因縁
やがてその隙間からは画材が持つ特有の油の臭いが漂ってくる。
それが秘宝への期待を、確信へと変えるのだ。
「この臭い・・・まさか?」
「おい坊主、灯りだ!」
興奮を押さえ切れないドーベルマンはジェイクからランタンをひったくると、扉の隙間から無理やり体を中へ滑り込ませた。
「えぇっ!? ちょ、ちょっと落ち着いて!」
「ワタクシ達を置いていかないでください~」
慌てて2人も扉の隙間を蟹歩きで通り追いかけると、カンテラを手にたたずむドーベルマンの背中が眼に入る。
その向こう側に(それ)は有った。
イエロー、シアン、マゼンタ。
3原色と呼ばれる全ての色の源である3種類の画材が、部屋の中央にある古びた机の上に並べられていた。
その圧倒的な色彩が持つ存在感に3人は圧倒され、時を忘れたかのように目を奪われ続ける、紛れも無く神が残した秘宝である事の証拠だった。
イエローは天から降り注ぐ朝日を溶かし込んだように眩い。
シアンは透き通る河から大海原のように色が移ろい、瓶の中で無限に渦を巻く。
マゼンタは熱く滾る血潮、焼けた鉄のように明滅するその色は、画材が心臓の鼓動を刻んでいるかのようだ。
「これがカーブル山の神が残した秘宝・・・」
「よ・・・よし、取るぞ・・・」
恐る恐る秘宝の前に立ち、震える腕を伸ばすドーベルマン。
安全を確かめるように何度か瓶に触れると、ゆっくりとそれを持ち上げる事に成功した。
イエローの秘宝はまるで生物のようにほんのりと熱を持ち、優しい光を放っている。
ドーベルマンは後方に目配せすると、残る2人もシアンとマゼンタの秘宝を手に取って間近で眺めた。
瓶の中に小さな世界、もしくは星が収められているかのような秘宝に感嘆し、見とれてしまう三人、その静寂はものの数秒であったが、永遠に感じられるほどの時間だった。
「こちらだ! この奥だ、急ぐぞ!」
その声は、稲妻のような衝撃で彼等の耳に鳴り響いた。
複数人が洞窟を掛ける足音が時間と共に大きくなり、近づいてくる。
「ぐっ! あいつ等、帰ってきたか・・・」
「ドーベルマンさん、しばらくこれをお願いします」
ジェイクは秘宝を一旦ドーベルマンに預ける代わりにカンテラを受け取ると、慎重に鉄扉から外に出て広間の入り口に目を向ける。
そこには松明を持つベン、肩で息をするスレッシュ、そして見知らぬ男の三人が広間を興味深そうに見回していた。
「はぁ・・・はぁ・・・兄貴、あいつ等がいますぜ」
「ヨハン? 貴様何故ここにいる!」
扉から出てきたばかりのドーベルマンが最後尾から叫んだ。
目線の先には誰の目にも上質な毛皮のコートを羽織った老紳士の姿が映っている。
それは寒さから身を守るには丁度良いが、華美な装飾は山登りには向いているとは思えず、足元の靴やズボンの裾にはほとんど汚れていない。
夜の険しい山道をいかにして登ってきたのかは、隣で荒い息をしているスレッシュが物語っているだろう。
「愚問を・・・老いぼれて少しは聡明になるかと思ったが、相変わらずイライラする鈍さだな、ドーベルマン」
眼鏡の汚れをハンカチで拭いながら、まるで旧友にでも再会したかのように軽い口調で返答するヨハン、だがその眉間には深いシワが刻まれ、瞳からはアンチェインの画材よりもドロドロとした憎しみが噴出している事をドーベルマンは知っている。
「貴様の方こそ、その傲岸不遜は治っておらんようだな」
「お知り合いですか?」
2人の視線が火花を散らす中、空気が読めないのか肝が太いのか、はたまたアルコールの仕業か、メリッサが会話に割り込み問いかける。
「別に親しいワケじゃない・・アンチェインに住んどるただのボンボンだ」
「ただの?・・・違う、お前のせいだ、お前のせいで私はできそこないの烙印を押されたんだ!」
「押したのは貴様の両親だ、何が気にくわなったか知らんがな」
「とぼけるな、お前が私からコンクール優勝の座を奪い、シュトラウス家の名に泥を塗ったんだ!」
2人の間には浅からぬ因縁がある様子で、それもかなりの犬猿の仲である事が言葉の節々から感じ取れる。
「ふんっ! とんだ逆恨みだな」
