第二章 錬金都市エクリヴァル ー 静かな不発
二日目は、特に――何も起きなかった。
少なくとも、目に見える範囲では。
爆発もなければ、暴走する錬金術師もいない。禁炉が開くことも、塔が崩れることもなく、街はただ、いつも通りに稼働していた。
エクリヴァルは、そういう街だ。
危険がないから静かなのではない。危険が日常に溶け込んでいるから、静かに見える。
ルーチェは朝から歩いていた。
研究塔の影が伸びる通り。錬金具を扱う露店が並ぶ小路。古い石畳の下で、魔力の脈がかすかに脈打つ区域。
どこも「異常」ではない。だが同時に、「正常」とも言い切れない。
焦げた薬品の匂い。甘すぎる触媒の蒸気。
人の声に混じる、魔法陣の起動音。
すべてが混ざり合い、街の呼吸を形作っている。
ルーチェはその中を、迷いなく進む。
地図は――ほとんど見ていなかった。
角を曲がる前に立ち止まり、風の流れを読み、塔の配置を見上げ、地下から上がる魔力の濃淡を感じ取る。
そして、進む。
社員が気づいたときには、
「あ、そこは地図に――」
と言いかけた道が、すでに正解であることが多かった。
「……ルーチェ様」
昼前。小さな文献館を出たところで、社員が声をかける。
「本日は、成果は……」
「うむ」
ルーチェは即答した。
「特にないでござる」
否定でも、落胆でもない。事実をそのまま並べた声だ。
古文書は調べた。錬金史の写本も確認した。覚醒に関する理論書も数冊、目を通した。
だが――
テリアに直接結びつく記述は、どこにもなかった。
ホーリードラゴンの覚醒。
環境魔力による共鳴。
都市型魔導炉の影響。
どれも可能性としては書かれている。
だが「それだ」と言える確証はない。
「……普通でござるな」
ルーチェは、ぽつりと呟いた。
社員が一瞬、言葉を選ぶ。
「普通、ですか?」
「うむ」
ルーチェは歩きながら続ける。
「この街は、異常が多すぎて、どれが原因か分からぬでござる」
それは批判ではない。観察結果だ。
「一つひとつは強いが、強すぎて、逆に決め手にならぬ」
社員は息を呑む。
的確すぎる分析だった。
テリアは、ルーチェの肩で静かにしていた。
眠ってはいない。だが、起きてもいない。
黄金の瞳は半分だけ開き、街の魔力に反応するたび、わずかに瞬く。
怖がっている様子はない。だが、落ち着いてもいない。
まるで――
何かを待っているようだった。
「……焦れておるな」
ルーチェは、誰に言うでもなく呟く。テリアの小さな爪が、外套を軽く掴んだ。
「大丈夫でござる」
指先で、そっと撫でる。
「一日で答えが出ぬのは、想定内じゃ」
そう言い切れるのは、旅慣れているからではない。
命を預かる側の覚悟を、すでに持っているからだ。
夕方。
宿へ戻る前に、もう一箇所だけ立ち寄る。
街外れ。
廃棄された旧錬金工房の跡地。
公式記録からは消され、
地図にも「空白」として残されている区域。
「ここは……」
社員が言いかけて、口を閉じる。
ルーチェは足を止め、空気を嗅いだ。
古い炉の匂い。失敗した実験の残滓。そして――微かだが、確かに。
テリアの魔力と、似た揺れ。だが、それはすぐに霧散した。
「……過去の痕跡でござるな」
期待も落胆もない声。
ただ、「今ではない」と理解しただけ。
夜。
宿の部屋は静かだった。
二重の鍵。遮音の結界。
外の音は、ほとんど届かない。
ルーチェは椅子に腰掛け、テリアを膝に乗せる。
「今日は、ここまでじゃ」
テリアは小さく鳴き、丸くなる。
白光が、ほのかに部屋を満たす。
眠りを守るための、最低限の光。
ルーチェは目を閉じる。
二日目は、特に何も起きなかった。
――だが。
何も起きなかったという事実そのものが、この街では、不自然なのだと。
白光の魔導士は、その違和感を、静かに胸に刻んだ。
嵐は、まだ来ていない。
