第79話「追う者と追われる者(陸)」
重茂の元に鎌倉からの知らせが届いたのは、日が暮れかけている頃のことだった。
使者は、鶴岡八幡宮寺の頼仲から遣わされたという。
ここ数日、密偵が何人か姿を消している。もしかすると北畠勢に捕らえられたのかもしれない。
その中には葵も含まれている。ただ、葵は立場が立場だからか他の密偵とは違う扱いを受けているようだった。居所も既に掴んでいる。
今のところ無事なようだが、どうも彼女の周辺できな臭い動きがある。北畠顕家と新熊野が接近していたり、結城道忠が何度も東勝寺とのやり取りを続けている様子が見受けられたりする。もしかすると、新熊野を使った策謀があるのかもしれない――。
使者の言葉を聞いて、重茂は腹の痛みを覚えた。身体の内側から何か致命的なものを握りつけられたかのような痛みだ。
葵が鎌倉に残ると言い出したときから覚悟はしていた。だが、実際に彼女の身に何か起きているということを考えると、どうにもならない感情が湧き上がるのを抑えられえない。
「この策謀については詳細分かりませぬが、我が師は早めに手を打たねばまずいことになると仰せでした。そのため、今夜にでも新熊野殿と葵殿をそちらに脱出させたい、ついては迎えを用意しておいて欲しいとのことです」
「まことか」
「は、確かにそう仰せでした」
頼仲がそのように提案するなら、脱出させるための手筈は整っていると考えて良い。
迎えの者が必要というのは、追手が出てくることを想定しているのだろう。
危険は残るが、救出できる可能性はある。そのことが、重茂の心を僅かに軽くした。
「……いや、しかし頼仲殿が新熊野殿のことを知っていたとはな。いや、あの御方なら不思議なことではないか」
「我が師は、足利の殿から聞いていたそうです」
「そなたも、新熊野殿の素性のことは知っているのか」
「はい。私も足利一門に連なる身。何かあれば新熊野殿をお助けせよと申しつけられております」
使者はまだ若い。それこそ新熊野たちと大差ない年齢と言える。
「そなた、名は?」
「仲玄と申します。加子の家の生まれにございます」
「加子殿か」
奇妙な巡り合わせもあるものだと思わずにはいられなかった。
足利尊氏には、千寿王や新熊野とは別の子息がいた。尊氏にとっては最初の子で、大層可愛がっていたのを重茂も目にしている。
しかし、竹若丸と呼ばれたその子は既に亡い。尊氏が北条氏から離反して後醍醐天皇についたとき、北条氏によって殺害されたのである。
その竹若丸の母方の実家が、他ならぬ加子の家だった。
頼仲がこの仲玄を使者として遣わしたのは、まだ若くて怪しまれにくいというだけでなく、重茂に顔合わせをさせておこうという意図もあるのかもしれない。
「相分かった。仲玄、そなたは我が陣で休んでおくが良い。今から鎌倉に戻るのはいささか危険かもしれぬ」
「承知いたしました」
仲玄を下がらせると、重茂は真っすぐに千寿王の元へと向かった。
無論、二人を迎えに行く許可を得るためである。
「――そなたは、東勝寺の小僧だったな」
新熊野がぼんやりと鎌倉市中を歩いていると、声をかけてくる者がいた。
我に返って声のした方を見ると、馬上から見下ろしてくる若々しい顔があった。
北条時行。
先日、北畠顕家の供をして見たばかりの顔である。
いつの間にか、新熊野は北条時行の一党に取り囲まれていた。
思わずパニックになる新熊野に、時行は静かな笑みを向けた。
「何か思い煩っているようだな。我らと行き合っても気づかぬくらいに」
言われて周囲を見ると、他の人々は時行一行の邪魔をしないよう道を空けて頭を下げていた。
新熊野も慌ててその場に平伏する。
「も、申し訳ありませぬ。上の空になっておりまして……!」
「構わぬ。皆もそう脅すような構えを取るな。これは不問とする」
時行が告げると、新熊野は囲みから開放された。
「そなたも面を上げよ。東勝寺へ戻るところか?」
「は、はい」
「我らも今宵は東勝寺を宿所とするよう言われている。ちょうどいい、同道するとしようか」
皆は少し後をついてまいれ――供の者にそう告げると、時行は馬を降りて新熊野と並んで歩きだした。
「あ、あの。なぜ馬を降りられたのですか?」
「馬上からだと話しにくい。同じ年頃の者と話す機会は稀なのだ」
そう言って時行は新熊野の顔をじっくりと覗き込んできた。
朗らかなようでいて、どこか渇きを感じさせる瞳である。
「その様子だと、既に聞かされたか」
「……なんのことでございましょうか」
「そなたが足利の子である、ということだ」
急に切り込んできた時行に、新熊野は思わず悲鳴をあげそうになった。
足利は北条から離反して滅亡のキッカケを作った存在である。時行からすれば、親兄弟その他親族の仇だった。
