Ep142. 町から来た患者
世界は村だけではない。前世の俺は広い世界を知っていた。王都、学会、研究都市。数えきれないほどの土地を巡り、数えきれないほどの人間を診てきた。だが今の俺にとって世界とは、この小さな村だった。生まれ落ちてからずっと、俺が目にしてきたのは畑と森と、点在するいくつかの家だけだ。だからこそ、村の外から人が来ることは珍しい。
その日は、昼を少し過ぎた頃だった。俺は台所の隅で干した薬草を選り分けながら、窓から差し込む午後の光をぼんやりと眺めていた。風はなく、外では鶏が時折鳴くだけの、いつも通りの静かな時間が流れていた。
そのとき、家の前で馬車の止まる音がした。ガタリ、と車輪が石を踏む音。続いて馬の鼻息と、地面を蹴る蹄の音が響いた。俺は思わず手を止め、窓から外を見た。
見慣れない二頭立ての馬車が、家の前にゆっくりと停まっていた。荷台には見覚えのない紋章が描かれている。おそらく町の商会のものだろう。塗装は上等で、造りもしっかりしている。少なくとも、村の中で見かける荷馬車とは明らかに違う代物だった。
「失礼します」
低く落ち着いた声とともに、扉が開いた。姿を現したのは、三十代ほどの男だった。旅装束に身を包み、革の外套は土埃で汚れている。長旅をしてきたことは、その様子からも一目瞭然だった。男の右腕には、白い布が巻かれていた。ただの布ではない。よく見ると、布のところどころに薄く赤い染みが滲んでいる。
「こちらに腕のいい薬師がいると聞きまして」
男はそう言いながら、部屋の奥にいる母を見た。バーバラは手にしていた鉢を置き、静かに微笑んだ。
「私で良ければ」
その声には気負いも驕りもなく、ただ自然な落ち着きがあった。俺はその声を聞くたびに、不思議と安心する。前世でどれだけ多くの医者や薬師を見てきても、こういう声を出せる者は多くなかった。
男は勧められるままに椅子へ腰を下ろした。バーバラが近づき、丁寧な手つきで腕の布を解いていく。俺は少し離れた場所から、その様子をじっと見つめていた。子供らしく無邪気に見ているふりをしながら、頭の中では前世の知識が静かに動き出していた。
布が解かれ、傷が露わになる。長い切り傷だった。刃物によるものだろう。傷口自体は、思っていたよりも塞がりかけている。だが、それだけではなかった。俺は思わず目を細めた。
周囲が赤い。皮膚がわずかに腫れ、熱を持っているのが遠目にもわかる。感染だ。おそらく軽度の炎症だろうが、放置すればもっと悪化する可能性もある。
「いつのお怪我ですか」
バーバラが尋ねる。声に焦りはない。ただ、必要な情報を確かめる、いつも通りの落ち着いた口調だった。
「五日前です」男は少し肩をすくめながら答えた。「町で診てもらったんですが、旅を続けていたら腫れてきまして」
なるほど、と俺は内心で頷いた。無理をしたのだろう。傷を負った直後は多少の処置で済んでいたとしても、長距離の移動や不十分な休養は、治りかけの傷にとって決して良い環境ではない。馬車の揺れ、汗、埃、それらすべてが傷口には負担になる。
バーバラは傷を丁寧に診ていく。指先で周囲にそっと触れ、熱の具合を確かめる。表情は変わらないが、指の動きにはわずかな慎重さが加わっていた。
「熱がありますね」バーバラは静かに言った。「傷口をもう一度きれいにしましょう」
男が微かに顔をしかめた。
「また洗うんですか」
「ええ」バーバラは頷いた。「少し痛みますが、その方が治りが早いです」
迷いのない返答だった。俺はその言葉を聞きながら、思わず母の横顔を見つめた。痛みを伴う処置を告げるとき、多くの者は言葉を濁したり、必要以上に優しく包み込んだりする。だがバーバラは違った。必要なことを、必要な分だけ、まっすぐに伝える。それでいて、決して冷たくは聞こえない。むしろその率直さこそが、相手に安心を与えているように俺には思えた。
男は少し観念したように息を吐き、腕を差し出した。
バーバラは湯で薄めた消毒液を用意し、清潔な布を使って丁寧に傷口を洗い始めた。俺はその手元をじっと見ていた。汚れを落とし、傷の状態を確かめ、新しい薬草をすり潰したものを塗り、最後に布を巻き直す。一連の動作に無駄がない。以前よりも明らかに手際が良くなっている。薬棚を整理し、道具の置き場を決め、必要なものをすぐに取り出せるようにしてから、処置にかかる時間は目に見えて短くなっていた。
男は最初こそ顔を歪めていたが、途中からは黙って腕を委ねていた。バーバラの手つきに、余計な動きが一切ないことに気づいたのかもしれない。無駄のない仕事というのは、それだけで信頼を生む。俺は前世でも、そういう場面を何度も目にしてきた。