ただ――
確実に、溜まっている。
◇
三日目の朝は、穏やかだった。
錬金都市エクリヴァルは、夜の炉火を落とすと、
まるで何事もなかったかのように理知的な顔をする。
白い塔は静かに立ち、
街路には紙と革と金属の匂いが混じる。
ルーチェは、古書館の扉をくぐっていた。
目的は明確だ。
覚醒、共鳴、竜種、都市魔力。
昨日と同じく、調査だ。
……そのはずだった。
エクリヴァルの裏通り。
研究塔の影から少し外れた場所に、その書店はあった。
間口は狭く、看板も小さい。
派手な魔導紋も、呼び込みの声もない。
だが、扉の前に立った瞬間――
紙と革と、ほんのりと古い魔力の匂いが鼻をくすぐった。
ルーチェは、足を止める。
「……ここでござるな」
確信めいた呟きだった。
中は静かだった。広くはない。
だが、棚は天井近くまで積み上げられ、一冊一冊が、慎重に選ばれて並んでいる。
新刊は少ない。
代わりにあるのは、刷り直されなくなった理論書、
研究者の私家版、正史からこぼれ落ちた覚書のような本ばかり。
魔導理論。錬金実験録。失敗事例集。
禁忌指定前に書かれ、そのまま忘れ去られた原典。
店主は奥で帳簿をつけており、客を気にする様子もない。
ルーチェは、自然と棚の奥へと足を向けていた。
目的の棚を探している――
というより、魔力の流れに導かれている。
この店には、表に出ない知識が、静かに眠っている。
そして。ふと、一本の背表紙が目に入った。
◇
白地に、金色の箔押し。
古くも新しくもない、控えめな装丁。
それだけなら、見逃していたかもしれない。
だが、その著者名を見た瞬間――
ルーチェは、ぴたりと動きを止めた。
「――――ふぉぉっ!?」
思わず、声が漏れた。
店内の空気が、一瞬だけ止まる。
社員がびくりと肩を揺らし、店主がちらりと顔を上げる。
だが、ルーチェはそれどころではなかった。
「わ、わが師……アルマさまが……書いた書物でござる!?」
両手で本を取り上げ、信じられないものを見る目で表紙を凝視する。
「知りなんだ……!このような街の、このような店に……!」
声は低い。
だが、抑えきれていない。
白光が、ほんのりと外套の内で揺れた。
師の名。確かな筆致。
記憶にある、あの理論構成。
間違えようがなかった。
ルーチェは、我慢できずに近くの小卓へ向かう。
店の隅に置かれた、
客用の簡素な閲覧机。
椅子を引き、腰を下ろす。
そっと、本を開いた。
そして――
ルーチェは、完全に没頭した。
内容は、光魔法と錬金術の相互干渉について。
白光を「結果」ではなく「過程」として扱い、
錬金反応の媒介として組み込む理論。
魔力回路を光で安定させ、触媒の暴走を抑制する設計。
そして何より。光を力ではなく、秩序として定義している。
「……なるほど……」
ページをめくる指が、止まらない。
「このような術式が……拙者は、知らなかったでござる……」
行間に、師の声が聞こえる気がした。
『力を出すな。整えろ。光は、導くものだ』
「……さすがは、アルマ師」
自然と、微笑みが浮かぶ。時間が、溶けていく。
◇
どれほど経っただろう。
はっと、我に返る。周囲の音が戻ってくる。
紙をめくる音。羽ペンの走る音。
遠くの時計の、低い刻み。
「……いかん」
ルーチェは、本を閉じた。
「いかん、いかんでござる」
自分に言い聞かせるように、もう一度。
「先んじてこの都市に来ている目的は――テリア殿の謎を解明するため」
師の教えに浸るのは、楽しい。
だが、今は違う。
守るべき命が、ここにある。
肩を見る。
テリアは、静かにこちらを見ていた。
まるで「戻ってきたな」とでも言うように。
「すまぬでござる」
小さく謝り、それから――
もう一度、本を見る。
そして、何事もなかったように立ち上がり、
受付へ向かった。
◇
