第7話:『不戦条約の破棄は、宣戦布告と同じだとお気付きかしら?』
ドラクロワ帝国、帝都の一角に構えられた私の執務室。
磨き上げられた黒檀の机の上に、一枚の契約書が置かれていました。
隣国ベルグ王国との『不戦保証契約』。差出人の欄には、私の名――エレノラ・フォン・ロスタールの署名が記されています。
「シエル。この契約、本日付で『保証打ち切り』の手続きを」
「……よろしいのですか、お嬢様。これを切れば、ベルグはアルテマへ雪崩れ込みますわ」
「ええ。だからこそ、ですわ」
私は羽ペンを取り、署名の上に、横一文字の取り消し線を引きました。
たった一本の線。けれど、この線がアルテマ王国の北の国境を、戦火へと開け放つ鍵でした。
ベルグ王国の軍資金は、その半分を私のダミー商会が低金利で融資しています。『返済は急ぎませんわ』という私の保証があるからこそ、あの欲深な国は今日まで剣を鞘に収めていた。
その保証を引き抜けば、彼らは手っ取り早く、隣国の倉庫を略奪して資金を回収しにかかるでしょう。
「これで、アルテマには『外から押し寄せる現実』を一つ、お贈りできますわ。……さて」
私は線を引いたばかりの契約書を、シエルへと差し出しました。
ちょうどその時、扉の外が、にわかに騒がしくなりました。
「お引き取りください! ご面会の予約は――」
「予約だと!? 私はアルテマ王国の財務卿だぞ! エレノラ様に取り次げ、国の一大事なのだ!」
聞き覚えのある、肥えた声。
扉を押し開けて転がり込んできたのは、かつて私の予算案を「女だてらに数字を弄ぶ小娘の戯言」と鼻で笑い、目の前で破り捨てた、財務卿バルトロ公爵その人でした。
仕立ての良かったはずの上着は埃にまみれ、立派だった腹も、わずか数日で萎んで見えます。国境を越えてここまで、馬を乗り継いで駆けてきたのでしょう。
「あら、財務卿。帝国までわざわざ足をお運びとは。……アルテマの国庫は、馬代も出せないほど空だと伺っておりましたけれど?」
「エ、エレノラ様……っ! どうか、どうかお慈悲を! ベルグが、ベルグ王国が条約を破棄し、三千の重装騎兵が国境に集結しております! あなた様の、あなた様の保証さえあれば、彼らは矛を収めるはず! どうか今一度、署名を……っ!」
彼は床に這いつくばり、私の靴の先に額を擦りつけんばかりに頭を垂れました。
私はその姿を、机の縁に腰を預けたまま、静かに見下ろします。
「おかしなことを仰いますのね、財務卿。あなたは半年前、私にこう仰いましたわ。『外交とは王家の印章があれば済む話。令嬢の人脈など、国家には不要だ』と。……どうぞ、その立派な王家の印章を、ベルグの王にお見せになって? 矛が収まるとよろしいですわね」
「あ、あれは……あれは、私の不明でございました! ベルグが結んでいたのが、王国ではなく、あなた様『個人』との約束であったとは……」
「ええ。外交には常に『担保』が要りますの。そしてこの国の担保は、王家の血でも印章でもなく、私という一人の人間が十年かけて積み上げた『この女が言うなら間違いない』という信用――ただ、それだけでしたのよ」
私は身を起こし、震える財務卿の前に、先ほど取り消し線を引いた契約書を、ひらりと落としました。
「ご覧なさい。これが、あなた方が『不要』と切り捨てた私の署名ですわ。今し方、私の手で抹消いたしました。……アルテマ王国にもう、ベルグの矛を止めるものは、何一つございません」
「そんな……っ! それでは、王都が……民が……っ!」
「民、ですか」
私は、ほんの少しだけ目を細めました。
「その民から税を搾り取り、リリアナ様の『炊き出し』とやらで予備費まで食い潰し、私が帳簿の穴を埋めていたことすら知らなかったあなた方が、今になって『民』を口になさるのね。……その言葉、半年前に仰っていれば、私も少しは考えましたものを」
財務卿は、言葉を失いました。
その沈黙を破るように、執務室の窓の外、帝都の両替商が立ち並ぶ通りから、ざわめきが伝わってきます。
「お嬢様。為替の報せです。……ただ今、アルテマ銀貨の対帝国金貨レート、額面の半値を割りました」
シエルの淡々とした報告に、財務卿の顔が、紙のように白くなりました。
戦が始まる前から、彼の国の通貨は、すでに死に始めているのです。
「お聞きの通りですわ、財務卿。あなたが馬を乗り継いでここへ来る間に、アルテマの銀貨は、その価値の半分を失いました。……戦費を、その紙くずでお支払いになるおつもり?」
「ま、待ってくれ……エレノラ様、いや、エレノラ殿……っ! なんでもする、なんでもいたします! ですから、どうか……っ!」
「では、一つだけ」
私は、扇を広げて口元を隠しました。
「アルテマへお戻りになったら、セドリック殿下にこうお伝えなさいな。――『あなたが冷酷と罵り、追い出した女の署名一つが、三千の騎兵より重うございました』と。それが、私からの唯一の餞別ですわ」
帝国騎士に促され、財務卿は引きずられるように執務室を後にしました。
扉が閉まると、奥の長椅子に腰掛けて一部始終を眺めていたアラリック様が、低く笑いました。
「……相変わらず、容赦のない女だ。あの男、王都へ戻る頃には、その王都ごと無くなっているかもしれんぞ」
「あら、陛下。私はただ、貸したものを返していただけませんと申し上げただけですわ。……戦を始めるのも、通貨を殺すのも、決めたのは私を『不要』と切り捨てた、あの方々ですもの」
私は窓辺に立ち、北の空を見上げました。
まだ砲煙も見えぬその空の下で、アルテマ王国の数字は、もう静かに崩れ始めています。
「終わりの始まりは、いつも数字と共に、こうして音もなくやってくるのですわ」
第7話、お読みいただきありがとうございます。
今回から、エレノラが「自分の手で」引き金を引く回です。遠くから眺めるのではなく、追いすがってきた財務卿を真正面から突き放す――その冷たさ、楽しんでいただけましたでしょうか。
「あなたの署名一つが、三千の騎兵より重い」。半年前にそれを理解していれば、と悔やむ財務卿の顔が目に浮かびますわね。
これから始まるのは、武力ではなく「経済」による静かな侵略。
エレノラ様の「損切り」の続きを早く読みたい!という方は、ぜひ【ブックマーク】と【評価】をお願いいたします。
あなたの評価一つが、隣国の騎兵をさらに一千人増員させますわ!
次回、第8話は『どうぞ、その「真実の愛」を担保に借金なさってください』。
金が尽きた王宮へ、エレノラの「手足」が一枚の契約書を携えて乗り込みます。
どうぞお楽しみに!




