第7話:『不戦条約の破棄は、宣戦布告と同じだとお気付きかしら?』
エレノラ・フォン・ロスタールが去ってから、わずか三日後のことでした。
アルテマ王国の王宮、その重厚な会議室には、怒号と悲鳴に似た報告が絶え間なく響き渡っていました。
「報告します! 北方の国境守備隊より緊急伝令! 隣国ベルグ王国が、突如として不戦条約の破棄を宣言! 現在、三千の重装騎兵が国境付近に集結中とのことです!」
「馬鹿な! ベルグ王国とは、エレノラとの婚約期間中、不可侵の密約を結んでいたはずだ!」
玉座の前で、セドリック王太子が机を叩いて叫びました。
その隣には、不安げに彼の袖を掴むリリアナ様の姿。彼女はドレスの裾を震わせ、まるで理解できない言語を聞いているかのような、空虚な表情を浮かべています。
そこへ、青ざめた顔の外交官が駆け込んできました。
「で、殿下! その『密約』ですが……。ベルグ王国の国王からの親書によれば、『我々が条約を結んでいたのは、エレノラ・フォン・ロスタールという個人に対してであり、彼女を追放したアルテマ王国との約束など、毛頭ない』とのことです!」
「個人に対してだと……!? ふざけるな、彼女はただの公爵令嬢だぞ!」
「いいえ、殿下……。エレノラ様は、ベルグ王国の特産品である羊毛の全流通ルートを、個人の商会で独占し、かつあちらの王室債務の半分を肩代わりしていらっしゃったのです。彼女が保証人でない以上、あちらにとって我が国を侵略しない理由は、どこにもございません!」
外交官の絶望的な言葉。
セドリック殿下の顔が、怒りから徐々に、正体不明の『恐怖』へと染まっていくのが分かりました。
彼は気づいていなかったのです。
外交とは、王室の印章があれば済むような形式的なものではない。
そこには常に『担保』が必要であり、この国の担保はすべて、エレノラという一人の少女が、その知略と財力で積み上げてきた信頼そのものだったということに。
「……セ、セドリック様。大丈夫ですわ。わたくしが、わたくしの『聖女の祈り』で、きっと戦争なんて――」
「黙っていろリリアナ! 祈りだけで腹が膨れるか! 祈りだけで敵の騎兵が止まるとでも思っているのか!」
セドリック殿下が、初めてリリアナ様に向けて、怒声を浴びせました。
リリアナ様は衝撃に目を見開き、一歩後ずさります。
かつての甘い愛の言葉は、危機という現実の前に、あっけなく霧散してしまったようです。
その頃。
帝国の国境を越えた先にある、風光明媚な湖畔の別荘。
私は、アラリック皇帝陛下と共に、優雅なアフタヌーンティーを楽しんでおりました。
「……ククク。ベルグ王国が動いたか。やはりな。あの国の王は欲深だが、エレノラ、君の目はもっと鋭かったようだ」
アラリック様が、報告書を暖炉に放り込みながら笑います。
私は、最高級のダージリンを一口含み、静かに微笑みを返しました。
「当然ですわ。ベルグ王国の軍資金を、私のダミー商会が低金利で融資していたのですもの。私が『返済は急ぎませんわ』という保証を打ち切れば、あちらは手っ取り早く略奪で資金を得るしかありません。……あちらの国境守備隊の士気が、今頃どうなっているか、想像するだけで心が痛みますわね」
「……君の『心が痛む』という言葉ほど、信用できないものはないな」
アラリック様が、私の手を取り、その甲に熱い接吻を落としました。
その瞳には、私という『知略の化身』を、自分だけのものにしたいという独占欲が渦巻いています。
「陛下、これはまだ序章に過ぎませんわ。……王国がベルグ王国との防衛戦に躍起になっている間に、私はこの帝国で、新しい『ルール』を作らせていただきます」
「ルールだと?」
「ええ。アルテマ王国の通貨を、法的に『不渡り』として扱うよう、全大陸の銀行に布告を出します。戦火の中で通貨が死ねば、あの国は武器を買うことすらできなくなりますもの」
私は、窓の外に広がる帝国の豊かな山々を見つめました。
王国を去る際、私が仕掛けた地雷は一つや二つではありません。
踏むたびに、彼らは自らの愚かさを、血と涙で購うことになるでしょう。
「準備はすべて整いましたわ。……さあ、セドリック殿下。聖女様の隣で、せいぜい豪華な『敗北の味』を噛み締めなさいな」
その日、アルテマ王国の銀貨の価値は、昨日の半分にまで暴落しました。
終わりの始まりは、いつも静かに、そして数字と共にやってくるのです。
第7話、お読みいただきありがとうございます。
去った後に、エレノラがどれほど「防波堤」として機能していたかが浮き彫りになる回でした。
愛だけで国は守れない……。現実を突きつけられた王子の叫び、いかがでしたか?
これから始まるのは、武力ではなく「経済」による静かな侵略です。
エレノラ様の「損切り」の続きを早く読みたい!という方は、ぜひ【ブックマーク】と【評価】をお願いいたします。
あなたの評価一つが、隣国の騎兵をさらに一千人増員させますわ!
次回、第8話は『どうぞ、その「真実の愛」を担保に借金なさってください』。
金が尽きた王宮で、ついにリリアナが「ある行動」に出ます。
どうぞお楽しみに!