怒気を孕んだ言葉の応酬に中々口を挟む事ができないでいるジェイクであったが、アンチェインにおいてコンクールの順位が人生に関わってくる優劣である事は理解できた。
それも個人のみならず、家や血筋の名誉に関わるほどの重大さで。
「黙れ、我が家名を汚す者は誰であろうと排除される運命にある、お前も、あの審査員達もな!」
「やはり貴様の仕業か、ワシに濡れ衣を着せたのは・・・」
ジェイクとメリッサは思わず息を飲んだ。
ドーベルマンを破滅へと追い込んだ盗作疑惑の犯人、彼自身に目星はすでについていたようだ。
ただ、それを証明する手段が無いまま時が過ぎ、その流れの中で嘘は事実と歪められてしまう。
その歪みを正すのは、歪められた時の倍以上の労力と時間を要するだろう。
「そうかな? お前は落ちるべくして落ちたのだ、私はきっかけを与えたに過ぎない」
「では貴様が落ちぶれたのも運命という訳だな?」
全く悪びれる様子の無いヨハンに対して、ドーベルマンも負けずに悪態をつく。
これには余裕の表情を浮かべていたヨハンも怒りに眉を震わせた。
「戯言を! 私はこれから上り詰める、そのためにここに来たのだ、さぁ・・・秘宝を渡せ」
「素直に渡すと思うか?」
青筋を立てながら手を差し出すヨハンに対して、突き放すように腕を組むドーベルマン。
最初から成立するとは思えない交渉は、当然のように決裂した。
「だろうな・・・おい、お前達、やれ」
「命令は具体的に頼む、私もスレッシュも消耗してな・・・ふぅ・・・無駄は極力省きたいのだ」
ベンは懐からタバコを一本取り出し、松明で火をつけ一服を始める。
大きく吸い込み、深呼吸するかのように肺に入れ、一気に吐き出し、抜けてゆく煙を口腔で味わう。
ナハトで摘み取られ、乾燥、熟成、巻きまで丁寧に仕上げられた一品で、決して高価では無いが、彼にとっては故郷を思い出す特別な味だ。
「仕方ないな、では・・・殺せ」
あまりにも冷たいその一言は、広場の空気を一気に冷え切らせる。
カーブル山の凍てつく空気が一段と肌に突き刺さるような寒さだ。
彼はこの場で何のためらいも無く、殺し合いをさせようとしている、その事実に本人以外の全員が目を見開いて愕然としている。
「殺せ? 道中話したと思うが相手は手練れだ、そこまでする理由を聞きたい」
再び紫煙を吐きながらベンが尋ねた、燃え尽きた灰が短くなったタバコから粉雪のように落ち、音も無く床に落ちる。
「理由?・・・私と奴の会話を聞いていなかったのか? あいつは私の人生を狂わせた、その報いを受けさせるのだ」
「なるほど、良く理解できた・・・君の考えが」
ついにベンは言葉の端々から不機嫌さを露わにし、すっかり小さくなったタバコを床に捨て、靴でもみ消した。
「では、今すぐに」「断る」
努めて冷静に、そして事務的にベンは応えた。
「・・・何だと!?」
ヨハンは予想外の返答に、しばし反応が遅れた様だった。
ジェイク達もまさかベンが依頼を拒否するとは考えていなかったようで、開いた口が塞がらないでいる。
「我々はたしかに他人を殺める事はできるが、その一線は超えない事にしている、他を当たってくれ」
「兄貴ぃ・・・俺も兄貴と同じだ、人殺しになってまで、金を稼ぐつもりはねぇ!」
ただ1人、彼の考えを理解しているスレッシュだけが、静かに頷きながら同意した。
そして訪れた長い沈黙、ヨハンにとってここにいる全員が自分の味方では無いという事実が彼自身の精神とプライドを蝕んでゆく、それは最悪の結末を招くには十分すぎるほどの傷だった。
「勝手にしろ! そうやって私の事を見下しているが良い、だが最後に笑うのは私だ・・・おい、それを貸せ!」
怒り心頭のヨハンは顔を真っ赤にしながらベンの握っている松明を奪い取ると、真っすぐにジェイク達の方へと向かって来た、その目線の先には古びた橋が有る。
無論、そこに刻まれた警句を読む暇など、彼には無い。
「い、いかん・・・止まれヨハン!」
「誰がお前の言う事など!」
思わず不倶戴天の敵であるはずのドーベルマンが制止するが、すでに誰にも耳を貸す事のできない彼が聞き入れるわけも無い。
そしてそのまま、ヨハンは橋に足を踏み入れた。
