幸田露伴「荷葉盃」現代語勝手訳(3)
其 三
人間に備わっている寿命よりも長生きすれば、他人からは死ねといわんばかりに扱われ、自分でも早く死ねばいいのにと思っていても、糸のような生命はかえって細々と生きながらえるものである。
逆に、前世の宿命により、往生の時が来た時には、人に惜しまれ、自分も今少しだけは長らえたいとこの世を惜しむが、あの世からの使者に敢えなく連れ去られてしまう。人間とはそんなものではないだろうか。
おとわは眞里谷の家に引き取られてから、医薬はもとより朝な夕なの計らいに何一つ行き届かないところは無いくらいもてなされてた。そんなことをしてもらう理由などないのに、そうしてもらう心苦しさはあるものの、お力と新右衛門の容赦無い振る舞いを見て、日に夜に何度も胸に悶えの雲を湧かせ、袖に涙の雨を降らし、神も道理もない世のように、人をも身をも恨んでいるよりはここにいる方がくつろげ、身体も休まれば、自然と病気も軽快に向かって行った。
眞里谷に移ってきた年の翌春、村の稲荷の初午祭で里の子ども等が普段着から藍の匂いのする着物に着替えて遊びさざめく頃は、少し元気にもなり、時折顔を見せる新三を相手に、青柳の家が栄えていた往時話、倉は幾棟あったとか、僮僕は何十人使っていたとか、秋の収穫時の倉入れの祝いはどれくらい盛んだったとか、年暮の餅つきはどれほど賑やかだったとか、鎮守の祭には毎年、我が家から幟一対と神酒、神饌を社に納め、五駄の酒(*一駄は馬または牛一頭に背負わせるだけの分量)を村中の若者に出してやれば、どれ程家の評判が良く、尊敬されたかとか、今日は初午だから行ってみればよい、赤倉稲荷にもその頃我が家から奉納した幟が今もあるはずだなどと話す。
そんな様子を物陰から聞いていて、これぞまさしく『物もらいの系図話』と世間で言われていることなのだなと、お静が老婆の心中を察して、いじらしがっているのも知らず、ややもすれば唾の涸れる舌でもってくどくどと長たらしく、かれこれ一時間余りも話し続ける程勢いづいていたが、菜の花が咲き、麦の穂が出てくる頃から病状がぶり返して次第に悪くなり、善意の真心で木更津から医者を迎えるまでして手を尽くしたが、老病なのでどうしようもなかった。死出の山から飛んで来ると言われるホトトギスが、姿も見せずに一声鳴いて飛んで行き、森影暗く、星淡い暁天方に薄雲が消えるようにこの世を去った。
この世で悪いこともしなかったお蔭か、臨終の時も安らかに、苦しげにも見えず、お静に助けられて身を掻い巻きに寄せたまま、四、五日前から側を離れず引き添っている新三郎の手を取って、光彩もぼんやりしている眼で、しばらくは言葉もなくただ見詰めた後、
「新や、お前はこの婆が亡くなった後は、何事もこの家の叔母様にお願いして必ず立派な男児になれ。お小夜様とも仲良うして絶対に我が儘をするな。自分勝手な言い草でやんちゃな喧嘩などするな。お行儀よくして大人しく、好い児だと人に褒められるよう、叔母様の仰ることを守って立派な男児になって、それからきっとご恩を返せ、婆はお前の本当の母のお作と一緒に遠いところから見ていますぞ。よくこの婆の今言うた言葉を一生忘れるな」と、震え震えに言い終え、
「ああ、お静殿にはどういう縁でか、大層お世話になりました。死んでもご恩は忘れません。新右衛門めもお力めも棄てた私を拾い取って昨日までも今日までもご介抱いただき、お礼の言いようもございません。とてもこの世でご恩を返すことはできませんが、できることならきっと、草葉の陰からでもせめてお小夜様のお身体のお幸せを祈りましょう。新三の今後のことは何分にもよろしくお願いいたします」と言えば、お静はおとわの気を引き立たせようと、
「何の、叔母様、そのように心細いことを仰らずともいいものを。及ばずながら新様のことに関してはきっと私が面倒を見て、悪い方に向かわないよう庇いますから、まあご心配なされますな。追っつけこちらにおいでになるとのことなので、新右衛門殿、お力殿もやがてお見えになることでしょう」と言うが、老婆は苦い顔をして、
「ああ、言うてくださるな、厭な厭な新右衛門、お力。私がこちらへ参ってからこちらへは義理でも毎日見舞いに来るべきなのに、遂に一度も顔を見せない薄情者の新右衛門。それをそうまで仕込んだお力の悪魔女、顔を見るのも、ああ、厭々。ああ、もう、お暇申します。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」と、静かに称名し始め、その後は再び他のことは言わず、ただ仏願(*仏が生きとし生けるものを救おうと立てた誓願)の力を頼み、無雑の念に身を委ねて西方浄土の嬰児になろうと仏の御名を微かに呼びかけながら、徐々に息が細くなり、遂に絶えれば、取り乱した新三は、
「祖母様、祖母様」と呼び、慎み深いお静でさえ、我を忘れて高く叫ぶが、答はなく、軒に吊したしのぶに架かっている風鈴が、吹いているのかさえ分からないくらいの朝風に揺られて、小さくチリチリ……と忙しげに鳴るだけであった。
つづく