第252話「院というかいぬというか(陸)」
今は戦乱の世である。
公家といえど安穏な暮らしはしていられない。
眼前で戦を目の当たりにしたこともある。
人の命が失われるのを見たこともある。
ゆえに、西園寺公重はそれで戦というものを理解したつもりになっていた。
しかし、今この瞬間、それが浅はかな認識だったことを否応なく悟ることになる。
真正面から叩きつけられる、自分自身に直接向けられる殺意。
彼は、その生涯においてはじめて「殺される」という実感を知ることになった。
土岐頼遠は物憂げな表情をしたまま、流れるように弓矢を構えてきた。
あまりに自然な動作は美しさすらある。
公重だけでなく、その場の全員が反応し損ねた。
気づいたときにはもう遅い。
放たれた矢は、真っ直ぐ公重目掛けて飛んできた。
鋭い痛みがしたかと思うと、頬がじんわりと熱くなってくる。
手で触れると、べったりと赤い血がついていた。
矢が、頬をかすめていったのだ。
頼遠は涼し気な表情でこちらを見据えている。
この距離で、頼遠が矢を外すとは思えない。
わざと外したのだ。公重は死を実感した矢だったが、あくまで警告なのだろう。
まだ抵抗を続けるなら、今度は当てる。
それでも本当に光厳院のため、命を張るというのか。
頼遠は、無言でそう問いかけていた。
それが、死にはじめて直面した公重を刺激した。
「舐めるなよ、土岐頼遠」
手は震えている。
普段とは身体の感覚も違う。
熱に浮かされているような、別人になってしまったかのような気分である。
これは良くない兆候だ。そう分かっていても、公重は止まることができなかった。
頼遠の双眸が大きく開かれる。
公重が駆る馬が、頼遠の馬に向かってぶつかったからだ。
公重は大きく振りかぶって頼遠に斬りかかった。
頼遠は衝撃で体勢が僅かに崩れていたが、片手で咄嗟に刀を抜いてこれを防いだ。
「貴様ら武士と違って、我らは戦がなんたるかを理解しているわけではない。だが、コケにされて黙っていられるほど安い矜持を持っているわけでもない。公家を、見くびるなよ」
「舐めてなどいないが、なるほど、公重卿の気骨を見誤っていたことは認めなければならんか」
頼遠が力を込めて公重の刀を振り払う。
だが、公重はそれにもめげず再び打ちかかる。
頼遠と刀で斬り合うのも当然恐ろしかったが、それ以上に弓矢を持たせてはいけないという危機感があった。
あれは並大抵のものではない。古の鎮西八郎も人間離れした弓の使い手だったと聞いているが、頼遠もそれに引けを取らない。
彼に弓を取らせたら、公重たちの後方にいるであろう光厳院の車に達するかもしれない。
それだけは、なにがあっても避けなければならなかった。
「この男を囲め! 弓を持たすな!」
公重の言葉に応じて、他の護衛たちが頼遠のもとに殺到する。
頼遠の郎党が、そうはさせまいと護衛たちにぶつかっていく。
すぐさま乱闘が始まった。もはや小規模な戦と言ってもいい。
「無駄な足掻きはやめろ。でなければ、次はその脳天を撃ち抜かねばならぬ」
「そちらこそ、自棄を起こしたな。この場を切り抜けられたとしても、貴様は天下を敵に回すことになる。この暴挙で、貴様はすべてを失うことになる!」
「そんなことは承知の上だ。この先のことも、きちんと考えている」
頼遠はどうにか公重を振り切りたいのか、何度も刀を弾こうとしている。
公重は、死んでも手を離すまいと指に力を込め、弾かれそうになるたびに頼遠へと喰らいついていた。
「兄上も同じだ」
「なに?」
「貴様は、兄上が周囲に唆されて吉野院暗殺を企てたかの如く語った。だが、兄上は思慮の浅い男ではない。騙されることも、使い捨てにされることも想定した上での決断だったはずだ。この私とて想像がつくのだから、兄上が思い至らぬはずがない」
頼遠の表情に、かすかな動揺が走る。