「・・・・・・馬鹿モンが」
思わず目を覆ったドーベルマンの手のひらの向こう側で、橋の木板はまるで水面のように彼の足を飲み込み、底なしの奈落へと誘いこむ。
ヨハンはそのまま悲鳴を上げる暇も無く全員の視界から消えた。
「・・・何だ!?」
「兄貴、ヨハンさんが消えちまった!」
松明だけを残して跡形も無く消えたヨハンを探して、ベンとスレッシュは慌てて橋へと駆け寄る。
命令を拒否しても、彼らにとってはまだ守るべき対象であり、仕事の依頼人であるようだ。
「止まれ!」
しかし、それは虎の口に頭を突っ込む事と同義である。
彼等がヨハンと違っていた点は、素直に制止の声を聞くことができる精神状態にあった事だ。
2人はジェイクの声に反応して、ピタリと橋の目前で足を止めた。
「その橋は危険です、絶対に渡らないで下さい」
「なるほど、そういう事か・・・おいスレッシュ、下がれ」
ベンは橋の前でゆっくりと膝をつき、転がっている松明をつまむように拾い上げ、具合を確かめた。
「でも兄貴、このままじゃ・・・」
「諦めろ、もう死んでいる・・・行くぞ、厄介事に巻き込まれたくない」
心配そうな顔をして橋を見つめるスレッシュに、ベンはあっさりと切り捨てて背を向ける。
「厄介事って何ですかい兄貴?」
「金持ちの老人がよそ者と一緒に夜な夜な出掛けて戻ってこない・・・警察はまず誰を疑う?」
「・・・あぁっそっか、またネグラ探しか」
ベンはヨハンが消えた事に対して警察から濡れ衣を着せられる事を恐れているようだ。
最初は想像がつかないスレッシュも合点がいったようで、すぐさまベンの後を追おうとしたが、一度だけためらいがちに橋の方を盗み見た。
まだ依頼主が死んだ事を信じられず、後ろ髪を引かれる思いのようだ。
「バッカニアはご存知ですか?」
ジェイクは足早に立ち去ろうとする2人を呼び止めた。
「最近ロズウェルの支店ができたと聞くが・・・それ以外は詳しくない」
ベンは素っ気無く返す、今は一刻も早く姿を眩ませることが彼の中では最優先事項のようだ。
「静かで食事が美味しい所です、今度骨休めに来ませんか? 良い宿も紹介しますよ」
ジェイクの提案にベンは一本のタバコに火をつけた。
会ったばかりで、しかも先ほどまで敵対していた相手が自分達の雲隠れを手助けしようとしている。
それを信用しても良い物か、彼は紫煙を燻らせながら思案した。
しばしの沈黙が広間を包む、長いようで短いそれの終わりを告げたのは、燃え尽きて指の間に収まらないほどに小さくなった彼のタバコだった。
「考えておく・・・行くぞスレッシュ」
「ウス!」
短く曖昧な返答をしながらタバコを踏み消すと、彼は相棒を引き連れて広場から姿を消した。
明言こそしなかったものの、ジェイクとメリッサはまた近いうちにバッカニアで2人に会えるような予感がした。
「はぁ~・・・一時はどうなる事かと思いましたわ」
「とにかく、僕達も山を下りましょう、秘宝を早く安全な所に保管したいです」
ジェイクは貴重な秘宝をいつまでも持っている事に不安を覚えるらしく、帰路を求めてランタンの灯りを頼りに広間を探し始め、それにメリッサも後に続いた。
そうして橋のそばには、ドーベルマン1人が残った。
「ヨハンの奴め・・・何を言うかと思えば最後まで恨み言か、結局ワシ以外にぶちまけられる相手がいなかったのか・・・馬鹿モンが」
彼は橋を覗きこみながら、誰に対してでもなく、独りごちた。
瞳の奥では若い頃の出来事がまるで走馬灯のように映っては消えてゆく。
ヨハンとはかつて純粋に腕を競い合った時もあった、しかしいつからかそれは嫉妬から一方的な憎悪へと変わってしまった。
「ドーベルマンさーん、こっちに行けそうな道がありますよ」
「あぁ解った!・・・・・・悪いがしばらくは(そっち)には行けんぞ、生憎とワシにファンできたんじゃよ・・・じゃあな」
ドーベルマンは己を奮い立たせるかのように、一度だけ大きく深呼吸をすると、自分を呼ぶ声の方へと歩き出す。
その胸は高鳴っていた、何しろ彼にはこれからの芸術家人生で初めてのファンサービスを行わなければならないのだ。