ」


腰まで沈んだ賊がなおも抗うヘンリックを上から押さえつけ、最後の1押しを行う。


それは、さながら死刑執行のようにヘンリックの精神を砕いた。


「助けてぇぇぇぇぇボーガード様ぁぁぁぁぁぁ!!!」


断末魔が神殿に響く。


しかし、誰1人ヘンリックの叫びには答えない。


この場には彼を助ける人はおろか、救う神すら存在しないのだから。


必死の抵抗も虚しく、彼は地の底へと引き込まれ、神殿は先ほどまでの喧騒が嘘のような静けさに包まれた。


「因果は応報・・・悪い事はできひんなぁ・・・」


全てを見届けたマハラティーはヘンリックがつい先ほどまでいた場所まで歩み寄り、膝を曲げる。


そこには、もう何かがいたという痕跡すら残っていない。


「あっちできちんと気張ってな・・・ウチはそっちには行かれへんから・・・」


ヘンリックの積み重ねた悪事には、極刑が待っている事は彼女も解っていた。


しかし、人の理から外れた彼はもはや人には裁けない。


そうなれば、裁きを下すのは神の役目である事を、マハラティーはアコから教わっていた。


「そうなぁ・・・もし、来世で会うたらその時は、夫婦めおとになろか」


神として生きる以上は、人としての喜びや悲しみを捨てる事。


それは人並みに結婚して子を産み、家庭を持つ事も含まれる。


彼女は既に祝福を受ける側では無く、授ける側であるのだから。


「だから、今は・・・堪忍なぁ・・・」


マハラティーは自分の眼から涙が溢れだした事に驚く。


あれほど失望して、あれほど罵声を浴びせられたというのに、彼女はまだヘンリックの事を嫌いにはなれないまま、彼のプロポーズを台無しにしてしまった。


いかに彼が悪人だからと言って、その感情まで否定する事まではできない。


全てを偽っていたヘンリックの中で、マハラティーへの恋慕だけは真実だったからだ。


「堪忍して・・・おくれやす・・・」


彼女はこの一瞬だけ神としてではなく、1人の人間としてヘンリックに謝り、祈った。


どうか、次の彼の人生が幸福でありますように、と。

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