処置が終わると、バーバラは新しい布できつすぎず緩すぎない加減で腕を包んだ。
「今日は馬車で休みながら移動してください」バーバラは言った。「重い荷物は持たないこと。それと、できれば汗をかいたら早めに布を替えてください」
男は苦笑いを浮かべた。
「商売柄、それが一番難しいんですがね」
「難しくても守ってください」バーバラの声は柔らかいが、揺るがなかった。「傷は薬だけでは治りませんから」
その一言に、男は一瞬、意表を突かれたような顔をした。それから、少し驚いたように笑った。
「町の医者にも同じことを言われました」男はそう言いながら、包帯の巻かれた腕を見下ろした。「でも、あなたに言われると、不思議と守ろうと思えます」
その言葉に、バーバラは少し照れたように笑うだけだった。多くを語らない。だが、その微笑みの中には確かな温かさがあった。俺はその表情を見ながら、これもまた母らしいと思った。褒められても浮かれず、謙遜しすぎもせず、ただ自然体でいる。
男はしばらくその場に座ったまま、腕を軽く動かして具合を確かめていた。それから懐から布袋を取り出し、代金を差し出した。バーバラは受け取り、丁寧に礼を言う。特別なことは何もない、いつも通りのやり取りだった。
「また傷の様子がおかしければ、近くの薬師に診てもらってください」バーバラは付け加えた。「無理に旅を続けないように」
「肝に銘じておきます」
男はそう言って立ち上がると、扉に向かって歩いていった。歩き方は来たときよりも幾分しっかりしているように見えた。気のせいではないだろう。処置の安心感というのは、時に体そのものの調子にまで影響を与える。
扉の外で御者が待っていたのだろう、すぐに馬の足音と車輪の音が聞こえ始めた。ガタリ、ガタリと遠ざかっていく音を、俺はしばらく黙って聞いていた。
◇ ◇ ◇
男が帰ったあと、俺はしばらく扉を見つめていた。
町から来た患者。それはつまり、母の評判が村の外まで届き始めているということだ。俺はその事実を、静かに、しかし確かな重みとともに受け止めていた。
前世の俺は、名声を求めていた。誰より優れた医魔術師だと証明したかった。より難しい症例を解決し、より多くの人間から称賛されることを望んだ。研究都市の学会で発表を行い、王都の貴族からも一目置かれる存在になろうと必死だった。それが正しい道だと、疑いもしなかった。
だが母は違う。バーバラは評判を広めようとしたことなど一度もない。看板を出すわけでもなく、噂を流すわけでもない。ただ、目の前に来た患者を一人、また一人、大切に診てきただけだ。腫れ物を診るときも、切り傷を縫うときも、熱で苦しむ子供を看病するときも、態度は常に変わらなかった。誰であろうと、同じように丁寧に向き合う。
その積み重ねが、いつの間にか評判となって、村の外からも人を呼んでいた。誰かが誰かに話し、その誰かがまた別の誰かに話す。そうして少しずつ、静かに、しかし確実に広がっていったのだろう。宣伝も、自己主張も必要なかった。ただ、誠実に仕事を続けることこそが、何よりも雄弁な証明になっていた。
俺は自分の前世を思い返す。あれほど名声を追い求めていたにもかかわらず、本当の意味で信頼された記憶がどれだけあっただろうか。称賛された記憶は多くある。だが、心から信頼されていたかと問われれば、俺は答えに詰まる自分に気づく。
医術とは、名声を追いかけるものではない。信頼を積み重ねた先に、自然とついてくるものなのだと、俺は今、この小さな家の中で改めて理解しつつあった。それは前世で何十年もかけて学べなかったことを、この幼い体でわずかな年月のうちに教えられているような、そんな不思議な感覚だった。
俺は母の背中を見つめる。薬棚を片付け、使った道具を丁寧に洗っているその後ろ姿は、何も特別なことをしているようには見えない。だが、その何気ない一つ一つの積み重ねこそが、今日、遠い町から人を呼び寄せた理由なのだ。
窓の外では、馬車の音がすっかり消えていた。代わりに、いつも通りの鶏の鳴き声と、風に揺れる木々の音が戻ってくる。何も変わらない、いつも通りの村の午後だった。だが俺の中では、また一つ、新しい答えが静かに芽生えていた。
名声ではなく、信頼を。派手さではなく、誠実さを。俺は母の背中を見ながら、その答えを胸の奥にそっと刻み込んだ。いつか自分がこの手で誰かを癒す日が来たとしても、決して忘れてはいけない答えだと、そう思いながら。




