9.バイオリンと私
この前のオーディションが終わってから死ぬほど練習を始めた。
学校では授業以外は防音室に直行して練習する。
家でも音楽室で寝るときと食べるとき以外は練習をする。
楽譜の読み込み、解釈、間の取り方、速度、弓運びの見直し。
私なんかの演奏はとても完璧とはいえない。
完璧ではないのであれば、桜さんのようにドラマティックに弾くべきではないのか。
可愛らしく可憐に。
ああ、だめだ。
春と冬が混ざってきてしまった。
頭には常に桜さんの演奏がちらついていた。
「いいかげんにしなさい! 他の事も疎かにしないという約束のはずだ」
「お父様。バイオリンさえあれば他に何も要りませんわ」
寝るときと食べるとき以外、ずっとバイオリンを放さない私に、とうとうお父様が声を荒げた。
厳しい顔のお父様を強く見据える。
「何を馬鹿な事を」
家の音楽室に乱入してきた両親二人に、出て行くようにドアを指差す。
「高校の時位自由にバイオリンをさせて下さらないであれば、この家を出て行きます」
ずっと思っていた事だった。
ずっとバイオリンだけしていたい私に、色々な習い事を強要する両親。
恵まれた環境なのかもしれない。
でも、恵まれた環境だと何故、自分の好きな事を追いかけられないのだろう。
最悪家を追い出されてもいい。
バイオリンをしていない私は私ではない。
バイオリンを抱えてどこかで倒れたって構わない。
「子供なのだから、ある程度は親の言う事を聞くべきではないのか?」
「親でしたら子供のしたい事を応援してくださらないのですか?」
私はするどく私を見るお父様を見返す。
お母様はおろおろと私とお父様を見比べている。
汗が額から目に伝った。
目を瞑りそうになるけれど、ここで目を瞑ってお父様の目を逸らしては駄目な気がした。
しばらくお父様と見つめあう。
「私は薫子の事を……」
お父様が何かを言いかけ、ふっと目を逸らした。
「勝手にしなさい」
目を伏目がちにして部屋を出て行く。
お母様が私に何か言いたそうにしていたが、続いて出て行った。
ここでお父様に追いすがり何か弁明をしなくてはならないのかもしれない。
だけれども、そんな気はおきなかった。
子供なら、女なら可愛くお願いして場を収めればいいような気がする。
いつも私は角が立つやり方で、こんな私で秋人さんの妻になって上手くいくのだろうか。
私は冷たい人間なのだと思う。
自己中心的な人間だと思う。
豊かであることの責任もとらずに、自分のやりたい事を押し通す。
秋人さんに捨てられても仕方ないのかもしれない。
そんな風に迷いが浮かんだ。
だけれども、バイオリンを手に取るとどうでもよくなった。
バイオリンを手に取ると、バイオリン以外のことは全て忘れた。
できる、という喜びを与えてくれる。
それは小さい頃から変わらなかった。
ピアノ教室で、バイオリンの甘い音色の虜になった。
ピアノ教室の、他の楽器を弾いてみようという企画で初めて弾いたときを覚えている。
私だけが、拙いけれどバイオリンの音を出せた。
皆は掠れた音しか出せなかったけれど。
何の面白みもなく冷たい人間の私に、素敵な曲を奏でるという安らぎを与えてくれる。
弾いていると、弦の震える複雑な音が私を包む。
練習すればする分だけ美しい音を出せるようになっていく。
美しい音を出すバイオリンと私が一つになったようで嬉しくてたまらない。
バイオリンは私、私はバイオリン。
………夕飯を食べるのも忘れて、バイオリンの練習を続ける。
バイオリンの音に何か違う音が混じった。
ふと、気づくと携帯が鳴っていた。
着信は秋人さんからだ。
なんだろう。
「はい」
「あ、薫子さん?」
私の耳に優しい微笑むような秋人さんの声が届いた。
バイオリン狂な主人公。