第80話「追う者と追われる者(漆)」
重茂と葵が初めて出会ったのは、まだ二人が子どもの頃のことだった。
親族同士の集まりで、子ども同士で腕試しをしようという流れになり、葵は男子たちを次々と薙ぎ払っていた。
重茂はというと、特に善戦するようなこともなく、あっさりと打ち負かされてしまった。
悔しさのあまり何度も勝負する者が多かった。重茂も一緒になって挑み、都度打ち負かされた。
やがて勝てぬことを悟り、皆が挑むことをやめた。ただ、重茂は一人だけ挑み続けた。
完璧である兄・師直に近づかなければならない。その思いに突き動かされてのことだった。
「大丈夫? なんだか辛そうだけど」
重茂の中にある何かを見て取ったのか、動きをがっちりと抑えながら葵が尋ねてくる。
「こうやってお前に押さえつけられてる方が辛い」
「そろそろ諦めた方が良いと思うけど。私に挑む前に、もうちょっと鍛えないと駄目だよ」
正論だったので、その場は諦めることにした。
そこから、会っては挑み、そして負け続ける関係になった。
「葵は、なぜそんなに武芸の腕を磨いたのだ?」
「なに。女子ならもっと他に学ぶことがあるだろうって言いたいの?」
「いや、ただ気になっただけだ。他意はない」
重茂の眼差しに虚飾がないと見たのか、葵は肩の力を抜いて笑ってみせた。
「他にやらなきゃいけないことが沢山あるからよ」
「……悪い。意味が分からないんだが」
「私だって南の家の女だもの。礼儀作法だとか学問だとかやらされてるの。これでも」
「うん」
「でも、そういうやらなきゃいけないことだけにすべてを懸けていたら人生辛いなって思ったのよ。だから、限られた時間でできる好きなことを、全力でやり抜こうって思ったの」
器用な生き方をするものだと、重茂は感心した。
兄・師直の代役が務まるくらいに自分を磨く。それが重茂に課せられていた役割だった。それは、あまりに高いハードルである。
他にやりたいことや好きなものを見出す余裕などない。
歌は嫌いではないが、それとて兄に追いつかねばならぬという想いがどこかにある。
「弥五郎は、好きなものとかないの?」
「うーん。今の話を聞いて考えてみたが、思い浮かばないな……」
「そっか――いつか見つかると良いわね」
そう言って葵が笑いかけてきたとき。
好きなものはともかく、好きな人はできたのだ。
重茂は、一度見たものは忘れない。ただ、それにも濃淡の差はある。
一番鮮やかに覚えているのは、そのときの葵の笑顔だった。
室内にいても肌寒い冬場の夜。
東勝寺の一角に用意された北条時行の部屋に、叔父の恵清が訪れていた。
「しかし、結城の爺も人が悪いものだ。まさか俺たちに足利の倅を見張れなどと申しつけてくるとは」
「我らは降将の身。仕方ありませぬ」
「その割に、意外と楽しそうに話をしていたようだな」
恵清はあのとき、時行一行の最後尾にいた。
距離はあったが、恵清は目が良い。新熊野と語らう時行の顔も、しっかりと見えていたのである。
「足利の倅はどうだ、使い物になりそうか」
「すぐには無理でしょう。なにせ今まで自分の素性を知らなかったのです。多少武芸の腕は磨いていたようですが、これまでずっと僧になるべくして育ってきた。武士となるには時間が必要です」
「……まあ、そうだろうな」
結城道忠の企てのように使うとしても、上手くいくのかどうか、時行には不安があるようだった。
恵清もその点は同感である。道忠もそうだろう。上手くいけば良し、いかねば時間稼ぎになれば良い、と考えている節がある。
「言っておくが、いかに味方につきそうだからと言って、足利と馴れ合おうとは思うなよ」
「別に、そのようなつもりはありませんが」
「そうか。……お前自身どう思うかという話ではない。今あえて我らに与するような連中で、足利に好意的な奴はほぼいない。そういうところから家が割れるようなことがあってはならんからな」
