File.05 姫の学園混乱事件
返答に困っていると、教師が教卓を軽く叩いた。
「はい、私語はそこまで。テスト始めるぞ」
その一言で、教室は一瞬にして静まり返る。
響くのは、問題用紙が配られる乾いた音だけ。
莉美愛は、机の上に置かれた問題用紙をじっと見つめた。
当然ながら、そこに並ぶ文字は前世で使われていたものとは違う。
――だが、不思議と読むことはできた。
おそらく、前世の記憶が戻る前の“今の自分”が知っていた知識なのだろう。
しかし。
『五、作者の心情として最も適切なものを選びなさい』
「…………」
莉美愛は固まった。
(し、心情を選ぶ……?)
前世で学んだのは、政治、歴史、礼儀作法、剣術――そして魔法。
だが、“作者の気持ちを考える”などという授業は受けたことがない。
しかも問題文には、意味の分からない単語がいくつも並んでいる。
(まずい……。
文字は読めるのに、意味が分からないものが多すぎる……!)
額を冷たい汗が伝う。
周囲では、生徒たちが当然のように鉛筆を走らせていた。
カリカリカリ――。
その音だけが、やけに耳に残る。
(ど、どうする……!?)
焦る莉美愛の視界に、不意に別の問題が映った。
『あなたが最近嬉しかったことを書きなさい』
「……嬉しかったこと?」
小さく呟いた瞬間、ある光景が脳裏をよぎる。
城の外へ出ることも許されず、窓から空を眺めることしかできなかった日々。
自由を知らずに生きていた、あの頃の自分。
……そんな自分が、今はこうして学校に通っている。
家族と話して。
教師に怒られて。
慌てたり、戸惑ったりして。
誰かの笑い声に囲まれている。
気づけば、莉美愛は小さく微笑んでいた。
そして震える手で、ゆっくりと答えを書き始める。
――気づけば、終業のチャイムが鳴っていた。
「そこまで。後ろから回収しろー」
教師の声に、生徒たちが一斉に答案用紙を集めていく。
莉美愛も周囲を真似しながら、そっと紙を渡した。
(なんか……出来た気がする……!)
ほんの少しだけ、胸が高鳴る。
答案を集め終えた教師は、そのまま足早に教室を出ていった。
すると同時に、静かだった教室が一気に騒がしくなる。
「テストどうだった〜?」
「めっちゃ自信ある!」
「大問五の心情問題、なんて書いた?」
あちこちから会話が飛び交う。
やがて生徒たちは次々と教室を出ていき、莉美愛も流されるようについていった。
辿り着いたのは、小さな部屋が並ぶ場所だった。
周囲の生徒が次々と中へ入っていくのを見て、莉美愛も何気なく扉を開ける。
――その瞬間。
「キャーッ!!!」
悲鳴が上がった。
部屋の中にいた生徒たちが、一斉に莉美愛を見る。
そこでようやく気づいた。
そこは男子更衣室だったのだ。
(ま、またやってしまった……!?)
莉美愛は顔を真っ赤にしながら飛び出し、慌てて隣の更衣室へ駆け込む。
今度の部屋には、自分と同じ女子生徒たちがいた。
どうやらこちらが正解らしい。
莉美愛は周囲を見様見真似で着替え、再び生徒たちについていった。
辿り着いたのは校庭。
そこで体育教師がホイッスルを鳴らす。
「ピーッ!」
「始め!」
反射的に、莉美愛は地面に引かれたラインの内側へ入った。
次の瞬間。
相手側の陣地から、人の頭ほどもある球体が飛んでくる。
周囲の生徒たちは慌てて避けていた。
(なるほど。あれは危険な攻撃用の武器か)
そう判断した瞬間――
ボールが一直線に莉美愛へ飛来する。
反射的に、莉美愛は片手を突き出した。
そして、前世で最も得意としていた魔法を発動しようとする。
「――水神」
静かな詠唱。
その瞬間だった。
空気中の水分が集まり、巨大な水の塊となる。
それはうねりながら龍の形へ変化し、そのまま飛来したボールを丸ごと飲み込んだ。
――静寂。
校庭中が、凍りついたように固まる。
誰もが口を開けたまま、莉美愛を見つめていた。
「…………え?」
「は……?」
理解の追いついていない顔が並ぶ。
そして次の瞬間。
どこからか大声が響いた。
「あーっ!! こいつだ!!
さっき男子更衣室を覗いたやつ!!」
ざわっ――と空気が揺れる。
「え!? あの子!?」
「うそでしょ!?」
「ていうか今の何!? CG!?」
現実に存在するはずのない魔法。
そして男子更衣室侵入事件。
二つの衝撃が重なり、周囲は完全に混乱していた。
そんな中、莉美愛はひとり静かに頭を抱える。
(また……やってしまったか……)
絶望に打ちひしがれていた、その時だった。
「……っていうか、またアンタ!?」
隣から、聞き覚えのある声が飛んでくる。
振り向けば、朝に横断歩道で出会ったあの少女が、呆れたような顔で莉美愛を見ていた。
「さっきの何!? ていうか男子更衣室を覗いたって本当なの!?
莉美愛、本当におかしいよ!?」
「っ……!」
莉美愛の肩がびくりと震える。
恥ずかしい。
恥ずかしすぎる。
魔法を使ったことも。
男子更衣室に入ってしまったことも。
周囲の視線が、全部自分に向いていることも。
その全てが一気に押し寄せ、頭の中が真っ白になっていく。
「わ、私は……その……」
言葉がうまく出ない。
突然、視界がぐらりと揺れた。
熱い。
苦しい。
呼吸が浅くなる。
耳鳴りがして、地面が遠ざかっていく感覚に襲われる。
――そして。
バタッ。
莉美愛は、その場に倒れ込んだ。
校庭が一瞬、静まり返る。
「えっ!?」
「ちょ、倒れた!?」
「先生!!」
猛暑の熱気と、限界まで積み重なった羞恥。
それらが一気に押し寄せ、莉美愛の意識を奪ったのだ。
生徒たちが慌てて駆け寄る。
体育教師も険しい顔で近づこうとした――その瞬間だった。
ふわり、と。
莉美愛の身体を中心に、黒い靄のようなものが広がり始める。
「……なに、あれ」
誰かが震えた声で呟く。
靄はゆっくりと地面を這い、まるで生き物のように揺らめいていた。
異様な空気に、その場にいた全員が息を呑む。
体育教師でさえ足を止めた。
そして――
どこからともなく、低く濁った声が響く。
『ヒメハ……ワタシガ、ツレテイク』
ぞわり、と空気が震えた。
黒い靄はさらに濃くなり、倒れている莉美愛の身体を包み込んでいく。
「ま、待て!!」
誰かが叫ぶ。
だが、その声も虚しく。
靄の中へ、莉美愛の姿はゆっくりと沈んでいった。
誰も動けなかった。
理解が追いつかなかった。
ただ、“何かとてつもなく危険なもの”が現れたことだけは、本能的に分かっていた。
そして――。
意識を失っている莉美愛は、自分が何者かに連れ去られようとしていることなど知る由もなく、深い闇の中へ沈んでいく。
その先で待っていたのは。
かつて閉じ込められていた、あの城の記憶。
自由を知らなかった頃の、幼い日の夢だった。