「我らとて、ただ盲従しているわけではない。家を残すため、あらゆることを考えながら生きているのだ。そのためなら汚名も被るし犬にもなろう。こうして命を張ることだってしてみせよう。それを理解せず勝手に憐れむのは、兄上への侮辱だ」
一際強い力で、頼遠が公重の刀を弾いた。
なおも喰らいつこうとするが、意外にも頼遠は後ろに退いた。
「これ以上公重卿の相手をする暇はない。悪いがこれで失礼する」
「勝手は許さんぞ」
頼遠が弱気になった。
理由は分からないが、これは千載一遇の好機である。
今を除いて攻めどきはない。公重はそう確信して大声を張り上げた。
「そこの狼藉者を、捕らえろ!」
だが、それに応じる声を公重が聞くことはなかった。
次の瞬間、恐るべき速さで放たれた頼遠の矢が――彼の頭をぶち抜いたからである。
あちこちで乱闘が起きている。
自分に絡んでくる者たちを跳ね除けつつ、頼遠は少しずつ奥へ奥へと馬を向かわせていた。
あまり時間をかけることはできない。
既に近隣の住民はこの乱闘に気づいているだろう。
検非違使や足利方の治安担当が駆けつけてきてもおかしくなかった。
狙いは一点――光厳院が乗る車である。
常識外れ。
気が狂った。
余人はそう評するかもしれない。
だが、頼遠にはそうするだけの理由があった。
西園寺家を嵌めようとしたことに対する恨みもある。
しかし、最大の理由は光厳院一強という現状を打破するためだった。
暦応年間の戦に負け続けたことで、吉野は京への対抗勢力として大きく力を失った。
武力という点では足利がかなり優勢だが、今のところ帝や院と対立するのを極力避けようとしている。
かつての北条は、後鳥羽院を敵に回して打ち勝ったという実績があった。
だからこそ朝廷に対してある程度強く出られたし、朝廷の方も強者として利用しようとしたのだ。
足利にはそれがない。このまま恭順の姿勢を取るのであれば、平氏政権以前の武士の如く走狗のような扱いを受けることになってしまう。
このままだと、光厳院の下で天下がまとまってしまう。
乱世が終わるのは良いが、その後の天下で武士がどのような扱いになるかを考えると、到底歓迎できる気がしなかった。
だからこそ邦省親王擁立を企てたのだが、それも実現が厳しくなってきた。
京の政においては、どこまでいっても光厳院に分がある。
相手の土俵で勝負を挑んでも、負けるのは目に見えていた。
だったら、武士は武士の土俵――武力をもって訴えれば良い。
光厳院が邪魔だというなら、実力で排除すれば良いのだ。
というより、現状を変えようとするなら、他の手段はなかった。
「院。あなたは理想的な君主なのかもしれない。ただ、我らの望む君主ではない」
光厳院のものと思われる車が目に入った。
しかし、その車は既に襲撃者によって囲まれており、車輪が一部へし折られるなどの有様となっている。
「……なんだ?」
これは予定していなかった。
頼遠は、郎党に車を襲えとは言っていない。
ただ、自分の邪魔をする奴らをどかせと言っておいただけだ。
今回連れてきているのは、特に信頼できる者たちばかりである。
頼遠の指示にないことを、独断でやるとは思えなかった。
車を囲んで騒ぎ立てている者たちは、暗くて分かりにくいが、頼遠の郎党ではないような気がした。
その証拠に、頼遠がいくら「どけ」と言っても道を開ける気配がない。
「お前たちは、どこの者だ。今すぐにそこをどけ!」
頼遠の呼びかけに応じるかのように、どこからともなく石が飛んできた。
咄嗟に腕で弾き飛ばしたが、かなりの痛みが走った。
悪戯や牽制の類ではない。人を打ち倒そうと投げられた石である。
投げつけてきた人物はすぐ分かった。
闇に溶け込もうとしているようだが、場慣れした者だけが持つ独特の気配がある。
それが、却って頼遠には色濃く感じられた。
「悪いな。これ以上は見逃せない」
「決裂ということか――良忠殿」
良忠は、ニヤリと黙って笑ってみせた。





