第3話:『王家の印章より、私のサインの方が価値がありますの』
宝石が没収され、床に崩れ落ちたリリアナ様。その隣で、怒りと屈辱に震えながらも、一歩も動けないセドリック殿下。
会場を支配していた華やかな空気は、今や完全に、葬儀場のような重苦しさに取って代わられていた。
私が扇で口元を隠し、冷ややかにその光景を眺めていると、人混みをかき分けて一人の老人が這いずるようにして進み出てきた。
「エ、エレノラ様! 少々、少々よろしいでしょうか……っ!」
この国の財務卿、バルトロ公爵だ。
かつて私が王宮の執務室で予算案の修正を具申した際、『女だてらに数字を弄ぶ生意気な小娘が、国家の運営に口を出すな』と鼻で笑い、私の提出した書類を目の前で破り捨てた男である。
その男が今、額に滝のような汗を浮かべ、膝を震わせながら私に縋り付いている。
「あら、財務卿。このようなおめでたい席で、随分と慌ただしいことですわね。新しい王太子妃殿下の誕生を、共にお祝いなさらないの?」
「そ、そのような冗談を仰っている場合ではございません! 来週……来週行われる、王宮騎士団および文官一千名への給与支払いですが、どうか、どうかあと数日だけ、ロスタール公爵家の信用枠を使わせていただけないでしょうか! このままでは、今月末の決済が間に合いません!」
彼の悲鳴に近い声に、会場の貴族たちが一斉にざわめき立った。
特に、壁際に控えていた近衛騎士たちの顔色が、一瞬で土気色に変わる。
「……何だと? 給料が支払われない、だと?」
「おい、今月のローンの支払いはどうすればいいんだ……」
騎士たちの間に走る動揺。それを、私は優雅に、冷徹に切り捨てた。
「おかしなことを仰いますのね、財務卿。あなたは以前、私にこう仰いましたわ。『王国の運営に令嬢の助けなど不要だ。この王家の印章さえあれば、金などいくらでも動く』と。……殿下の愛の印章をお使いになればよろしいのではなくて?」
「そ、それは……! あの時は、あなたの重要性を理解していなかったのです! ですが、今は、あなたの『署名』がなければ、大商会も他国の中央銀行も、王国の国債を一枚たりとも引き受けてくれないのです!」
当然ですわ。
この国の信用は、王家の血統にあるのではない。
私――エレノラ・フォン・ロスタールが、これまで十年かけて築き上げてきた『盤石な支払い実績』と『冷徹な利益管理』に紐付いていたのですから。
私が「この国は大丈夫です」とサインを添えるからこそ、投資家たちは紙屑同然の王国債を買い取っていたに過ぎない。
「残念ながら、殿下が婚約破棄を宣言された際、私はすべての『個人保証契約』および『債務肩代わり合意書』を破棄いたしました。今、この国の印章が押された借用書を市場に持って行っても、良くて暖炉の薪にしかなりませんわよ」
「そんな……! そんな殺生な……っ!」
財務卿が絶望に顔を覆う。
その背後で、セドリック殿下がようやく声を絞り出した。
「ふ、ふざけるな! 私は王太子だぞ! 不敬だぞ、エレノラ! 金など、貴様の公爵家から没収すれば済むことではないか!」
その言葉が出た瞬間、会場にいた有力貴族たちの数名が、露骨に王子から距離を取った。
「自分の失態を、貴族の私産没収で解決しようとする王」など、誰が支持するものですか。
「殿下、どうぞお忘れなく。ロスタール家の資産の八割は、すでに国外の銀行へと移転済みです。没収なさるならどうぞ? 空っぽの倉庫と、山のような借用書が手に入りますわ。……ああ、そうだわ。騎士団の皆様には、こうお伝えなさいな」
私は、殺気立ち始めた騎士たちへと視線を巡らせ、微笑んだ。
「『殿下の真実の愛を、給料の代わりに受け取ってほしい』と。リリアナ様、あなたの『愛』は、騎士たち一千名の生活を支えられるほど、重くて価値のあるものですのよね?」
「え……っ、あ、あの……わたくし……」
リリアナが絶句し、震えながら後ずさる。
彼女に向けられる騎士たちの視線は、もはや「聖女」を敬うそれではなく、自分たちの生活を破壊した「戦犯」を射抜く凶器そのものだった。
「お嬢様、お迎えの時間が参りました」
シエルの静かな声が、この修羅場に終止符を打つ。
会場の正面玄関が乱暴に押し開かれ、漆黒の軍服に身を包んだ、この国の者ではない兵士たちが雪崩れ込んできた。
彼らが道を作る。
その中央を、堂々たる足取りで歩いてくるのは――。
「……私の大切なビジネスパートナーを、これ以上困らせないでもらおうか。沈みゆく泥船の船長殿」
隣国ドラクロワ帝国の若き皇帝、アラリック・ヴァン・ドラクロワ。
大陸最大の経済圏を支配する「世界の債権者」が、不敵な笑みを浮かべて私の隣に立った。
「こ、皇帝陛下!? な、何故ここに……」
「エレノラを回収しに来た。……セドリック、貴様には後で『利子』を含めた請求書を送らせる。これまでの経済援助、すべて今この瞬間をもって『即時返済』を要求させてもらうぞ」
セドリック殿下の顔から、完全に血の気が引いた。
私は皇帝の差し出した手を取り、一度も振り返ることなく歩き出す。
背後から聞こえてくるのは、財務卿の泣き声と、行き場を失った騎士たちの怒号。
そして――。
「待て! 待ってくれエレノラ! 悪かった、私が間違っていた! 話を聞いてくれ!」
惨めに叫ぶ王子の声を、私は夜の風の中に捨て去った。
準備は、すべて整いましたわ。
この国が、自らの傲慢さゆえに飢え、凍え、歴史から消える準備が。
第3話、お読みいただきありがとうございます。
「真実の愛」の対価は、一国の破産でした。
騎士団の給料を盾に取られ、ようやく自分がしでかした事の重大さに気づくセドリック王子。
ですが、エレノラのサインはもう二度と、王国の書類に記されることはありません。
皇帝アラリックと共に去るエレノラの背中に、「ざまぁ!」と心の中で叫んでくださった方は、ぜひ【ブックマーク】をお願いいたします。
次回、第4話は『聖女様の「奇跡」を会計学的に分析いたしました』。
リリアナが現代知識でドヤ顔で作った「あの特産品」が、実は王国を蝕む毒だったことが暴かれます。
どうぞお楽しみに!




