第30話「八幡の一党」
建武三年、五月末。
湊川の戦いで強敵・楠木正成と新田義貞を打ち破った足利軍は、陸路・海路に分かれていた軍勢を揃え、都へと辿り着いた。
「お待ちしておりました、足利殿」
京に入った足利軍を最初に出迎えたのは、醍醐寺の僧・三宝院賢俊と石清水八幡宮寺の祠官・善法寺通清だった。
両者とも、尊氏とは旧知の仲である。足利軍が無事京に戻ってくると知るや、石清水八幡宮寺まで来てほしいと使者を寄越したのである。
師直や重茂たち近臣を引き連れた尊氏・直義を出迎えて、両人とも安堵の表情を浮かべていた。
「お二人ともご壮健のようでなによりです。特に賢俊殿は、無事帰洛で来たようで安堵しました」
「その言葉は貴方にこそ送りたい。足利殿、よくぞ戻られた。院も一日千秋の思いで待っておられたようです」
賢俊は、後醍醐天皇の対抗者であり尊氏と手を結んだ持明院統と強い繋がりを持つ。
元々は持明院統に近しい日野家の出身である。そもそも尊氏と持明院統――光厳院を結び付けたのは、この日野家だった。
光厳院から「新田義貞を討伐せよ」という院宣を獲得し、危険を冒して尊氏にこれを届けたのは賢俊だった。
言わば、足利に大義名分をもたらした大恩人である。
「通清殿も、御祈祷の件、ありがとうございました。石清水八幡の神力によって、どうにか新田・楠木に勝利できました」
「なんの。源氏の無事を祈るのは八幡神に仕える者として当然の勤めにございます」
直義たちに恭しく頭を垂れる通清に、重茂は油断ならぬものを感じている。
八幡神は源氏の氏神――氏族を守護する武神である。それを祀る八幡宮寺の祠官なら、確かに祈祷は当然のことだろう。
ただ、それを言うなら戦った相手である新田義貞とて源氏である。
通清は八幡宮寺の祠官として有力な家柄――善法寺家の出身だが、父親によって嫡流から外されていた身である。
そのまま不遇の余生を送るかというところだったのだが、足利氏が朝敵となるやこれに結びつき、一か八かの復権を狙った。ただの謹直な祠官というわけではない。油断ならない勝負師である。
「足利殿、当面はこちらにご滞在なさいませ」
「良いのか、通清殿」
「ええ。この八幡宮寺には、足利殿に手向かおうなどという者はおりませんので」
よく言うわ、と重茂は内心毒づいた。
やって来た尊氏たち一行に戸惑いの視線を向ける神人・僧は少なくなかった。
自らと密接な関係にある尊氏たちを呼び込むことで、この石清水八幡宮寺を牛耳ろうという腹積もりなのだろう。
「ところで賢俊殿」
「都の状況でございますな」
通清も通清で食えない男だが、その隣で穏やかな笑みを浮かべている賢俊もまた食わせ者だった。
彼は大胆にも尊氏を追って西国まで秘密裏に院宣を届けてくるような男である。
公家出身の坊主とは思えないほどの胆力がある。ただ、その胆力は武勇とは別のところに使われる。
「帝は既に都にはおられません。以前と同じように、延暦寺にこもられました」
「そうか、帝は去られたか――」
後醍醐天皇との和解を願う尊氏は、口惜しそうに一言そう呟いた。
北条時行との戦いの後、独断専行を理由に朝敵とされた尊氏だったが、その独断専行も私欲あってのものではなく、後醍醐のためと考えての行動だった。話し合えばきっと分かってもらえる。そういう一縷の望みを捨てられないでいる。
もっとも、入れ違いになったことを悔やんでいる暇はない。
光厳院との合流、引き連れてきた軍勢の陣の用意、各地に散っていた味方との合流、降伏してきた者たちの扱いの取り決め等、やるべきことは山のようにある。
「さしあたっては院の周囲を固めなければなりませんな、兄上」
「ああ、そうだな」
釘を刺す直義に、尊氏はどこか気のない返事をした。
なりゆきで手を組んだ相手だからか、どうも尊氏は持明院統に向ける意識が希薄なところがある。
