胡桃の樹の下で
沿岸都市バッカニアは静かな朝を迎えた。
風もない、雲もない、波も穏やか。
日に日に上昇する気温も今日は鳴りを潜め、少しばかり肌寒い気温の中でジェイクは小高い丘の上にある家の玄関から町を見下ろしていた。
「ん~良い天気だ~」
ジェイクは大きく伸びをすると、救貧院へと繋がる坂道を下ってゆく。
バッカニアの朝は都市が最も元気な時間だ、漁師達は海から戻り、魚市場が賑わう。
そして一仕事終えた者も、これから仕事に向かう者も、活力を求めて群がるのだ、屋台へと!
それはジェイクも一緒だった、空腹に喚く胃袋を鎮めるべく、歩き続けるのだ。
しかし、その前にやる事がある、今ではすっかり習慣になってしまったが、少し前の自分では考えられない事だ。
いつもまっすぐ突っ切る道を、途中で曲がり、救貧院の門をくぐると、庭先で洗濯物を干しているミーモと目が合った。
「おはようございます」
「おはようジェイクちゃん、メリッサちゃんならいつもの所、随分と張り切ってるみたいよ」
「どうも、ちょっと声をかけてきます」
ジェイクはそのまま歩を進め、救貧院の裏手へ向かう。
建物の陰になって表からは見えないが、建物の裏にはわずかながらスペースがあり、住居者がお茶を楽しんだりするためのイスとテーブル、そしてクルミの木が植わっている。
「88・・・89・・・90」
その木の下にメリッサはいた。
地面にうつ伏せになり、落ち葉の上で拳立て伏せをして汗を流している。
バオバオの別れてからという物、彼女は毎日鍛錬を続け、それを怠った事は無かった。
「おはようございます、今日もやってますね」
「あら、おはようございますジェイクさん、しばしお時間を頂けますか? もうすぐで100回なんです」
「良いですよ、朝食は逃げたりしません」
ジェイクは日に焼けニスの剥げたイスに腰掛け、今日の予定を確認するべく懐からたたんだ紙を取り出した。
教団の諜報部から送られてきた調査依頼書だ、初回のバオバオと出会った日以来、調査は全て空振りに終わっている。
秘宝が壊れていたり、奪われていたり、そもそもただの噂であったりと散々な結果だ。
だからこそ価値が有るものと言われればその通りなのだが、幸先の良いスタートを切ったしまったがために、その後が振るわないのは辛い物がある。
例えるならば、初めてのギャンブルはビギナーズラックで大勝したが、その後は負けが込んでいる、と言った所だろうか。
調査リストが順調に減っているならばまだ救いようがあるのだが、何しろ目標が次々と追加されるのだからキリがない。
「99・・・ひゃ、ひゃく・・・はぁ~・・・」
鍛錬のメニューを終えたメリッサは肩で息をしながら立ち上がる。
全身から汗を流している彼女の表情は疲れこそある物の、晴れやかな表情をしていた、ミーモの子供のお下がりをいくつかもらったらしく、男物の無地の白いシャツにグレーの作業用ズボン、動きやすく汚れても問題がない、質素とはいえ今の彼女には有難い品だ。
「お疲れさまです・・・飲みます?」
ジェイクは携帯している朱色の瓢箪を差し出した。
メリッサが腰に下げている黒の瓢箪は猿酒しか出ないため、食事や寝酒に飲むならばともかく、水分補給には不向きだ。
「どうも・・・ングッング・・・ふぅ~神様の水はいつ飲んでも美味しいですわ! ワタクシもこちらを頂けば良かったかしら?」
「僕たちは人間ですから、四六時中猿酒を飲むというわけにもいかないですからねぇ、でも猿酒がないとそれはそれで困るでしょう?」
「ウフフ、冗談です、ワタクシの目標のためには猿酒が必要不可欠ですから・・・それに、水が欲しければジェイクさんから分けてもらえば良いのです」
悪戯っぽく笑うメリッサ。
いつのまにかこんな風に救貧院の裏でお喋りするをする事も2人の日常になってしまった。
「それにしても、あれから毎日欠かさずなんて・・・精が出ますね」
「ふふん、(新しい酒は古い革袋に入れてはならない)、ですわ・・・ワタクシも過去に取らわれ続けるわけにはいきません、新しく生まれ変わるのです」