「承知しています」
時行の声に僅かな苛立ちが含まれたのを察して、恵清は口を閉ざした。
この甥と叔父は、こういうやり取りが多い。最後まで語り尽くすということは、まずなかった。
「邪魔をした。あとは俺が見ているから、お前は休んでおけ」
時行の部屋から出ると、ため息が零れ落ちた。
北条本家――得宗の復興を企んでいるのは自分だ。時行はそれに付き合わされているに過ぎない。
時行には資格がある。恵清もかつては掴むことができたかもしれないものだ。しかし、今となっては誰も認めはしないだろう。だから時行を担ぎ上げるしかない。
だが、時行は平穏な生活を望んでいるのかもしれない。落ち延びた先の諏訪での生活は、それなりに時行の心を癒したように見受けられる。しかし、それも今は失われてしまった。
すべては、北条復興のためである。
だが――時折、この道を歩んできて良かったのかと思うことがある。
自分一人で歩む道なら、こんな風に思うことはなかったのだろう。
「……いかんな。つまらぬ感傷に浸ってしまう」
場所が良くない。ここは北条一族のほとんどが自害して果てた地だ。
こんな場所を宿所に宛がうとは、道忠の人の悪さは天下一品である。
雑念を振り払い、周囲の物音に耳を澄ます。
どこか遠くで、がさりと音が聞こえた。
新熊野は、訳も分からず馬上の人になっていた。
手綱を握っているのは、後ろにいる葵である。
「葵殿。お、お聞かせください。なぜ、いったい――!」
日中にあったことを引きずりながらも、どうにか眠りに落ちた夜。
新熊野は、不意に訪れた葵に無理矢理起こされた。
彼女は「今は問答無用」と言わんばかりに新熊野を馬へ乗せ、夜の鎌倉を駆け始めた。
尋常な様子ではない。葵の身体があるせいでよく見えないが、後ろから他の馬の蹄音も聞こえてくる。重々しく、そして荒々しい音だった。これは共に駆ける仲間の発する音ではない。葵は追われているのだと、直感で理解した。
「……あのまま鎌倉に留まっていては、新熊野殿が北畠の将に仕立て上げられます」
「それは、仕方ないことと割り切っています」
「仕方ないで済む問題では――っ、ありません」
葵が一瞬言葉を詰まらせる。かすかに彼女の身体が震えたような感じもした。
不安になって彼女の顔を見上げる。葵は、いつも通りの様子で新熊野に真っすぐ視線を向けてきた。
「北畠の将として……吉野方の将として世に出れば、貴方は足利のほぼすべてを敵に回すことになる。それは貴方が想っている以上に――想っている以上に、取り返しのつかないことなのですよ」
風を切るような音が聞こえてくる。
新熊野の心に、不安が広がっていく。自分の置かれた状況に追いつけない。
「それは、足利にとって不都合というだけではないのですか。だから葵殿は、私をこうして無理矢理連れ出したのではないですか」
非難するように言うと、葵はしばらく言葉を閉ざした。
嫌な気配だけが増えていく。追跡者の蹄音だけではない。なにかが積もっている。それが、新熊野の内側をかき乱した。
「結局、葵殿は私が足利の子だから近づいてきた。貴方も道忠殿と変わらないのではないですか。私を利用しようとしているのではないですか」
それだけなのか。時行の発した言葉がしこりとなって残っているが、それを上回る不安が、新熊野の口から零れ落ちていく。
後悔と共に吐き出された新熊野の問いかけに、葵は訥々と答えた。
「そう、ですね。貴方に近づいたのは、貴方が足利の子だったからです。その出自ゆえに、誰かが貴方を利用しないかと」
聞きたくなかった言葉に耳を塞ぎたくなる。しかし、塞ぐための両手は馬の首を掴んでいた。
「――新熊野殿は、将軍になりたいと言っていましたね」
不意に話題を変えた葵に違和感を覚える。
しかし、何と返せば良いのか分からない。
