第三十五話・幸せの階段
ホームへ向かう駅の階段を上るまで、何度も彼を振り返ってしまった。振り返らなかったら、そっけない子だと思われそうで不安だった。でも振り返ったとき、彼がそこにいなかったら寂しくて傷つきそうだった。
彼はずっとそこにいて、私に微笑んでくれたのに。素直に浮かれることが出来ない私が嫌だ。もういくら好きになっても苦しくなることはないのに。この性格、薫くんと一緒に時間を過ごしているうちに、治せるのかなあ。
薫くん、薫くん、薫くん……!
自己嫌悪に至る度に彼の優しさを反芻して、じゅわーっと胸を温めなおす。今日の薫くんの事を思い出すと、付随して私に向けられた悪意も思い出さなきゃいけないところが辛いところだけど、トータルではプラスだ。薫くん、好き。
家に帰ると、留守中に三人もの人から電話が来ていたことをお母さんに教えられた。掛かってきた順に折り返しの電話をする。タマちゃんからは初詣に一緒に行こうというお誘い。野村先輩からは次期クラブ部長会議についての打ち合わせの話。そして……みねこ先輩からは明日の予定と、今日何があったのかを訊かれる。あからさまに電話の向こうでニヤニヤしているのが分かるような声音が私の心を煽り立てた。こんな時に限って床屋の方はお客さんが来てなくて、お父さんがすぐ近くで一服しているので、話を聞かれやしないかとヒヤヒヤした。その場は適当に誤魔化したけれど、私は携帯電話を購入しようと決意する。この間のバイト代は使わずに取っておいてあるし。
お風呂の中で明日の事に思いを馳せる。
明日、どんな服を着ていこうかなとか、やっぱりメイクはするべきなのかなとか。今日はみねこ先輩に、ちょっとぐらい汚れてもいい服を着てきてと言われていたので、おしゃれではなかった。だけど明日は汚さないように注意しつつ可愛くしなきゃいけないだろう。冬服には色合いこそ地味だけどお気に入りのニットがある。この前よりはずっと自信ある。うん。冬のカラッ風は私の癖っ毛に意地悪をしないのが有り難い。うん、大丈夫。メイクの方は……あれ以来、一度も塗ってないし、。お母さんにいきなり使わせてと頼むのも恥ずかしい。……リップクリームだけは口紅の練習が出来て恥ずかしくないという理由で買ってあるから、それだけはちゃんとしていこう。……あっ、別に期待している訳じゃないけど。頭をぶんぶん振って妄想を振り払ったら髪から跳ねた水滴が顔に当たって冷たかった。
次の日の電車の中、私は乗客の女の子達を見かけると、服装やメイクの有無をチェックしていた。意識しながら見ていると参考になる。特に、カップルになっている女の子はそういうのに気を使っているなと分かる。そのぶん、わたしのおしゃれの未熟さが少し不安になってくるのだけれど、慣れないことをしておかしなことになるくらいなら、今の自己ベストで行こうと昨晩決めたのだ。不安になる度、私は自分に言い聞かせ直した。
「あれ、ズミちゃん、かんわいいねえ」
駅前でみねこ先輩が会うなりそんなことを言う。自尊心をくすぐられて顔が汚くにやけそうになるのを、ありがとうございます、と頭を下げて誤魔化す。
「ね、ね、やっぱり昨日何かあったんでしょ?」
みねこ先輩はやっぱり昨日の受け答えでは満足できなかったらしい。先輩の家に行くまでの間、私は質問攻めを受け、薫くんに助けてもらったところまでは嘘偽りなく話した。でもその後にあった凄く大切なことまでは言わない。今日の漫画のお手伝いは午後5時までということは昨日伝えてあるが、その後の時間を薫くんと過ごすということも勿論言ってない。恋愛関係で冷やかされるのは嫌い。中学時代の私はは幸か不幸かそんなことをされたことはなかったけれど……葛名君のあの姿は、見てて我が事のように苦しかった。
私は話をそらす。
「そう言えば先輩の彼氏さんはマンガ描くの手伝ってくれないんですか?」
「んー拓哉は読む専門だって。っていうか、アイツ、もうすぐセンター試験だしね」
「あ、受験生だったんですか」
呼び捨てなので同じ学年だとばかり思っていた。付き合うと年齢差超えて呼び捨てになるのかな。それまで「先輩」とか「さん」とか敬称をつけていた人を呼び捨てにするときの心境ってどんなもんなんだろう。