それは(いつまでも古い形式に拘ってはいけない)という例え話である。
まるで己の言葉に胸を張って話すメリッサだが、ジェイクはその言葉の出所に心当たりがあった。
「それはもしかして、バオバオさんの受け売りですか?」
「もう~ジェイクさんったら・・・それは解っても言わないのが紳士という物ですわ」
得意げにしたり膨れたり、コロコロと表情が変わるメリッサはまるで子供のようだ。
図星を突かれご機嫌を損ねたのか、瓢箪をジェイクに放るように返すが、ジェイクはそれを笑って受け止める。
「おっと失礼・・・それより、続きは歩きながらにしません? 朝食は逃げませんけど、美味しい物は早い者勝ちですよ?」
「はっ! そうでした、すぐに着替えて参ります」
数少ない楽しみである食事を逃すまいとメリッサは慌てて自室へと駆け出す、1人残されたジェイクはゆっくりと立ち上がると、地面に落ちていたクルミの葉を拾い上げる。
「新しい酒・・・古い革袋・・・」
葉の茎をつまみ指でクルクルと回すジェイクは、メリッサの言葉を頭の中で反芻しながら救貧院の門へと歩き出した。
「僕はさしずめ古い酒の入った古い革袋・・・いや、もしかしたら酒を通り越して酢になってるか、それとも・・・」
空っぽか? とまでは恐ろしくて口にできなかった。
ザダとその血族に育てられ、庇護なくば生きられない人形に、はたして中身などあるのか。
クルミの葉は成熟した果実が地に落ちて芽を出し、成長して生やしたものだ。
では、地ではなく海に落ちた場合ははどうなるのか、どこへ流れていくのか、行きつく場所などあるのか、借りに生きながらえて芽を出したとして、それはまだクルミなのか?
ジェイクは答えの出ない底なし沼のような思考にはまってゆく、名家出身で好奇心旺盛なメリッサに比べて自分があまりにも希薄でおぼろげである事に危機感を覚えた。
神のために仕えるまでは良い、神のあり方、人との繋がり、歴史、文化、そこを突き詰めて追い求めるのには興味もある、だがその先に一体何があるのか、そもそもその思考は自分のものなのか、じぶんとはなんなのか。
「ジェイクさん?」
「はい!?」
突然声を掛けられ我に返ったジェイクは声の主の方へ振り向く。
そこには外出用の上着を羽織ったメリッサがジェイクの顔を興味深そうにのぞき込んでいた。
「また何か考えこんでいましたね? それも先ほどの話に関係がある事かしら?」
「あ~・・・まぁ、はい」
「ジェイクさんが古い物に興味があって、歴史と信仰を重んじる人間である事は解っています、だからと言って自分を卑下するなんて駄目です、そのクルミだって幹から新しい枝が生えますけど、古くなった幹が悪であるはずがないでしょう?」
「うぅ・・・」
ジェイクは握っていたクルミの葉に目が移る。
メリッサは悪、という言葉をあえて使った、新しい物全てが善であると限らないように、古い物が全て悪であるはずもない。
ジェイクはまさに図星だった、己の存在は新しい時代に相応しくないのではないかと。
「古いお酒も一緒です、それを造った人がやり方を残しているから、次の人が新しくて美味しいお酒を造る、それが人の営みという物ですわ」
「・・・僕は、新しい人のために古い物を伝える役目、そういう事ですね」
「解ればよろしい」
まるで教師のような物言いだ、彼女に学問を教えた者の真似か何かだろうか。
「気を使わせてしまったみたいですいません・・・ちなみに・・・」
「何かしら?」
「それは誰の受け売りです?」
「ワタクシのオリジナルです!」
メリッサは聞くなりズンズンと救貧院の門をくぐり、屋台の集まるアーケードへ向けて歩き出した。
「あぁ、ちょっと、メリッサさん待ってくださいよ、冗談ですってば~」
「知りません!」
ジェイクなりの照れ隠しだったのだが、どうやら、彼は歴史よりも女心についてを学んだ方が良さそうだ。
持っていたクルミの葉を放り出し、慌てて後を追うジェイクの顔は、もう一点の曇りも存在していない。
「ごめんなさい!」
しかし、実に彼の前途は多難である。
何しろ、空腹な人間の機嫌を取るほど面倒な事もないからだ。