「現在、院はこちらの奥におられます。持明院統寄りの廷臣の方々もいますので、このままここを御所とされるのが良いかと存じます」
「廷臣はどれくらい残っている?」
「五摂家をはじめとして、それなりの人々が残っておられます。どの家も、帝につくか院につくかで割れているようですな」
五摂家とは、摂政・関白という帝の補佐をする職に就くことのできる五つの家を指す。
人臣における最高位の存在になれる、言ってしまえば貴族の中の貴族である。朝廷の中心に位置する人々とも言える。
彼らが在京しているということは、それだけ足利を評価しているということでもあった。
その事実に、尊氏・直義をはじめとする足利の面々は、安堵の息を漏らした。
「では至急軍の再編を進め、洛中の確保を進めます」
「足利殿。この地は仮とは言え御所。更に交通の要衝でもあります。洛中の確保もよろしいですが、信頼できる者を残されるのがよろしいかと――」
すかさず通清が口を挟んだ。
通清としては後ろ盾となる軍事力を留めておいて欲しいのが本音なのだろう。ただ、この地が交通の要衝であることも事実だった。
石清水八幡宮寺は、京の南西部の入り口とも言える位置にある。
もし南西部から帝に同心する者が進軍してきた場合、ここで防ぐ必要があった。院を守護するとなれば尚更重要な地となる。
「直義」
「そうですな。では――師泰」
「は」
呼びかけられて、重茂の前にいた師泰が直義の側に歩み寄った。
「石清水八幡宮寺近辺の守りを任せたい」
「承知仕りました」
師泰は力強く首肯した。友とも呼べる相手を失った悲しみは、少しずつ薄れていっているようである。
ただ、どうも師直となにかあったらしい。湊川での戦い以降、師直の名を出すと露骨に嫌そうな顔をする。
今も二人は近くにいるが、その間には溝のようなものが感じられた。
「なにがあったのでしょう」
「分からぬ」
こっそり耳打ちしてきた師久に、重茂はそう返すしかなかった。
石清水八幡宮寺は帝と廷臣、そしてそれを守護する尊氏らで手一杯になった。
それだけに、諸国から参集してくる武家たちは皆ここを目指してきた。必然、着到対応もここで行うことになる。
足利の軍勢が石清水八幡宮寺に入ってから程なく、大規模な軍勢が東から迫っているという報告が入った。
掲げているのは、四目結・桔梗の紋である。
「おそらく近江の佐々木と美濃の土岐だろう。味方かどうかはまだ分からぬ故、備えは怠るな」
報告を受けた重茂はすぐさま石清水八幡宮寺の防衛体制を整えた。
肝心の大将である師泰はというと、今朝方尊氏に呼び出されて奥に行ってしまっている。今後の方針について重要な話し合いを行っているようだった。
「大丈夫でしょうか」
不安そうに重茂の元を訪れたのは通清である。
抜け目のなさそうな男ではあるが、能力はあるらしい。
ここ数日様子を見ていて、重茂はこの男に対する見方を少し改めていた。
「ここは元々天然の要害とも言える場所。近隣には他の軍勢もいるので、まあ心配は無用だろう」
「今は師泰殿がおりませぬ。重茂殿が兵を率いるのでしょう」
「不服か」
「恐れながら、あまり戦が上手くないと聞き及んでおります」
「言ってくれるわ」
堂々とした態度ではないが、言うべきことはきっちりと言ってくる。
度胸があるのかないのか、分かりにくい男だった。ただ、怯えはしても狼狽はしていない。
「まあ、待とうではないか。殿は佐々木や土岐にも軍勢催促状を送っている。味方という可能性も十分にあるのだ」
はたして、しばらくすると二人の男が姿を見せた。
重茂も知っている二人組である。
「おお、執事の弟御ではないか。お勤めご苦労。佐々木判官、ただいま参上仕った」
「判官殿。……失礼、土岐頼遠、遅ればせながら参上いたしました」