「怯えずとも良い。確かに私は足利に思うところがある。特に尊氏殿や直義殿についてはな。だが、それでそなたを恨むようなことはせぬ。そなたは、我が一族の滅亡に何の関わりもなかったのだからな」
その言葉を鵜呑みにして良いか、新熊野には判断がつかなかった。
確かに新熊野自身は、北条を滅亡させたわけではない。しかし、足利の子ならばそれだけで関わりがあると言える。
新熊野は、北条から恨まれて当然の立場にいるのだ。
もっとも、今のところ時行は新熊野をどうこうしようというつもりはなさそうだった。殺気がまるで感じられない。
「察するに、道忠殿辺りから足利の子だと突然言われて戸惑っている、というところか」
「はい。……あ、いえ。正確には少し違うのですが――」
新熊野は言葉を選びながら、事の顛末を語った。
他に話すことがなかったからというのもあるが、自分の心を落ち着けるため、誰かに聞かせたかったというのもある。
「なるほど。思い煩っていたのは、その葵殿のことか」
一通り話を聞いた時行は、新熊野の悩みの要点を突いてきた。
足利の子であるということも衝撃だったが、これはある種どうしようもない問題である。
葵のことは、どうすれば良いか分からない問題だった。
「葵殿は、武芸だけでなく武士としての在り様もいろいろ教えてくれました。私に母がいたらこのような人だったのだろうかと、勝手に思ってしまったのです。そう、勝手な思い込みです。葵殿は足利の子ゆえに私を気にかけてくれていた。本当はそれだけだったというのに、どこかで裏切られたように思ってしまった」
改めて口にすると、情けない気持ちでいっぱいになる。
幼子でもあるまいし、このようなことで思い悩むなど、将軍を目指す者としてあるまじきことだ。
そう思っても、期待を裏切られたような無念が胸から消えない。
「私は母というものを知っている。今はもう会うこともできぬが、懐かしく思うことはある。母の如き人は、もうおらぬからな」
時行は新熊野を嗤うことをせず、訥々と語り始めた。
「私には、北条の復興を願う者たちが付き従っている。北条を復興させるにあたって、私に利用価値があるからだ。私が北条の復興を諦めれば、多くの者が離れていくだろう。中には寝首をかこうとする者もいるに違いない。だから、私は北条の復興を諦めることができない。やればやるほど、無理だという思いが強くなったとしても――な」
時行と新熊野は、後方を歩く時行の従者たちを見た。
皆、じっと二人の様子を見ている。時行を見守っているようにも見えるが、一方で時行を見張っているようにも見えた。
「それに比べれば、足利の子とは言えそなたは楽なものだ。東勝寺に預けられ、表向きは無関係な体で扱われている。そなた自身、今まで自分の素性を知らなかったくらいだ。親の心情は分からぬが、足利の一族としては、そなたはそこまで重要ではないのだろう」
「それは、そうかもしれませぬが」
「……葵殿とやらは、おそらくそんなそなたを気にかけてこの鎌倉に留まっていたのだ。でなければ、守護の奥方が密偵の真似事のようなことをするとも思えぬ」
時行の指摘に、新熊野は不意を打たれたような心持ちになった。
自分の身に起きたことで手一杯になって、葵の心情まで考えが及んでいなかった。
今に至って、ようやくそのことに気が付いたのである。
「足利の子ゆえ気にかけていた。それは事実であろう。しかし、私にはそれだけとも思えぬよ」
そんなことを話しているうちに、東勝寺が見えてきた。
どこかで鳥の鳴き声が聞こえる。葵と稽古していると、よくこの鳴き声を聞いた。
「ありがとうございます、時行殿。少し、心が晴れたような気がします」
「気にするな。そなたはきっとこれからが大変になる。そういう身の上の先達として役立てたなら、なによりだ」
まだ年若き北条の当主は、どこか老将のような雰囲気を漂わせながら笑ってみせた。
同日、深夜。
葵の姿は、東勝寺へと途次にあった。
一人である。鎌倉から脱出する手筈を整えていた頼仲の配下はいない。
先ほど、葵を宿所から逃がす際に結城の手の者に斬られた。思っていた以上に、道忠の警備が厚かったのである。
頼仲が手配していた馬が一頭と、敵兵から奪った長物が一振り。
今使えるのはそれだけだった。
「急がなければ……」
追手がいつ来るか分からない。
早く新熊野を連れて鎌倉を脱出しなければ、道忠の計略が動いてしまう。
それでは駄目だ。尊氏と敵対する形で世に出てしまえば、新熊野の将来は闇に閉ざされる。
少なくとも、親子の仲は取り返しのつかないことになるだろう。
月明かりが妙に眩しい夜、馬を必死に急がせながら、葵は東勝寺へと向かった。