「将軍というものは重いものです。大勢の命を預かり、導いていかねばならない。――貴方は、そんな将軍になれるだけの出自なのです」
足利の子という言葉が持つ重み。葵はそれを懸命に説こうとしているのだ。
「だからこそ、己がどのような道を歩むのか、考え続けていかねばなりません。他人から利用されるがままになっては、駄目です」
「……足利の言う通りにせよ、ということですか」
「いいえ――いいえ、そうではありません。足利に対しても、自分の意思をもって相対することが大事なのです」
そう言って、葵は新熊野の頭を撫でた。
こうして触れられるのは初めてだが、とても優しい動きだった。
思わず、泣きたくなるくらいに。
「武士たるもの、御家が第一。将軍になるならば、多くの御家のために生きなければなりません。しかし――それは御家に従うことと同義ではないのです。自らの意思で御家のために動く。それが立派な武士というものです」
遥か彼方に、篝火が見える。
別の集団が近づいてきているのだ。
新熊野は心臓が縮み上がらせたが、葵はむしろ馬をより急がせた。きっと、正面の集団は味方なのだ。
宵闇の只中、花つきの七宝紋が浮かび上がる。
「私も同じですよ、新熊野殿」
「え?」
「足利の御家のためを思って貴方に近づいた。それが、貴方のためにもなると信じて。貴方が立派な武士になってくれれば――私にとって、それ以上の誉れはありません」
後方の蹄音が、徐々に遠ざかっていく。
正面の集団を見て、追跡を諦めたのだろう。
どうにか逃げ切ることができた。正面の集団の人々の顔が見える距離になって、新熊野の胸中に安堵が広がっていく。
そのときになって、ようやく葵の真情というものが少し分かったような気がした。
時行の言っていたことも、今なら少し分かる。
見覚えのある武士が、新熊野たちの正面に進み出た。
その顔を新熊野は知っている。葵の夫――高大和権守重茂だった。
遠ざかっていく騎馬武者たちの音を聞き、ここまで辿り着いた二人を見る。
重茂はまず、新熊野に手を差し伸べた。彼を丁寧に馬から降ろす。
「よく、ここまで逃げ延びて参られました」
新熊野を労わるように肩を抱きかかえる。
これまで、ほとんど言葉を交わしたことはない。どう接して良いか、重茂の中で整理がつかなかったからだ。
「高殿……」
「重茂で構いませぬ。ここまで、よくぞ頑張られた」
「私は、なにも。ただ葵殿がここまで連れてきてくれたのです」
葵殿――そう言って、新熊野は馬上の葵を仰ぎ見た。
葵は答えない。
答えることが、できなかった。
背中に矢が七つ。
身を守る鎧もなにもない。矢は、すべて彼女の身体に深々と突き刺さっていた。
ぐらりと、その身体が大きく揺れる。
馬から落ちそうになった葵を、重茂はすかさず抱き留めた。
「葵」
呼びかけると、かすかに笑ったような気がした。
「良き働きをした。そなたは俺の誉れだ」
葵はゆっくりと重茂の頬に震える手を伸ばし、なにかを拭った。
束の間のことである。すぐに、その手は力を失って落ちた。
「重茂殿……」
新熊野が泣きそうな顔を向けてくる。
そんな彼に、重茂は強く頭を振った。
「今は、ゆっくりお休みなされ。しばらくの間、なにもかもを忘れるくらいが良いでしょう。……なにかを考えるのは、それからでも構いませぬ」
重茂は治兵衛に新熊野を預けながら、葵の身体をそっと自らの馬に乗せた。然るべき場所まで連れていってやらねばならない。
そのとき、自然と彼女に突き刺さった矢が目に入った。
矢には、名前が入れられている。
戦において誰の矢が誰を射抜いたか確認し、軍功を判断するためだ。
そこには短く「北条」と記されている。
「北条――」
鎌倉の方に視線が向く。
かつて北条の都だった場所。今、彼らはそこに還ってきている。
「そうか――北条か」
手綱を握る手に力がこもる。
気づかぬうちに噛み切っていたのだろうか。重茂の唇から、血が流れ落ちていた。