「そう、だから私、最近恋愛不足気味なのよねん」
それで私にやたら恋愛関係で絡んできたのかな。
「今日手伝ってもらう新作も、ラブラブ成分多めです」
みねこ先輩はそう言いながら笑った。
62番のトーンを主人公に貼りながら。
「どうして漫画の主人公の女の子って、みんな綺麗なんでしょう」
「ん、何?」
私は顔を上げ、先輩の方を向く。
「たまには、綺麗じゃない子が主人公であってももいいじゃないかと思うんです」
「え、そういう主人公ならいっぱいいるでしょ?」
「設定上はそうなのかも知れませんけど……ほら、例えば『ガラスの仮面』の北島マヤなんて平凡な容姿だという設定のはずなのに、どう見ても美少女ですよ」
「ああ、まあ、それはフィクションとして見栄えがいいから」
「それを言っちゃおしまいですよ」
「んん、見栄えっていうのは馬鹿にできないよ」
そう言うとみねこ先輩は視線をずらし数秒考え込んだ。
「漫画ってのは所詮絵だから、視覚情報だけで読者にいろいろ伝えなきゃいけないでしょ。だから伝えたいこと……いい意味で伝えたいことならば綺麗に描くし、よくない意味で伝えたいことは醜く描くのよ。実際にそうであるか否かは敢えて考えない。フィクションとリアルの最大の違いはそこね」
「ん……」
「そういうお約束の元で、読者は作者の伝えたいことを知るんじゃないかな」
「美醜は作者の肯定否定を示す、ってのは面白いと思います」
「漫画だったら、の話ね。できるだけ多くの読者に共感してもらうために分かりやすい描写を選ぶってこと。美術全般の話になると、そんな単純な問題じゃなくなるだろうけどね。そこまでいくと、私よりズミちゃんの方が深く考察できるんじゃないかな」
「え、私なんて」
手を振ってそれを否定しながら、私はみねこ先輩の説を頭の中で反復する。
綺麗にすることが、肯定の意思表示になるというのなら……一般的に女の人が自分を美しくしようと飾るのは、何を意味することになるんだろう。
やがて約束の時間が来て私は申し訳ないという意思表示をしつつ、みねこ先輩の家を出た。原稿は8割がた完成した。でも1時間くらい前から浮足立ってたから、もう少し真面目にやっていたらもっと進んだかも知れないけれど。
そしてその足で今晩の待ち合わせの場所に向かう。駅前ではなくって薫くんのアトリエだ。駅前だと昨日の事を思い出して嫌な気持ちになるかもしれないからと、彼が気を使ってくれたのだ。
アトリエの前に来たところで窓にチラチラするものが見えたと思ったら、彼が手を振っていた。キュンと胸が弾んで、私は手を振りかえす。待っているって分かっていたのに何だか凄く嬉しかった。そのまま入口のドアに向かうと向こうからドアが開いた。
「メリークリスマス」
「め、めりーくりすます」
クリスマスだけどその挨拶をしたことなんて今まで一度もなかった。されたこともなかった。でも薫くんなら違和感ないのが流石と言うか。
「寒かった?」
「ちょっと」
「とりあえず入りなよ。少し身体を温めてから行こう」
「うん」
アトリエは、温かくそして絵の具の匂いの混じった空気で満たされていた。
「紅茶淹れるよ」
「あ、ありがとう」
コートを脱いで掛け、ソファへ向かう。前みたいな失敗はしないようにちゃんと座る。あの時の悲しさはまだハッキリと覚えているけど、随分前のことのように思える。
「あ、そうだ薫くん」
「うん?」
おしゃれなティーポットとカップを持って薫くんが戻ってくる。
「先に渡した方がいいかなって思って」
私は鞄の奥から包みを引っ張り出す。
「クリスマスプレゼント。昨日の今日だから、あんまり考える時間がなくて」
「ありがとう。ああ、マフラーか」
包みを広げた薫くんが微笑む。今日、来るときに二件隣のお店で買ってきた物だけど喜んでくれてよかった。
「うん、ありがとう。これ、早速巻いて出かけよう」
「うん」
ホッとする。
「それじゃ、僕のほうからもクリスマスプレゼント」
彼は部屋の隅の方に行ってすぐ戻ってくる。
その手に持っているのは……あれ?
