第二十五話 欠陥品
春になった。
アルテミアの庭に、白薔薇が咲いた。
父が持ってきた鉢から、冬を越して、一輪だけ花をつけた。エルカリナ家に代々伝わる白い薔薇が、アルテミアの土の上で初めて咲いた朝、ルミナはそれを見つけて、長い間そこに立っていた。
白かった。
曇りのない、純粋な白だった。
「咲きましたね」
背後からザイルの声がした。
「はい」
「お父上が喜びそうです」
「もう見ています。朝一番で来て、一時間ほど眺めていました。研究ノートに記録していました、アルテミアで初めて開花した日として」
「そうですか」
ザイルが隣に立った。
二人で、白薔薇を見た。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたは今、幸せですか」
ルミナは少し考えた。
幸せ、という言葉を自分に当てはめることを、ルミナはあまりしてこなかった。役に立てているか、正しく動けているか、家の名に恥じない行動ができているか——そういうことを考えることはあった。しかし幸せかどうか、という問いを、自分に向けたことは少なかった。
「……はい」
答えは、思ったよりすぐに出た。
「幸せです」
「何が」
「何が、と聞きますか」
「聞きます」
ルミナは白薔薇を見た。
「この庭が好きです。書庫が好きです。父が毎朝研究室で何かを呟く声が聞こえるのが好きです。あなたが窓際で本を読んでいるのが好きです。クロードがお茶を持ってきてくれるのが好きです」
「そういう答えが来るとは思っていませんでした」
「どんな答えを期待していましたか」
「もっと大きな話かと」
「大きな話は、毎日の積み重ねでできています」ルミナはザイルを見た。「あなたも、そう思いませんか」
ザイルが少しの間考えた。
「……そうかもしれません」
「一年前のあなたは、食事を一人でしていました」
「はい」
「今は違います」
「……今は、違います」
「それが、大きな話だと私は思っています」
ザイルが黙った。言葉にしていいかどうかを考えているときの、あの沈黙だった。
「ルミナ」
「はい」
「一つ、言っていいですか」
「どうぞ」
「式典の場で、あなたを初めて見たとき」ザイルが少し止まった。「あなたのそばで、初めて魔力が静まった。そのとき、婚約者がいると知っていた。だから諦めた」
「知っています」
「しかしあの場を見て、諦められなくなった」
「……知っています」
「あなたがここにいてくれて、よかった」
ルミナは白薔薇を見た。
風が吹いて、花びらが揺れた。
「私も」とルミナは言った。「ここに来て、よかったです」
「母国を、後悔しますか」
「後悔しません」ルミナは即答した。「あの国で生まれて、あの家で育って、あの才を持って生まれたことも。式典の日に倒れたことも。後悔しません」
「全部、ですか」
「全部、です」
「……それが言えるのは」とザイルが言った。「今が幸せだから、ですか」
ルミナは少し考えた。
「今が幸せだから、でもあります。でも、それだけではないかもしれません」
「どういうことですか」
「あの日に倒れなければ、ここへ来なかった。ここへ来なければ、才の意味がわからなかった。才の意味がわからなければ、王都を救えなかった。すべてが繋がっています」
ルミナは白薔薇を見た。
「流れは、整えることができます。しかし流れそのものを、止めることはできない。起きたことは起きた。しかしその流れがどこへ向かうかを、選ぶことができる」
「制御の理論、ですね」
「ええ。祖父はそれを魔力で語っていましたが、人生も同じかもしれないと、今は思っています」
ルミナは母の指輪を見た。
翡翠が、春の光を受けていた。
「欠陥品と呼ばれた才が、王都を救いました。欠陥品と呼ばれたから、ここへ来ました。欠陥品と呼ばれたから、あなたに会えました」
ルミナは翡翠色の目で、真っすぐに空を見た。
アルテミアの春の空は、深く青かった。
「欠陥品で、よかった」
その言葉が、静かに庭に溶けた。
ザイルが、隣に立っていた。
いつもと違うことが一つだけあった。
その手が、そっと、ルミナの手に触れていた。
ルミナはそのまま、空を見続けた。
手を、握り返した。
風が庭を抜けて、白薔薇を揺らした。
エルカリナ家の白薔薇が、アルテミアの春に咲いていた。
これが、始まりだと思った。
式典の石畳に倒れた日が終わりではなく、あの日から始まった物語が、今日また新しい頁を開く。
ルミナ・エルカリナは、欠陥品ではなかった。
制御者だった。
調律者だった。
魔力の流れを整え、乱れを感知し、本来の流れへと導く者だった。
その才は、抑え込むためのものではなかった。閉じ込めるためのものではなかった。流れるために、流れる先を見つけるために、あったのだった。
そして今、アルテミアの春の庭で、白薔薇の前で、確かに幸せだった。
隣に、ザイルがいた。
その手を握ったまま、ルミナは青い空を見上げた。
遠くで、鳥が鳴いた。
白薔薇が、もう一度揺れた。
———
完
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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