Ep162. 小さな違和感
名医とは、病気を見つける人のことではない。違和感を見逃さない人のことだ。
診療所がようやく落ち着き始めた昼過ぎ、新しい患者がやって来た。四十代ほどの女性で、腕に籠を抱えている。
「こんにちは、バーバラさん」
母――バーバラは、笑顔で椅子を勧めた。女性はほっとしたように腰を下ろす。
「少し咳が続いていてねぇ。薬をもらおうと思って」
「熱はありますか?」
「少しだけ」
「喉は?」
「痛くないよ」
乾いた咳。軽い発熱。喉の痛みはない。
――風邪か。
俺はそう思った。だが、一つだけ気になることがあった。女性の手だ。指先、爪。ほんの少し、青白い。
前世の知識が、静かに反応する。血流。呼吸。循環器――そのあたりの異常を疑うべき兆候だ。
いや、決めつけるな。この世界では、同じ原因が同じ結果を招くとは限らない。前世の常識をそのまま当てはめるのは危険だ。俺は口を挟まず、黙って観察を続けることにした。
「最近、お仕事は?」
バーバラが尋ねる。世間話のような、しかし何かを探るような問いだった。
「パン屋が忙しくてねぇ。朝早くから夜まで働いてるよ」
パン屋。毎日、粉を扱う仕事だ。
――粉……?
俺は女性の服にそっと目をやった。袖のあたりに、白い粉がうっすらと付いている。小麦粉だろう。
バーバラも同じところを見ていたのか、少し考え込むような間を置いてから、静かに尋ねた。
「咳は、仕事中に多いですか?」
女性は驚いたように顔を上げた。
「え?」
しばらく考えて、はっとしたように答える。
「そういえば……そうかもしれない」
「家では少し楽になりますか?」
「うん。夜はあまり出ないねぇ」
風邪だけではない。俺も、少し遅れて同じ結論にたどり着いていた。おそらく、単純な感染症というより、日常的に吸い込んでいる粉塵が喉を刺激しているのだろう。
「少し喉が、粉で荒れているのかもしれません」
バーバラは、女性を怖がらせないよう、努めて優しい声で説明した。
「薬も出しますが、休憩の時にお水を飲むようにしてください。できれば、口もゆすいでくださいね」
「そんなことで変わるのかい?」
女性は半信半疑といった様子だった。長年の習慣を変えることに、少し抵抗があるのかもしれない。それでもバーバラは急かさなかった。
「試してみましょう。それでも治らなければ、また考えます」
決めつけない。一つの答えに飛びつかず、可能性を一つずつ、丁寧に確かめていく。それがバーバラのやり方だった。
女性は、安心したように笑った。
「ありがとう。やってみるよ」
◇ ◇ ◇
患者が帰っていくと、診療所の中はまた静けさを取り戻した。俺は椅子に座ったまま、しばらくの間、母の横顔をじっと見つめていた。
――すごい。
素直に、そう思った。
バーバラは、薬だけを見ていたわけではない。病気の名前だけを追いかけていたわけでもない。あの人の暮らし、仕事、毎日繰り返される習慣。そういうものすべてを、ひとまとめにして診ていた。
咳という一つの症状の裏に、パン屋という仕事があり、粉塵という環境があり、何年も積み重ねてきた生活のリズムがある。バーバラは、その全部に目を向けたうえで、ようやく「粉で喉が荒れているのかもしれない」という一つの仮説にたどり着いたのだ。
しかも、それを断定はしない。試してみて、それでも駄目なら、また考える。そうやって、患者と一緒に答えを探していく。
前世の俺は、患者を診ていた。検査データを読み、症状を分類し、病名を割り出す。それはそれで、間違った仕事ではなかったはずだ。限られた時間の中で、できる限り正確な診断を下すことを、俺なりに誇りに思っていた。
けれど、母は違う。
母は、患者の人生を診ている。
その差は、俺が思っていたよりも、ずっと大きかった。
病名だけを知りたいわけではない人間が、目の前にはいる。仕事を辞めるわけにはいかない人、生活のリズムを簡単には変えられない人。そういう事情を丸ごと抱えたまま、それでも少しでも楽になりたいと願って、この診療所を訪れる。
バーバラは、そのことをちゃんとわかっている。だからこそ、薬を渡すだけで終わらせない。生活のどこに原因が潜んでいるのかを一緒に探し、無理のない範囲で、できることを提案する。
それは、教科書には載っていないやり方だ。けれど、目の前の一人の人間を救うためには、きっと欠かせないものなのだろう。
俺は、まだそこまでの域には遠く及ばない。知識だけならば、前世の分もあわせて、人より多く持っているかもしれない。それでも、母のように、患者の暮らしそのものに目を向けることは、まだうまくできない。
いつか、俺も。
あんなふうに、人を診られるようになりたい。
そう思いながら、俺は静かに、次の患者を迎える準備を始めた。