「……こちらを」
差し出されたのは、
さきほどの書物――だけではなかった。
白地に金箔の一冊。
その下に、やや薄手の理論書が二冊。
さらにその横に、古びた背表紙が一冊。
静かに、しかし確実に、増えている。
社員が少し遅れて、目を見開いた。
「……ご購入、ですか?」
「うむ」
即答だった。迷いがない。言い訳もない。
「後で読むためでござる」
嘘ではない。ただし――
「後で」が、いつなのかは誰も知らない。
会計を済ませ、本を一冊ずつ丁寧に受け取る。
外套の内側へ、順に収めていく所作は、
まるで大事な魔導具を仕舞うかのようだ。
最後の一冊を入れ終えたところで、
ルーチェは、ふと動きを止めた。
外套の内側を、指で軽く数える。
「……」
一呼吸分、考える。
「……うむ」
小さく、頷く。
「このくらいなら……まだ、許容範囲でござるな」
「許容範囲……?」
社員が思わず聞き返す。ルーチェは、少しだけ視線を逸らした。
「これ以上増えると、あとで氷の副社長殿に、静かに……しかし確実に……お叱りを受けるでござる」
妙に具体的だった。
あの冷え切った視線を、すでに脳内で一度浴びている顔である。
「調査費の範囲内ですよねと、穏やかな声で確認されるのが……なかなかに、堪えるでござる」
社員は、そっと目を逸らした。分かる。とても、分かる。
ルーチェは外套の留め具を整え、満足げに息をつく。本は増えた。
だが、目的は忘れていない――つもりだ。
「……さて」
声を切り替える。
「これ以上は、我慢でござる」
本当に我慢できるかは、次の書店次第である。
白光の魔導士は、ちゃっかりと知識を懐に収めながら、何事もなかった顔で店を後にした。
戦利品の重みを、外套の内に感じながら。
◇
古書館を出たら、昼の光が、街路を照らしている。
塔の白が反射し、石畳に淡い影を落とす。
ルーチェは一度だけ、深呼吸した。
「……よし」
声の調子が変わる。
研究者の顔から、守る者の顔へ。
「必ず、みつけるでござる」
肩のテリアが、小さく鳴いた。
白光の魔導士は、師の知と、現在の使命を両方胸に抱き、
再び――
錬金都市エクリヴァルの奥へと歩き出そうとした。
「……ルーチェ様」
その背後から、控えめな声。
足を止める。振り返ると、荷物を抱えた社員が、穏やかな表情で立っていた。
穏やかすぎる表情で。
「一つだけ、よろしいでしょうか」
「……うむ?」
その瞬間。
ルーチェの肩が、ほんのわずかに跳ねた。
「本日の調査、とても順調かと思いますが――」
少し、間を置く。
「……あまり、購入しすぎないでくださいね」
「……」
空気が止まる。
ルーチェは、外套の内側を、無意識に押さえた。
ぎくり。
「……あ、あれは……」
言いかけて、口をつぐむ。
言い訳が思いつかない。
いや、思いついてはいるが、どれも氷の副社長殿の前では無力だ。
「調査費の範囲内ではありますが」
社員は、にこやかに続ける。
「帳簿を拝見するのは、最終的に……あの方ですので」
「……」
脳裏に、氷点下の視線がよぎった。
静かな声。丁寧な確認。
逃げ場のない論理。
「……善処するでござる」
小さく、だが真剣に答える。
テリアが、くすりと鳴いた――
ような気がした。
「よろしいかと存じます」
社員は軽く会釈し、再び歩き出す。
ルーチェは一歩遅れて、ついていく。
決意は揺らがない。使命も変わらない。
ただ一つ。
次の書店では、深呼吸をしてから入ろう。
白光の魔導士は、
そんな実に人間らしい誓いを胸に、
再びエクリヴァルの街へ溶け込んでいった。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
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