佐々木判官道誉と土岐頼遠。
両者は共に、先年後醍醐天皇と袂を分かった足利軍に従ったことのある武将である。
奥州の北畠軍によって足利軍が京から九州に追いやられた際、両者はそれぞれの領国である近江・美濃に戻った。それ以来である。
「お久しぶりです、御両人。とすると、進軍してきた軍勢というのは」
「我らの味方衆じゃ。本陣には我が佐々木源氏の惣領・氏頼殿と、土岐源氏の惣領・頼貞殿が控えておられる。我らはその使いというわけよ。なあ頼遠殿」
「はい。土岐・佐々木ともに源氏の一党として足利殿に御味方いたす所存」
無遠慮な話しぶりの道誉と、どこか生真面目そうな頼遠。二人は相変わらずのようだった。
佐々木源氏・土岐源氏と名乗った通り、両者は足利とは別の源氏一族である。
どちらも近江・美濃という要所を本拠とする大規模な武士団だった。
「信濃の小笠原殿も早々に参陣したいとの連絡がありました。ただ、あちらは北条残党が国内に多いため、なかなか身動きが取れないとのことです」
「諏訪殿が気張っておられるようでなあ」
美濃から更に東にある信濃は、古代より勢力を誇る諏訪氏の多くが北条氏の味方をしている。
守護の小笠原氏は足利方として旗幟を鮮明にしていたが、諏訪氏を抑えるのに苦労しているようだった。
「しかしどこもかしこも源氏。足利軍はまるで源氏党じゃ」
「小笠原殿も源氏の流れを汲む一族ですからな」
「左様。足利殿が今後手綱を握らねばならぬのは、そんな源氏の寄り合い所帯。これはなかなか難儀なことであろうな」
足利氏は、諸国の源氏において現在もっとも勢力が大きいというだけで、佐々木・土岐と明確な主従関係を築いているわけではなかった。光厳院から獲得した院宣を大義名分とし、朝敵・新田義貞を討つため合力するよう依頼を出しているというだけである。
無論、ずっとその調子で世の中が収まるはずもない。足利を武家の棟梁とする新体制を構築していかなければならない。道誉が言っているのは、そういうことであった。
「なに、この佐々木判官。足利殿のことは盟友と思っておる。多少は都の方々との繋がりもある。延暦寺との戦も望むところ。せいぜい使ってくだされよ」
「ははは。これは頼もしい。我が殿もきっと頼りに思っておられることでしょう」
道誉の申し出には裏がある。それは重茂も承知していた。
佐々木源氏は元々延暦寺と所領について揉めることが多い間柄なので、そこと戦うのはそのまま佐々木源氏の利になる。
加えて、近頃佐々木源氏内部では傍流であるはずの道誉が勢いを増しつつあり、嫡流である氏頼派を圧しつつあるという風聞もあった。足利氏との繋がりを強固なものとし、己の力を強めようという狙いがあるのだろう。
そういう意味では、道誉も通清と似たタイプの野心家と言えた。
「――では、これにて」
今後のことについて打ち合わせをし、道誉・頼遠が退出すると、側に控えていた通清が思い出したかのように言った。
「そういえば。……かつて源頼朝公が武家の棟梁となられたのは、それに相応しき官位を得られたこともありますが、源氏の心の要・八幡神への信仰厚く、鶴岡八幡宮寺を大切になされたことも大きいものと思われますな」
「……」
神仏への信仰を軽んじる風潮もなくはないが、殺生を行う武士であっても――むしろ殺生を行う武士だからこそ、神仏への信仰は真摯なものであることが多い。
足利が源氏の嫡流としての道を目指すのであれば、八幡神を、ひいてはこの石清水八幡宮寺を粗略に扱ってはならない。通清は言外にそう念を押しているのである。
「今後とも、なにとぞよろしくお願い申し上げます」
それだけ告げて、通清は去っていく。
一人になって、ようやく重茂は肩の力を抜くことができた。
「妙なものだ。味方の方が油断ならぬ気がする」