「これは、この間和美がここに忘れていった帽子。渡すタイミングがなくてね、はい」
彼が帽子を私の頭に乗せると、帽子に隠れていたものが見えた。白い紙の小箱だった。
「開けてみて」
うん、と頷いて、箱の蓋を取る。
「わ」
そこにあったのは手のひらより少し大きいくらいの黒い環。シルバーのクロスが付いている。チョーカーだった。
「素敵」
「奇しくもお互いに首に巻くものになったね」
「あ、ホントだ」
微笑み合った。
「和美の細くて白い首に似合うと思って昨日作ってみたんだけど、どうだろう」
「え、薫くんの手作り? あ、これ、あ、そういえば昨日の!」
昨日アクセサリーパーツ屋さんで買ってたのはこれだったんだ……!
「つけてみてよ」
「……ん、うん」
なんてことはないんだけど、私はアクセサリーを人前で身に着けるなんて今までになかった経験で酷く緊張する。
首の後ろを留めてクロスの位置を調節して彼に披露した。
「ああ、よく似合ってるよ」
「ありがとう。私、こんなの初めてで、何て言っていいかわからないけど、ありがとう」
ああもう、デートはこれからなのに既に胸一杯だ。ううん、一杯どころかあふれてしまいそう。自分でも驚くほどに私は息が苦しくなる。いや、チョーカーのせいじゃなくって精神的な意味で。
「ね、ねえ、薫くん」
「ん?」
私は首に手をやって、再びチョーカーに触れる。
「やっぱり私には、こんないいもの似合わないんじゃない?」
ああ、馬鹿、何でこんなこと言っちゃうの!?
なのに止まらない。彼を困らせたくなんてないのにっ。
「正直言って私って全然可愛くないっていうか、むしろブスだし、そんな私とじゃ釣り合わないっていうか」
ああ、チョーカーのことだけじゃなくて私が薫くんのそばにいること自体を言ってるんだ。卑屈になった自分を冷静な自分が観察している。こんな私に対して薫くんの顔がしかめられるのが怖くて私は目をつぶってしまう。
「それじゃ、綺麗になって」
「え……ひゃっ」
首筋に触れられ、びっくりして目を開けてしまう。
「綺麗になってよ。和美」
「……」
彼は微笑みながらも眼は真剣だ。
「和美が綺麗になってくれれば僕は嬉しい」
「……」
「綺麗になってくれればくれる程、嬉しい」
正直、そんな風に言われるとは思っていなかった。彼に何かを期待していたのは事実だけど。
「和美」
「うん……うん」
わたしはごくりと唾を飲み込む。
「私、綺麗になれるよう頑張る」
「うん。それじゃ僕の視点から言わせてもらうけど、僕は、そのチョーカーは和美にとてもよく似合っていると思う。それだけじゃない、今日着てきたコートも、そのニットもよく似合っていて可愛い。僕のセンスを信じて欲しいな」
「うん、あぅ、薫くんのセンスを疑うなんて、そんなこと」
凄い、薫くん。私のコンプレックスを力づくで押し出した。凄い。
「紅茶もいい時間だし、飲もう」
私たちは向かい合って紅茶を啜る。これから行くお店がどんなところかを彼に聞いて、きっと楽しいことが待っているのだろうなと期待に胸が膨らむのだった。
書きたかったことはまだ残っていますが、一旦これにて終了とさせていただきます。
構想ではこの後、バレンタインデーイベント、和美が新入生の美術部員の男子に迫られてしまう話、薫が和美に自作のモデルを頼む話、和美の初体験、1話に登場したネコちゃんが家を訪ねてくる話等がありましたが自分のペースではいつ書けるのかわからないので、ここで区切りとします。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。そして申し訳ありません。